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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 「とる漁業」と「つくる漁業」

 戦後から昭和40年代後半ころまでの旧魚島村、旧弓削町の漁業の変遷とその特色について、魚島ではAさん(昭和19年生まれ)、Bさん(昭和24年生まれ)、弓削ではCさん(昭和27年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。

(1)とる漁業

 ア 魚島の春の漁

 「魚島では、春が来たらイカ巣と枡(ます)網(定置網)が主流でした(図表2-2-1参照)。イカ巣とは、イカを獲る籠のことをいいます。5月、6月は瀬戸内海でイカが産卵する時期になるので、それに合わせて4月末から5月初めにかけて籠を海に入れていきます。イカ巣籠は、大きさが縦約1,200mm、横約800mmの蒲鉾(かまぼこ)状で、籠の真ん中に心棒が立っており、そこにツゲの枝葉を付けておくと、イカがその枝葉に産卵をするために籠へ入って来るのです。卵を産み付けるために籠の中へ入ったイカは、籠から出られなくなるので、籠を上げて中のイカを獲るという作業を期間中に何回も行います。ツゲの枝葉は交換せず、卵が枝に付いたままでの作業でした。漁が終わるとイカ巣は沖の船上で解体し、港へ帰るときには竹でできた外枠も外して平らな状態にして持ち帰ります。卵の付いたツゲの枝葉は海へ流すので、産み付けられた卵が自然の海の中で孵(ふ)化して成長し、イカの数が減らないというようになっています。イカがツゲの枝葉に卵を産み付ける、という習性を生かした漁法です。」

 イ 魚島の夏の漁

 「春の漁は梅雨の時期で終わるので、夏になると底引き網が行われていました。魚島では、この底引き網でエビを獲る漁を、『エビ漕(こ)ぎ』と言っていました。また、エビ漕ぎのことを『ウタセ』ともいっていました。ウタセとは帆船(打瀬船)のことで、この帆船で底引きをする網のことを『ウタセ網』と呼んでいました。この船で漁を行うときは、網を出すために、帆で風を受けて船を横へ進めるように動かします。また、このウタセには、網を広げるために船の前後に遣出(やりだし)という柱が取り付けられています。網自体は小さな網ですが、船の長さだけでは網をたくさん海へ入れることができないので、網を入れる場所を広くするために遣出が取り付けられているのです。私(Aさん)は、実際にこの船に乗って漁に出たことがあります。子どものときだったので、船の上でチョロチョロしていたら(動き回っていたち)、『火釜(ひがま)』という、クドサン(かまど)のある所に落ち込んで、泣いたことがありました。また、この船の帆の真下では、帆が風を受けて、その風が帆を伝って下に下りてくるので本当に気持ちが良かったのを憶えています。ウタセは動力船ではないので、お盆近くになると島で盆の音頭を口説いているのが沖にいてもよく聞こえていました。風の音だけが聞こえる中での操業だったので、音頭を練習している人々の声が海上にまで届いていたのです。しかし、昭和30年代に入ると動力船が導入されてきて、帆船のウタセはほとんど消えていきました。そのころにはまだ、年を取られた方が『ウタセ』という言葉を使っていましたが、徐々に『エビ漕ぎ』という言葉の方がよく使われるようになっていきました。ウタセに替わって導入された動力船は、エンジンなどの機械は新しいものを購入するのではなく、中古のもので間に合わせていたので、性能が良くありませんでした。私(Aさん)が漁のために魚島港(篠塚(しのづか)漁港)を夕方出るときに、何杯(何隻)かの漁船で漁師仲間と一緒に出漁すると、小島(こじま)の所へ行くまでに2杯か3杯はエンジンがトラブルを起こして止まってしまい、船員がその船を手で漕いで港まで引き返していました。私(Aさん)は、魚島の周囲2kmから4kmくらいを主な漁場としていて、江ノ島(えのしま)や高井神(たかいかみ)島よりは遠くへ行くこともありましたが、弓削周辺までは行きませんでした。夕方漁へ出て、朝方に島へ帰って来るのですが、島へ帰ったらエビと『メブト』や『石カベリ』と呼ばれていた白ジャコなどを炒(い)って、港周辺の平坦で日当りの良い場所に干して乾燥させ、それを袋に入れて漁協に出荷していました。また、夏場にはタコが大量に獲れていたので、タコ漁もしていました。タコ漁は壷(つぼ)を使いますが、昭和30年代に使われていたものは土の壷でした。」

