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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1)日常の生活

 ア 生活を支えた店

 「雑貨店の『かどや』は、食料品や日用品、文房具のほか、化粧品なども扱っていて、『あべ店(みせ)』も結構いろいろな種類の商品を売っていました(図表1-2-2のエ、カ参照)。亀山商店は、もともと経営していた履物店に加えて、雑貨店を経営しており、『まるべに』の屋号を持っていました(図表1-2-2のオ参照)。『まるべに』は、『あべ店』よりも大きな店で、お菓子から何から、いろんなものを売っていました。酒店は、上杉酒店、古川商店、丸商の3軒で、お米も扱っていました。そのほかにも、薬局や呉服店、電器店、自転車店など、いろんな種類の専門店があったので、大体のものは弓削の中で買いそろえることができました。一方で、弓削以外の島の人が、下弓削の店へ買い物に来ることはほとんどなく、魚島の人たちが、船で弓削に寄ったついでに、お店で買い物をしたくらいでした。」

 イ 農集電話から一般電話へ

 戦後、弓削町では電話の普及はなかなか進まず、電話台数は、昭和20年(1945年)末で11台、30年(1955年)末で31台に過ぎなかった。昭和40年代に入って急速に普及したが、その背景には、農集電話と呼ばれた地域集団電話制度があった。農集電話とは、電信電話公社(現日本電信電話株式会社)が、一般電話の普及率の低い農山漁村対策として設置したもので、1回線を10戸までが共用した。昭和46年(1971年)3月、弓削町内の電話総数は既設886台を加えて1,394台となり、魚島村、肱川(ひじかわ)町(現大洲市)に次ぐ県下第3位の普及率となった(①)。
 「農集電話相互の通話はダイヤル通話でよかったのですが、一般電話との通話や市外との通話には交換手を通さなければなりませんでした。昭和49年(1974年)に全自動化が実現して、ようやくこの不便さが解消されました。一般電話は、まず役場や学校などの公共施設に設置されて、ほかには商店が早くから電話を引いていました。私(Gさん)のうちは、私が小学生のころに牛乳屋をしていたので、電話を引いたのは割合早い方でした。昭和32年(1957年)の弓削町の電話番号は1番から42番までで、うちの電話番号は172番でしたから、32年以降に電話を引いたことになります。一般の家庭は、まず農集電話から始まって、その後、一般電話に切り替わっていきました。電話がない家の人は、電話がある家で呼び出してもらっていました。」

(2)石灰鉱山の記憶

 ア 弓削鉱業所

 「私(Dさん)は、昭和28年(1953年)から昭和46年(1971年)までの17年間、弓削鉱業所に勤めました。勤務時間は、朝8時から夕方5時までで、昭和30年(1955年)ころ、従業員は20人くらいで、女の人も大分いました。何人かは社宅に入っており、結構若い人が住んでいました。
 若い人が3、4人、今治の方から勤めに来ていましたが、ほとんどは島(弓削島)の人でした。今治出身の2、3人の若い衆は、私よりも若かったですから、みんな中学を卒業してすぐに入社したのだと思います。」

 イ 石灰の採石

 「昭和30年(1955年)ころは、まだベンチカット(岩盤を削る方法の一つで、岩盤の斜面を階段状になるようにブルドーザーなどを使って整地していく工法)のような方法ではなく、下の方の、掘り易い所から採石していく方法でした。下の方の、石(石灰石)を採り易い所から採っていくと、年に1回か2回、上からずって(落ちて)来るので、それを待っていました。1回ずって来たら、大方1年くらいは、石を採ることができました。上から石が落ちてくると危ないので、雨が降ったら仕事は休みになりました。四阪島へ持って行く石には、少々悪い石が入っていても、溶鉱炉で使う分だから、世話なかったでず。森久製粉所は製品にするので、きれいな石を納めないといけませんでした。」

