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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 柏のくらし

(1)食事

 「昭和20年代後半から30年代にかけての食事では、御飯には麦は入っていましたが、ツメ(イモ〔甘藷(かんしょ)〕を切干にして搗(つ)いたもの)はほとんどありませんでした。麦は、『しゃぎ麦』というのをよく食べていました。これはおいしかったです。しゃぎ麦は、精麦作業の途中で、精米機のローラーの中に火を点(つ)けておき、温まったローラーで麦をしゃいで作っていました。しゃぐというのは潰(つぶ)すという意味です。上から落ちてくる丸い麦をしゃぐと、中に筋の入ったしゃぎ麦ができました。」
 昭和30年代に愛媛県で展開された新生活運動(昭和30年〔1955年〕、鳩山一郎首相の提唱によって設立された新生活運動協会が中核となって展開した国民運動)では、食生活の改善を目指した料理講習会などが開かれ、人々のくらしに影響を与えた。
 「昭和30年代というと、家庭によってその様子は違うと思いますが、結構よい生活になっていたと思います。私(Dさん)の母は、そのころに婦人会の会長をしていました。当時の婦人会では生活改善運動を推進していて、しょっちゅう料理の講習会などに参加していましたので、料理はすごく上手でした。私の家では、朝食はドーナツやパンなどを食べていました。」

(2)年中行事

 ア 亥の子

 「現在、柏では子どもの数が少なくなったので、小学校1年生から6年生まで亥(い)の子(こ)に参加して皆が石を搗くことができますが、私(Dさん)が小学生のころ(昭和30年代)は、柏でも子どもの数が多く、亥の子の石を搗くことは1回しか経験できませんでした。お寺の上の串(くし)ノ池で亥の子の唄を1回だけ習って参加しましたが、今ではその唄も思い出せません。瓢箪(ひょうたん)のような形をした亥の子の石に、鉄の輪っかをはめて(取り付けて)、その輪っかに4本から6本の紐(ひも)を付けて、その紐を上級生が持っていました。家々を回りながら亥の子唄を歌ったり石を搗いたりするのですが、昔の家は土の庭が多く、亥の子のリーダーの指示で、大穴が開くぐらい、石で庭を搗いていました。また、その時に配るボンゼン(竹に御幣(ごへい)を挟み込んだ、梵天(ぼんてん)〔風神や害虫などを追い払うためのまじないの道具〕のこと)を畑に立てれば、作物を荒らすモグラが来ないという言い伝えがあります。柏には農業を営む家が多いので、亥の子は地域の大切な行事です。」

 イ 須ノ川のお観音様

 「子どものころは、お菓子を買いに行くのに、大した額ではありませんが10円か20円の小遣いをもらっていました。須ノ川(すのかわ)のお観音様(旧暦の1月18日に行われる縁日)がある時は、学校が半日休みになっていました。子どもたちは、柏から歩いて山越え(内海トンネルの上)や立石を越えて大浜に出て、須ノ川へ行っていました。当時、自転車は一家に一台あるかないかで、大人の乗り物のように思っていましたから、子どもは専ら徒歩でした。お観音様には出店が出ていたので、もらったお小遣いを持って行って、あめ玉などを買いながら楽しみました。」

 ウ 遠足で学ぶ先人の知恵

 「柏坂へんろ道の途中の左側には、『焼野(やけの)』と呼ばれた茅野(かやの)がありました。年に1回、奈良の若草山(わかくさやま)のように焼かれていました。柏小学校では、遠足先といえばこの焼野でした。昭和20年代ごろまで続いた野焼きは、出役(でやく)(村人の奉仕作業)で行われて、尾根沿いには幅の広い火道(ひみち)(防火帯)がありました。野焼きのときに、火を下から点けると風を呼んで(火事場風が発生して)、上に向いて燃え広がる恐れがあるので、上から火を点けて、だんだんと下(おろ)しながら焼いていかなくてはいけません。火道の幅は、1間(約1.8m)か、それよりももっと広かったかもしれません。昔の人は、山火事になったら火道で食い止めるという考えがあり、火道があったからこそ大きな山火事がなかったのだと思います。先輩の話では、木に登って火の燃える方向を見た人が、『あっちで焼けよる。』と言うと、それを聞いていた人たちが、『ほしたら(そうしたら)こっちで火道切るか。』と言いながら切る(火道から可燃物を取り除く)のだそうです。火の近くで止めずに、ある程度離れたところで広く切って、それ以上燃え広がらないようにします。逆に言えば、火道までの中は燃えてもしょうがないという発想です。今は火道がなくなってしまっているので、山火事になったらどうにもならない可能性があります。」