 ウ 魚島の冬の漁

 「10月や11月は端境期(はざかいき)で魚がいない時期になります。冬場は、12月から操業のできる、『マンガ漕ぎ』という、鉄の枠に爪の付いた底引き網でシラシャエビ(シラサエビ)を獲る漁をしていました。シラシャは車エビと同類で、少し大きめのエビでした。当時は魚群探知機のような、獲物がどこにいるかを探す機器はありませんでしたが、そのようなものを必要としないくらい、どこを漕いでも(どこで網を引いても)たくさん獲れていて、それはもう、すごい量でした。シラシャに混ざって獲れる小さなエビなどは、船上で選(よ)りきれん(選別できない)くらいいました。新居浜沖へ漁に出たら、シラシャとワタリガニがものすごく獲れていました。大きな船でも、獲れたエビやカニがどんどんイケンマ(生(い)け簀(す))の中で積み上がっていって、イケンマの水面から出てしまうくらいになっていました。カニはそのままだと、はさみを使ってケンカをするので、藁(わら)ではさみを縛ったりすることもありましたが、これは大変な作業だったので、手間がかからないように、ペンチではさみの片方の刃の部分を切って、それからイケンマに入れていました。シャコエビもたくさん獲れていましたが、獲れ過ぎていたので、ほとんどを海へ捨てていました。そのころシャコエビはあまり食べられていなかったので、自分で食べる分を残して、後は捨てていたのです。」

 エ 賄船

 「漁船にはエンジンが付いているものと付いていないものがありました。枡網(定置網)には船が3杯いるので、そのために本造のぼろ船を修理して使っていました。木船は船底に虫(船食虫(ふなくいむし))が入らないように、月に1回程度船底を燃やす(燻(いぶ)す)必要があったので、船として維持するためにかなりの手間がかかっていました。枡網を行う3杯の船に御飯を用意するのが賄船(まかないぶね)です。賄船は、エンジンの付いていないぼろ船を使い、本来はエンジンを積むスペースに食事を作るためのクドサンを置いていました。賄船には水や薪(まき)、麦や米、野菜などが積まれていました。野菜などの生鮮食品は船が出港する当日に積まれますが、一旦漁に出ると長い時間帰って来ないので、何食分かは積まれていました。賄船で御飯を作るのは一番のヘイカチ(新米の乗組員)の役割でした。当時、3杯の船を必要とする枡網を行うには、魚島だけでは人が足りず、広島県の田島(たしま)からも人を雇っていました。」