 ウ トロッコや索道を利用した運搬

 「昭和30年(1955年)ころは、まだ玄翁(げんのう)(鉄製の鎚)を使って10cm四方くらいの大きさに石を割り、それを手箕(てみ)ですくって、小さなトロッコまで運んでいました。小さな石は女性が、大きな石は男性がそれぞれ割っていました。当時はトロッコのレールが敷かれており、隧道(ずいどう)(トンネル)を通り抜けた所に索道(さくどう)(空中に架け渡したロープに運搬器を吊(つ)るして、貨物を運ぶ装置)がありました。索道で石を下ろすと、住友さん(住友金属鉱山)が、石を堆積するためのホッパー(上部にじょうご型の入口、下方に吐き出し口をもつ貯蔵槽)を造ってくれていたので、一旦、そこへ入れて、必要な分の石をそのホッパーから抜きながら船へ積み込んでいました。索道は2本あり、そのうち1本は森久製粉所で作る石粉の石を下ろしていました。四阪島へ積んで行く船は桟橋から出ていて、桟橋辺りまでトロッコで運んでいました。桟橋に向かってまっすぐ伸びる道に、トロッコのレールが敷かれていました。トロッコのレールは、あまり幅を必要とはしなかったので、道の縁(へり)に敷かれていました。」

 エ 子どもの遊び場にもなった石山

 「私(Gさん)は、休みの日には発破(はっぱ)がかからないので、石山(石灰山)へ入って遊んでいました。小学4、5年生のころ、友達数人とお弁当を持って、石山にある東屋(あずまや)のような建物で、遊びながら宿題していると、サイレンが鳴って、ドッカーンと発破の音がしたことがありました。」

(3)海岸沿いの風景

 ア 今とは異なる海岸線

 「昔、潮取りといって、雨が降ったときに水が溜まって、池のようになっている所があり、樋門のようなものもありました。海岸線は昔から随分変わりました。今、役場(弓削総合庁舎)が建っている辺りは、昭和40年(1965年)ころはまだ海で、それより後に埋め立てられた所です。みどりやさん(旅館)は、私(Dさん)らの子ども時分からあり、石積みをずっと継いでいました(図表1-2-2のイ参照)。みどりやの横に、『青丸船』のフェリー着き場が『滑り』にあって、それよりもう少し手前(海側)に桟橋が出ていました。桟橋の近くの回漕店で切符を切っていて、その隣に船とバスの待合所がありました。」

 イ 松原海水浴場の賑わい

 「昭和30年代は、松原の海水浴場へ島外の各地から多くの遊泳客が来ていました。中でも因島の人が多く、尾道や福山(ふくやま)(広島県)からも来ていました。また、大阪から大きな客船が、貸切で来ていたこともありました。当時の桟橋は旧役場の前にありましたが、大きな客船は桟橋には着けられないので、沖に停泊して艀(はしけ)で上陸していました。港から松原まで、大勢の遊泳客が歩いて移動しかため砂埃(ぼこり)が立ち、その行列が途切れるまで、私たちは通行できませんでした。松原が大勢の遊泳客で、芋を洗うような混雑ぶりとなる光景は、その当時は珍しいことではありませんでした。
 松原には、バンガロー(キャンプ用の簡易な小屋)や遊泳客相手の売店がありました。売店は最も多い時で4軒あったのですが、自動車が普及し始めると、遊泳客は自家用車に食べ物などを積み込んで来るようになり、今では1軒もありません。
 子どものころは、夏になると、松原海水浴場は遊泳客で混んでいたので、松林が途切れている静かな入り江が、地元の子どもたちの泳ぎ場でした。当時、下弓削に『石粉工場(いしここうば)(石灰工場)』がありました(図表1-2-2のア参照)。工場から海岸近くに落とされた石灰が、波で削られて細かくなるためでしょうか、砂浜には、白くてきれいな粒状の小石がたくさんありました。」

図表1-2-2 昭和30年ころの下弓削の町並み①

図表1-2-2 昭和30年ころの下弓削の町並み①

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-2-2 昭和30年ころの下弓削の町並み②

図表1-2-2 昭和30年ころの下弓削の町並み②

調査協力者からの聞き取りにより作成。