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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 横河原のくらし

(1)地区のお祭り

 ア 春祭り

 「横河原の春祭りは、毎年5月5日に水天宮(すいてんぐう)で実施されていました(図表1-1-2のア参照)。以前はお祝いの諸行事で、青年相撲や剣道や青年芝居などをしていました。戦前、私(Aさん)が青年団で活動したときには、東温5か村から相撲に取り組む人が集まり、青年相撲が行われていました。終戦後は相撲や剣道は一時やめていましたが、昭和23年(1948年)に再開されました。その後、青年相撲は、青年団の団員が少なくなり、昭和32年(1957年)から昭和35年(1960年)のころに行われなくなりました。また、水天宮の境内の公民館の前には小屋が建てられて青年芝居が演じられていました。小屋に使用していた柱は、全て水天宮のお宮に片付けられて保管されていました。青年芝居は皆で熱心に取り組んでいましたが、これも昭和35年ころには行われなくなりました。
 私(Cさん)が子どものころの春祭りには、お昼になると私のいとこや母の姪(めい)など20人ほどが家に集まり、家の2階は20畳ほどの広さがあったので、そこに料理を並べて、全員で一緒に食事をしていました。皆喜んでよく寄ってくれていました。
 昭和30年(1955年)に結成された、横河原商工連盟による街頭踊り連が、横河原駅から水天宮まで練り出しをしていました。三味線で弾く横河原音頭に合わせながら、子どもたちが頭に花笠をかぶって踊り練っていたのを憶えていますが、あまり長くは続かなかったように思います。私(Cさん)の伯母が三味線を教えていて、私も習わされましたが、練習するのがとても嫌でした。春祭りでは母と一緒に三味線を弾きながら街を練り歩きました。」

 イ 夏祭り

 「戦後、横河原橋の東にある公園になっている場所で、商店の人たちによって臨時の櫓(やぐら)が組まれ、盆踊りが開催されていました。最初、盆踊りの場所を作るため、父をはじめ商店の人達が石を拾いに行ったのを憶えていますが、私(Cさん)自身はそこで踊った記憶がありません。小さな規模で始められましたが、それが順々に大きな祭りになり、昭和34年(1959年)からは観月祭(かんげつさい)となりました。いつのころからか、夏祭りでは芋炊きをはじめ、いろいろな料理を作っていました。」

 ウ 秋祭り

 「水天宮で行われた秋祭りは、10月16日の午前4時か5時の宮出しに始まり、日付が変わるころまで丸一日行われていました。60数年前の、昭和20年代、私(Cさん)が子どものころは、朝、宮出しへ行くのが結構寒かったので、秋祭りのために作ってもらった綿入れの着物を着ていたのを憶えています。樋口(ひのくち)には三島神社と八幡(はちまん)さん(客八幡神社)の二つのお宮があり、三島神社は15日、八幡さんは16日が祭礼日でした。金毘羅街道と駅前の南北に延びる道との十字路で樋口の八幡神社と、川上(旧川内町)のどこかは分かりませんが、それぞれ神輿(みこし)が一基ずつ来て16日から日付が変わる17日ごろに神輿同士の鉢合わせをしていました。鉢合わせを見るために、多くの観客が待っていました。観客は、川上や樋口の人もいたのかもしれませんが、横河原の人が多かったと思います。」

(2)娯楽

 ア 映画館

 「戦時中、『小学生は、映画館に出入りしてはいかん。』と学校から言われていました。それでも、学校の行事で映画館に行って観せられた映画がいくつかありました。私(Bさん)が一番記憶に残っているのは、『ハワイ・マレー沖海戦』です。これは、全校生徒が横河原の旭館(あさひかん)で観た国策映画でした(図表1-1-2のス参照)。映画を上映する劇場は、横河原のほかに、田窪や川上にもありました。各映画館それぞれに興行師がいて、2館以上で同じ映画を上映するときには、双方でフィルムを半分ずつ輸送していました。当時の映画フィルムはよく切れていたのを憶えています。また、『霧島昇来たる』の看板が立っていたのを憶えています。有名な歌手や俳優は出演料が高いので、同じ人物の興行を、同一日に複数の会場で行って費用を抑えていました。普通は、有名人が田舎の劇場に来ることはないのですが、食糧難の時代だったこともあって、この辺りの農村まで来ていたのかもしれません。戦争が激しくなってくると、見奈良駅の近くにあったゴルフ場を軍の飛行場にするための作業が行われ、終戦前には、学校や寺だけでなく、劇場までそれらの作業に従事する兵隊たちの宿になっていました。
 戦後も旭館では映画や芝居をしていました。私(Eさん)の祖母は田舎芝居が好きだったので、私が子どものときに旭館で上演があるときには座布団を持って会場へ行き、祖母のために座席取りをしていました。また、徳島の人形浄瑠璃も旭館によく来ていて、横河原に住む村の名士が浄瑠璃を嗜(たしな)んでいたので、上演されていたのではないかと思います。
 横河原の映画館としては、旭館が昭和30年代には閉館したが、昭和28年(1953年)にできたユニオン劇場は、昭和42年(1967年)まで開館していました(図表1-1-2のイ参照)。私(Eさん)は、ユニオン劇場で、昭和32年(1957年)に公開された、石原裕次郎主演の『鷲(わし)と鷹(たか)』を何度も観に行っていました。」

