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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 船とともに生きる

 佐島(さしま)は、旧弓削(ゆげ)町の南西部に位置し、弓削瀬戸を挟んで弓削島の西にある島で、島の北西端の佐島漁港周辺に人家が集中し、全域に畑地や果樹園が広がっている。佐島に住む人の中には、農業で生計を立てる人のほかに、かつては、因島(いんのしま)にある日立造船所因島工場に勤務する人も多く(昭和62年〔1987年〕に大規模な事業縮小と大幅な人員削減を実施)、それらの、農業生産物の運搬や島外企業等への通勤をはじめ、通院や通学、買い物など、日々の暮らしの中で常に船を利用してきた。
 また、瀬戸内海航路の要衝に当たる弓削島は、古くから船乗りの島として知られ、特に日清戦争(明治27年から明治28年〔1894年から1895年〕)後は船員になる人が急増して(明治34年〔1901年〕の弓削島出身の船員は735名)日本有数の船員村となり、「日本のマルタ島」と呼ばれた。一方、日本の国際的地位が高まるにつれて、国内航路はもとより外国航路に乗り組む船員の養成の気運が強まる中、明治26年(1893年)に実業補習学校規程が制定され、明治32年(1899年)に実業学校令が発布されると、当時の弓削村長中村晴二郎は商船学校設立の世論を喚起し、翌明治33年に「海員補習学校設置二関スル諮問ノ件」を村議会に諮り、島の人々の熱い願望のもと弓削村・岩城村組合立の弓削海員学校が設立された。その後、現在の国立弓削商船高等専門学校に発展する中で、多くの人材を海運界に送り出している。
 本節では、佐島で回漕店(かいそうてん)(海運業者と発送人との間に立って、取り次ぎの仕事をする店)を経営し、島の人々の海上交通や海上運搬に力を尽くした人や、国立弓削商船高等学校(昭和26年〔1951年〕から昭和42年〔1967年〕に国立弓削商船高等専門学校に昇格するまで〔但し、『高等学校』は昭和46年まで併設〕)で海技士免許取得のための航海技術や機関技術などを学び、船員として海上輸送による国際物流の一翼を担った人に焦点を当て、船とともに生きる人々の仕事やくらしを、聞き取り調査や文献調査によって探った。