データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 オーストラリアで貝を採る

 戦前から昭和30年代にかけて、旧内海村から41名が白蝶貝(しろちょうがい)(高級ボタンの材料)採取の仕事を目的として、オーストラリアへ渡っている(①)。油袋に住むDさんはその一人で、昭和34年(1959年)から38年(1963年)にかけて出稼ぎに行った。その当時の仕事の様子や、現地でのくらしについて、話を聞いた。

(1)オーストラリアへ渡る

 「戦時中からオーストラリアへ渡っていた叔父の紹介で、昭和30年代半ばの4年間、白蝶貝を採るダイバーとして、ブルームへ出稼ぎに行っていました(図表3-3-3参照)。当時はまだ、保証人がいなければ就業目的で渡航することができませんでした。ブルームへ渡る前に身体検査が必要となり、宇和島の市立病院で受けましたが、レントゲン撮影のために東京の聖路加(せいろか)病院にも行って、その写真をブルームまで持って行きました。
 オーストラリアへは、すべて飛行機での移動でした。まず羽田(はねだ)空港(東京都)からフィリピンのマニラ経由で、オーストラリアのダーウィンまで行きました。そして、ダーウィンからは20人か30人乗りくらいの国内線でブルームまで行くのですが、この国内線の移動だけで5時間かかりました。
 ブルームでは、ステレータ社(白蝶貝採取会社、内海村からブルームに渡った人の多くが所属した。)と契約してダイバーボートに乗りました。1隻のボートには乗組員が10名いました。デッキで働くクリー(クルー)が5名、ダイバーが2名、命綱を持つテンダーが2名、そしてエンジニアが1名です。私は当初、デッキでの作業をしていましたが、ダイバーに1名欠員ができたため、訓練を受けてダイバーになりました。ボートにはマレーシア人や中国人もいましたが、ダイバーやテンダーは主に日本人が任されていました。ダイバーになってからは20尋(ひろ)(ここでは6尺〔約180cm〕が1尋、約36m)程度のところに潜って、白蝶貝を採っていました。」

(2)ダイバーとして

 ア 危険と隣り合わせのダイバーの仕事

 「潜る時にはデデス(ダイバースーツ)を着用して、釜(かま)(潜水用ヘルメット)を担(かつ)いで(被って)潜ります。命綱はデデスに、エア(空気)を送る管は釜に付けられていました。命綱は、デッキのテンダーに信号を送って情報をやり取りするためにいつも持っています。潜水している時は、命綱が張られている状態なので、その綱をどのように引っ張るかが信号になるのです。信号の例としては、船に上がる時間が来た時に貝が見えた場合、綱をチョッチョッと小さくしゃくり(引っ張り)ます。これは『もう少し待て。』という合図になって、この合図を送ってから目標の貝を採りに行きます。また、綱を大きくしゃくるのは、非常事態が発生して『すぐに上げてくれ。』という合図になります。その他(ほか)にも、『エアが足りないからもっと送ってくれ。』という合図がありますが、この合図を送ると、船上のエンジニアがエアコンプレッサーのメーターを見ながらバルブを開いてエアを送ってくれるのです。
 ダイバーボートでは、命懸けで、毎日朝4時から晩の7時ごろまで働きます。潜水作業で、『もういけん。』と死ぬ思いをした経験もあります。潜水準備が完了したら海へ飛び込むのですが、その時にデデスや釜の中にエアがあれば膨れて沈(しも)らないので、エアを抜きます。しかし、ある時、開くべきバルブを船上のエンジニアが間違えていたため、エアが来なかったのです。体は釜の重さで一気に沈っていきます。エア調節のバルブを閉めて、エアの流出を防ぐのですが、今度は水深が深くなるにつれて、残った湿り気のあるエアが水圧で圧縮されて、それが熱を帯びた水蒸気となり、釜の中に充満してかなり熱くなるのです。海中から非常事態の信号を送ろうにも、潜水途中で命綱が張っていないので、信号を送ることができません。本来はいつでも信号を送ることができるように、少しずつその綱を伸ばして、常に張った状態を保つのですが、ダイバーもテンダーも作業に慣れてしまうと、適当にやってしまったのでしょう。幸いテンダーが海面をよく見ていて、ダイバーがエアを放出する時に発生する泡がない、ということに気付き、慌ててエンジニアがエアを一気に送ってくれたので、助かりました。」

 イ 貝を採る

 「潜水はまず、10尋(約18m)程度の所まで沈ります。沈る際に船を止めておくと、ダイバーが浮き上がってしまうので、船は潮(海流)に任せて流しておきます。
 ブルーム沖の作業場の潮は、川の流れのように速く、船を止めようとアンカー(船の錨(いかり))を打ったとしても、その潮の速さで、船は普通に走るくらいに動くのです。エンジンを止めていてもスクリューがプルプルと回るくらいでした。
 潜水中、貝を見付けたらエアの調整を早くしなければなりません。貝から目を離さないようにして、手でエアを抜いて一気に潜ります。潮が速いので、早くしないと貝を通り過ぎてしまうのです。貝を通り過ぎてしまうと、潮の流れと反対に歩くことはできないので、採りに戻ることはできません。貝を見た瞬間に、テンダーに信号を送って命綱を伸ばしてもらいます。貝を行き過ぎさえしなければ採れるので、必ず貝の手前に素早く下りなければならないのです。」