(2)つくる漁業

 ア 魚島のノリ養殖

 「ノリの養殖は昭和30年代の後半から、最初は瓢箪(ひょうたん)島が見える船瀬(ふなしょう)で試験的に始まりました。当時、西条の方の人から、『ノリがええ(ノリの養殖が良い収入になる)。』というのを聞いたからだそうです。船瀬の辺りは遠浅になっていたので、竹を立てる『竹づけ』作業を行うノリ養殖には適していたからだと思います。ノリ養殖が普及していったのは、魚島の中でも山で風が遮られて西風が当たらない所でした。ノリの養殖が大々的に始められてからは、冬場に魚を獲るということがなくなってきたように思います。
 昭和45年(1970年)ころの魚島では、井戸を掘ることがブームでした。井戸を掘るのは飲料水の確保という目的もありますが、養殖したノリを刈り取り、それを製品に加工するには真水が必要で、水が足りないということから始まったのだと思います。魚島では、昭和41年(1966年)に近毎でのノリ養殖が有望になって、『つくる漁業』への切り替えが既に進んでおり、昭和45年(1970年)ころは、ノリ養殖がピークではないけれども徐々に広がっている時期でした(図表2-2-3参照)。
 ノリ養殖の事業拡大に伴って、水が足りなくなってきていたので、『何とかせんといかん。』ということで、昭和50年代に入ってからは地下に貯水タンクを造って、広島県三原(みはら)市からの購入水をそこに溜(た)めていました。昭和51年(1976年)に東(ひがし)集会所の地下に完成した貯水タンクには、約750tの水を溜めておくことができました。それまでは各ノリ業者が自分で井戸を掘るなど、それぞれ工夫して水を確保するようにはしていましたが、購入水が使われ始めると、貯水タンクからノリ加工工場まで配管し、ポンプアップして水を供給していました。島にとって水は貴重なもので、当時、ノリを乾燥させるためのバーナーの燃料となっていた重油よりも、水代の方が高かったという話を聞いたことがあります。」

 イ 弓削のノリ養殖

 (ア)ノリ養殖に携わる

 「私(Cさん)がノリ養殖に携わったのは、昭和40年代の後半でした。私の父は、私か中学生のころにノリ養殖を始めましたが、弓削の海域では昭和40年(1965年)より前にはノリ養殖が既に行われていました。冬場は魚を獲っても利益を上げるだけの漁獲高がなかったので、収入を補うことができるのではないか、ということで始めたと聞いています。」

 (イ)竹づけ

 「ノリ養殖の形態は、最初は全て竹づけ(竹張り、支柱養殖)で、弓削の海域全体で漁業権を取って行っていました。ただ、弓削の北東海岸には浅瀬がなく、海岸が岩になっているので養殖を行うことができませんでした。竹づけは、まず遠浅の海に竹の支柱を3m間隔程度で立てて、それに網の高さを調整しながら、ひもで吊(つ)ります。網は小潮(1か月のうちで、潮の干満の差が最も小さい時期。旧暦の8日、22日で、月は半月状。)のときの引き潮に合わせて高さを調整します。そうすることで大潮(1か月のうちで、潮の干満の差が最も大きい時期。旧暦の1日〔新月〕、15日〔満月〕。)になると、引き潮のときには小潮のときより1m程度海水面が下がるので、網が海面より上に出て海水に浸(つ)からないようになります。それによって網に付いているノリが自然に乾燥するのです。この乾燥は、ノリの汚れをなくすためのもので、アオサなど、ノリ以外のものを排除することができます。網にアオサが付くことは、ノリを採るためには良くありません。ただし、全く付かないということはなく、どのようにしても少しは付いていたので、少量のアオサが混ざってしまうことは仕方がなく、そういう製品として売っていました。当然、アオサが混ざっていない純粋なノリの方が値段は良かったのですが、値段が良いといっても、基になる黒いノリが良くないといけません。アオサが付くノリというのは、根が弱いから付くのであって、ノリの勢いがないとアオサが混ざってくるのです。潮が満ちてくれば、再びノリが海水に浸かって生長します。竹づけは、これを繰り返す養殖方法です。」

 (ウ)自然採苗

 「ノリの胞子は牡蠣(かき)殻に潜り込んで生長します。牡蠣殻に胞子が入り込んで夏を過ごすということが分かってから、ノリの養殖は発展しました。生長した胞子は、海水温か25℃以下になると海の中で牡蠣殻から出て、潮の流れによって自然に網に付いていきます。竹づけで養殖をするときには、網にノリの胞子を付着させるために、網の下には牡蠣殻をぶら下げるための『落下傘』が付けられていました。落下傘は、潮が引いて海面上に出てきたときでも、袋の中に海水が溜まるようになっていて、牡蠣殻が海水に浸かったままの状態を保つことができ、胞子が乾いて死ぬということはありませんでした。これによって、胞子が網に付着するまでは、牡蠣殻を3日でも4日でも1週間でも置いておくことができました。網に均等に胞子が付くように、牡蠣殻を落下傘にどれくらい入れるかは個人の裁量でした。」