 イ 相撲巡業

 「昭和30年(1955年)よりも前のことですが、水天宮で、大相撲の力士による相撲巡業が行われていました。境内にテントを張って特設相撲場が造られ、観覧席も設けられていました。力士が松山から来るときには、小さな客車で運行されていた坊っちゃん列車が利用されていましたが力士の中でも大起(おおだち)(大起男右ェ門(だんえもん))という、ものすごい巨体の力士などは、体を横に向けてやっと客車に乗降することができる状態でした。大内山(おおうちやま)(大内山平吉(へいきち))や鏡里(かがみさと)なども体が大きい力士でした。大阪の相撲部屋で行司をしていた人が中心となって、この大相撲興行が行われていました。」

 ウ テレビ

 「私(Eさん)のうちは、理容店を営んでいたので、早くから店内にテレビを置いていました(図表1-1-2のオ参照)。中学校の1、2年生(昭和32、33年〔1957、1958年〕)のころに購入していたと思います。当時は学校から帰宅すると、近所の製材所の人たちがテレビを見るために押しかけて来ていて、家に入れない状態でした。多くの家で買い始めたのが、昭和39年(1964年)の東京オリンピックのころでした。そのころはまだ、多くが白黒テレビだったと思います。オリンピックの開会式からテレビ中継がカラーになり、私(Dさん)は職場で初めてカラー中継を見ることができました。」

 エ 子どもの世界

 (ア)外での遊び

 「私(Bさん)が子どものころは、友だちとボールの蹴(け)つり合いこをして遊んでいましたが、そのとき使うのはあまり良いボールではなく、空気の抜けたようなボールでした。サッカ-のようなことをしたり、綿屑(くず)を集めて布で縫ったボールで、野球のようなことをしたりして遊んでいました。
 私(Cさん)は、正月には友だちと羽根突きや縄跳び、石蹴りや缶蹴りをして遊んでいました。松の宿り木には『ミドリ(松グミ)』という、お米ぐらいの大きさの粒が付いていました。その粒を何度もかむと風船ガムのように膨らんでいました。また、昔は、松の幹には斜めに切り込み線が入れられて松根油(しょうこんゆ)が取られていたので、どのようにしてミドリを採っていたのか憶えていません。最近は重信川の土手の松が少なくなり、ミドリも見たことがありません。河原へ行って焚き付けに使う松の落ち葉を、遊びを兼ねて集めていました。内土手と外土手(重信川の川側の土手と横河原側の土手)の間には草むらがあり、そこにチャタケやハツタケなどのキノコが出ていたら採ったり、シャシャブ(アキグミ)の葉を摘んで帰ってお茶葉にしていました。
 金毘羅街道と旧国道11号が交わる所には、現在、愛媛大学医学部がありますが、それ以前は大学の東門の辺りが土手で、その奥に前川(まえかわ)池がありました。前川池は地元では、『かご池』と呼ばれる農業用のため池でした。『かご池』は、小学校の運動場から田んぼ道を通れば直線で行ける所にありました。『かご池』には二つの池があり、北側を『前(まえ)池』、南側を『奥(おく)池』と呼んでいました。小学生のころに『奥池』では、何人か亡くなっている人がいたので、私(Cさん)は親から、『奥池で泳がないように。』と言われていました。池の中には藻が生えていて、底が泥だったので、足に藻が絡んだりして気持ちが悪かったのですが、それでも泳ぎに行くのは楽しかったことを憶えています。家の近くの泉川では、板で仕切りをして川の水を止めて、水遊びをしたり、水量が多くあると泳いだりしていました。」

 (イ)お節句の楽しみ

 「私(Cさん)の子どものころは、戦時中でモノがなかったので、今のような豪華な雛(ひな)人形は持っていませんでしたが、私の生家には、大きな土(つち)雛の『野田(のだ)天神』があり、それはとても古く土に衣装が描かれたものでした。小学校に入学するときに、祖父が尉姥(じょうとんば)(じょうとうば、謡曲『高砂(たかさご)』に登場する老翁老嫗)の人形を買って、持たせてくれました。その後、家の向かいにあった提灯(ちょうちん)屋さんがお雛様を扱っていたので、そこで母が私に藤娘(ふじむすめ)の人形を買ってくれました。
 私(Cさん)が子どものときに見た横河原の河原は、いたる所に大きな石がある自然な河原でした。春のお節句には小さな塗(ぬ)りの四段のお重に料理を詰めたお弁当を持って友達と河原へ行き、全部食べては家に帰って、また詰めてもらっていたのを憶えています。あるとき花が少なくて『花見じゃない石見じゃね。』と言いながら、お弁当を食べて石を積み重ねたりして遊んでいました。私の生家が農家で、米などは手に入れることができていたので食糧事情は良かった方でしたが、戦時中のモノがない時代にお弁当を作ってくれて、うれしかったのを憶えています。」

 (ウ)店の手伝い

 「私(Cさん)のうちでは、商店を営んでおり、子どものころは、お客さんが買ってくれた商品を入れるための袋を、新聞紙を糊(のり)で貼り合わせて作っていました。醤油などの商品は量り売りをしていたので、私はお客さんが求める量を容器に入れる手伝いをしていました。昭和30年(1955年)ころには、昆布が束で店に送られて来ていたので、それを量り、販売用に小分けしたものを小さな束にして店頭に出していました。手が荒れている状態でこの作業をすると、昆布に着いていた塩が染(し)みてかなり痛い思いをしたのを憶えています。」