 ウ 潜水病への対応

 「1回の潜水時間は、大体1時間とされていました。海底にいくら貝があったとしても、時間が来ればテンダーから信号が来ます。海面へ浮上する前には、水圧調整のために必ず15尋(約27m)程度の深さの所で10分程度吊(つ)られ(留められ)ます。船まで無事に上がって来られたとしても、その後に潜水病に罹(かか)ることもあるので、その場合はすぐに海に入れるように、デデスを1時間は着用したままにされます。ですから、仕事中の食事を、浮上した直後に摂(と)ることになれば、デデスを着用したままでの食事となります。
 潜水病には3段階ありますが、一番軽い場合は、浮上して空気に触れると、体がキリキリとリウマチのように痛くなります。そのときには、『病気が来た。』と言って、再び水圧調整のために海中で、しかも作業をしていた深さの所で1時間程度吊(つ)られることになります。例えば、水深25尋(約45m)の所で作業をしていて潜水病になった場合は、再び25尋(約45m)まで沈って、体に水圧をかけてからゆっくり上げられていくのです。途中、10尋(約18m)辺りで吊られた状態になって、1時間ごとに『調子はどうか。』という信号が来ます。こちらが『待て。』の信号を送り返したら、まだ治っていないということで、さらに1時間吊られるのです。その後は、テンダーが命綱を引っ張るのではなく、自分でエアを調整しながらジワーッと、徐々に浮き上がっていきます。水面まで来て痛みがなかったら治っていますが、水深2mくらいで、キリキリッと痛みがあれば治っていないので、再び、『待て。』の信号を送って、ゆっくりと下(深い所)へ行くのです。」

 エ 仕事の後

 「採った白蝶貝は、1枚ずつ伏せて、円形にきれいに並べられ、ドンゴロス(麻袋)に詰められます。貝の詰まったドンゴロスは船倉の中にきれいに積まれ、船が入港したら、会社の担当者がその重さを量ります。当時、白蝶貝は高級ボタンの材料になっていて、貝の善しあしではなく、1t当たりいくらで買い取られていました。採った貝の中には小さな貝もありました。そのような若貝は、養殖用に生かしておく必要があったので、別の籠(かご)に入れて船から海中に吊っていました。小さな貝は、私たちが作業をしている海域の近くを流している(航行している)日本のマグロ船が、運搬船として港へ運んでいました。養殖用の小さな貝も、一緒に計量されていましたので、結局、利益は私たちにありました。」

(3)オーストラリアでのくらし

 「仕事は、船の上で1か月間働いて、大潮のときに帰港します。帰港後、ダイバーは休みになりますが、デッキで働いている人たちは、食糧や水や燃料を積む作業に忙しく、休みがありませんでした。
 貝を採る仕事は12月の下旬に終わって、3月末までの3か月間は陸(おか)での生活になりますが、その間、ダイバーには何の仕事もなく、完全に休暇となっていました。船員の収入を稼いで、生活を支えるという重要な役割を担っていたからだと思います。その一方で、デッキで働く人たちは船の改修で忙しく働いていました。特にエンジニアは、エンジンをさばいて(解体して)オーバーホールをします。摩耗(まもう)した部品があれば、地元の飛行場へ持ち込んで修理していました。船体の傷みは、会社に所属する2名の日本人の船大工が修理していました。3か月の休みの間に、その後1年間の仕事ができるように、乗組員によってボートは整備されていました。
 陸での生活に不自由はありませんでした。食事は日本食を会社が用意してくれていたので、3食とも米の飯を食べられました。オーストラリアの東寄りにドーベイという場所があって、そこで米が栽培されていました。私たちはドベイ米と呼んでいましたが、炊き方も味も日本の米と何一つ変わらず、おいしかったのを憶えています。ブルームには醤油(しょうゆ)や味噌(中国味噌)などを売る店がありましたし、うどんを作る店もあったように思います。日本に帰ったら麦とイモの食事ですから、ブルームにいた時の方が食事に恵まれていたということです。」


<参考引用文献>
①渡部文也「宇和海沿岸の海外出稼ぎと内海村-オーストラリア真珠貝採取漁業出稼ぎを中心に-」(内海村『新訂 内海村史』 2004)

<第3章の参考文献>
・御荘・城辺町役場『御荘城辺町制実施記念写真帳』 1923
・高橋紅六『南伊予の旅』 1941
・四国海運局海事研究会『四国海運大鑑1951年度』 1951
・四国海運局「昭和33年旅客航路事業現況表」 1958
・日本交通公社『時刻表』 1961.3、1966.4、1971.4、1976.4
・城辺町『城辺町誌』 1966
・御荘町『御荘町史』 1970
・朝倉書店『日本図誌大系 四国』 1975
・一本松町『一本松町史』 1979
・西海町『西海町誌』 1979
・平凡社『愛媛県の地名』 1980
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1981
・西一翁追悼集刊行会『一翁ありき(故西一翁追悼集)』 1982
・城辺町『続・城辺町誌』 1983
・愛媛県『愛媛県史 社会経済3(商工)』 1986
・旺文社『愛媛県風土記』 1991
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『えひめふるさとウォッチング』 1994
・内海村『新訂 内海村史』 2004
・深浦の移りかわり編集委員会『深浦の移りかわり』 2004

図表3-3-3 ブルームの位置

図表3-3-3 ブルームの位置