 (エ)ベタ流し

 「竹づけでは潮の干満を利用してノリを乾かしていましたが、ノリは海に浸かったままでも生長する、ということが分かってからは、沖の水深が深い、竹が立たないような所で養殖を行うようになりました。これを、『べ夕流し(浮き流し養殖)』といいます。べ夕流しには、アバ式とスイシボウ(シンシボウ、伸子棒)式があります。アバ式はロープで網を張る方式で、網の両端にロープを付けて、そのロープで網を両側から引っ張って広げる方式です。ロープの本数は事業者によって違いますが、私(Cさん)は10本で留めていました。スイシボウ式は、網を広げるために横に入れる棒を、1枚の網の広さに対して8本入れる方式です。昔はスイシボウとして、竹を使っていた時期もありました。竹づけは、ノリを乾かしてノリ以外のものを排除しますが、ノリは乾燥している間は生長しません。しかし、べ夕流しではノリが海に浸かったままの状態を保つので、生長が止まることがないのです。べ夕流しは沖のトナカ(沖合)で行うので、ノリの生長に必要な栄養源が海中に豊富にあります。一方、地(じ)(沿岸、浅い所)は水深が浅いため、ノリの生長に伴って海中の栄養源がだんだんと少なくなっていきます。西条市には水量が豊富な賀茂川(かもがわ)があり、川を流れてくる栄養源が地に保留されるため、ノリ養殖には適していますが、弓削には川がないため、浅い所ではノリが伸びていくと、すぐに栄養源がなくなってしまうのです。」

 (オ)博打草

 「昭和40年代には、ノリを手で刈って採っていました。株(根元)の違いによって、刈ることができる長さは変わりますが、大体20cmに生長したものを刈っていました。ノリは、ある程度の長さを網に残して刈り、網に残ったノリが生長したらまた刈る、という方法で採っていたので、この長さが必要でした。当時は、船の真ん中に摘み機が据えられた四角い箱伝馬(はこてんま)(四角形の伝馬船)の両側に人が乗って、網を引っ張り上げていました。『手で刈る』というのは、手で網を引っ張り上げることをいうのです。一つの網は、長さが18mある、かなり長くて大きなものなので、1日に30枚の網を上げるのが限度でした。本当に腰が抜けそうなくらいの重労働で、風が強い日はなかなか作業が進まず、余計にしんどい思いをしていました。ノリを採る作業は体力勝負でした。
 ノリは博打草(ばくちぐさ)といって、年ごとの水揚げが安定せず、その年の『良い悪い』がどうなるか分かりません。ノリの収穫時期は天候に左右され、寒い時にしか収穫できないので、採ることができる期間がそれに応じて長くなればなるほど良いのです。ノリの生長が良ければ、利益は莫(ばく)大でした。最近は寒い期間が短く、ノリを12月に採り始めて、2月まで採ることができるかどうか、というくらいですが、昔(昭和40年代後半ころ)は11月の半ばころにスタートして、3月の初めか終わりか、どこまで採ることができるか、というくらい長い期間採ることができました。ノリを採ることができる期間が、どこまでもつかによって利益が変わってくるのです。冬場に雨が降った後、北風が吹いて海が時化(しけ)るくらいがノリの生長には良く、穏やかな凪(なぎ)が続くとだめなのです。昔からいわれている三寒四温が、冬の季節にきちんとあって、三寒で北風が吹き、四温でノリが太陽光を浴びて光合成するというサイクルが必要なのです。」

 (カ)加工工場

 「採ったノリは工場へ運び、生ノリにまで加工します。当時、ノリの加工工場は久司浦(くしうら)(地元では『くじら』とも言われている)、沢津(さわづ)、上(かみ)弓削、浜都(はもと)(松原の辺り)に1軒ずつ、下(しも)弓削に3軒、土生(はぶ)に4軒ありました。工場といっても、最初は加工機械の価格が安く、簡単な設備のものしかなかったので、ほとんど手作業で加工を行っていました。洗浄、ミンチ、成形、乾燥など多くの工程があり、一つの工程に必ず一人か二人は人手が必要で、工程ごとに何人かずつ配置すると、全体で20名ほど必要だったので、短期のアルバイトで働く女性を雇っていました。
 昭和40年代にはノリ養殖の業者が多かったので網の枚数に規制があり、ノリ網1枚に対して製造できるノリは200枚から300枚でした(図表2-2-5参照)。当時はノリの相場が良く、パートの方の人件費が1日300円のころに、ノリ1枚が24円から25円でした。私がノリ養殖を始めたころには、ノリ一枚でパンを2個買うことができたし、ノリ2枚分でお好み焼きを食べることもできました。工場は、大体10日周り(10日間を1サイクルとして)で作業を行うので、7日で規制された枚数分を採ってしまったら3日は休む、というようなやり方で操業していました。一度刈ったノリを次に刈ると、製品として製造できる枚数が増えて、最初は300枚分だったのが500枚分になったりします。なぜなら、ノリは最初は針みたいに先が細くなっていますが、刈った後は葉が広がって、1回刈るごとに葉がどんどん太く(大きく)なってくるので、同じ長さで採ったとしても、製品として製造できる枚数が増えていくのです。」

 (キ)水を得る

 「ノリが工場へ入り、加工するときには、海水を使わずに真水を使います。当時は水がなかったので、工場で使う水を確保するために、土地を借りて井戸を掘っていました。この井戸水を使ってノリを洗浄していましたが、水量はギリギリでした。私の父親がノリ養殖に従事していたときには、佐島(さしま)から水を引くために、ホースを海底に這(は)わせて水を引いたこともありました。とにかく、水のために必死だったのを憶えています。」

 ウ 身近な海

 「当時は加工工場での作業のほとんどが手作業で、人手が必要だったこともあり、私は中学生のころから工場で手伝いをしていました。また、学校が休みの日には、朝4時から父親の船に乗って一緒にノリ養殖の仕事に出ていました。子どものときから父親と一緒に海へ行っていたので、海へ出て手伝うことが嫌だと思ったことはなく、船を動かすことや漁など、何でもできました。船を動かすための船舶免許は、私が高校生のころに必要になりましたが、それまでは持つ必要がなかったので、中学生のころにはエンジン付きの船を出して、自分で操船してサザエを獲りに行っていました。今の船のようにスピードの出る船ではなく、ポンポンポンと、ゆっくりと進む船でした。海が時化ているときに船を出すことはありませんでしたが、海が遊び場で、親や地元の方から海について多くのことを学ぶことができていたので、操船技術を自然と覚えていました。また、子どものころには地引網もしていました。2、3人で伝馬(伝馬船)に乗って網を張り、おかずになる魚を獲っていました。伝馬の漕ぎ方も遊びの中で練習していたので、中学生のころには上手に船を操ることができていました。海が身近にあり、水の事故を防ぐことが大切だったので、泳ぎ方は子ども同士が集まって遊ぶときに覚えさせられました。そのおかげで小学校に入学する前には、どの子どもも大体は泳げるようになっていました。」

図表2-2-1 旧魚島村のイカ巣漁水揚げ推移

図表2-2-1 旧魚島村のイカ巣漁水揚げ推移

『魚島村誌』から作成。

図表2-2-3 旧魚島村のノリ養殖水揚げの推移

図表2-2-3 旧魚島村のノリ養殖水揚げの推移

『魚島村誌』から作成。

図表2-2-5 旧弓削町の養殖ノリ出荷状況

図表2-2-5 旧弓削町の養殖ノリ出荷状況

『弓削町誌』から作成。