(3)子どもの生活

 ア 山で遊ぶ

 「子どものころ、ハゴをかけて、小鳥をとりに行っていました。ハゴは、小鳥をとるための罠(わな)で、水気があるところや、エサを見つけやすいところに設置します。小鳥がハゴを踏むと、上から首を押さえ付けるような仕掛けになっていて、小鳥を誘うエサにはセンダン(暖地に自生し、秋に楕円形の実を結ぶ落葉高木)の実を用いました。
 ウサギをとるときも、同じように木と針金で罠を作って、通り道になりそうなところに設置しておきます。これにウサギが引っ掛かれば、宙ぶらりんの状態になります。ただし、1日に2回、朝と晩に、罠を設置した場所へ行って、掛かっているかどうかを確認しなくてはならないので大変でした。もしウサギが掛かっていたら、取って帰って、毛をむしってさばき(解体して)、水洗いしてから焼いて食べました。小鳥は子どもでもさばけましたが、ウサギはさばけなかったので、大人にさばいてもらっていました。焼いた後に砂糖醤油(じょうゆ)につけて食べるのですが、これは本当にうまかったです。山遊びでは、楽しむのは子どもたちでしたが、遊んだ後には大人にも手伝ってもらっていました。
 それから陣取り遊びもしていて、こっちの山とあっちの山とをそれぞれ陣地にして、どんなルールだったかまでは覚えていませんし、誰が指示をしていたかということも忘れましたが、山と山という規模で行っていました。
 桑の実もよく食べていました。白いシャツを着て桑の実を食べに行くと、黒く色が付いてしまうのですぐに分かります。桑の実を食べた後は、シャツに色を付けてしまい、家の者によく怒られていました。」

 イ 浜で遊ぶ

 (ア)釣り

 「柏の海は遠浅だったので、子どもの遊び場でもありました。夏には友だちと、魚とりをして遊びました。魚をとる方法もユニークで、まず、泳いでヤドカリをとって、それに釣針をつけます。釣糸を伸ばす者を陸(おか)に一人残しておいて、もう一人が針と釣糸のついたヤドカリを持って泳いで沖に出ます。陸に残った者から『もうええぞ。』という合図があったら、エサを持って泳いでいる方が海中に潜(もぐ)ります。海水を濁らせると魚が寄ってくるので、手で海底の砂をかき回して濁らせて、泳いで持ってきたエサと釣糸を置いて帰ります。それだけでタイゴ(タイの子)が釣れていました。泳いで沖にエサを持って行くのは下級生で、陸で指示を出すのは上級生でした。」

 (イ)小イカの干物

 「ハシ(端、図表1-1-3の㋐参照)のすぐそばに巡航船(じゅんこうせん)(御荘湾や内海の航路を回る船)が着いていたころ、そこにイリコの製造場があり、小さいイカも干してあって、それを取っては食ていました。もちろん勝手に食べていたので、見つかったら『こりゃあ。』と怒られます。そのときは、小イカを両手に持って海に飛び込んで逃げて、沖で食べていました。当時はその程度の注意で終わっていました。ただ、夏に俄(にわか)雨が降った時、『お~い、早よ来い、早よ来い、手伝うてくれ。』と言われて、家の中へ運ぶのを手伝ったこともあります。干している途中で濡れてしまうと製品がだめになるので、製造場の人が、近くの海辺で遊んでいる子どもに、『ちょっとお前ら来て手伝え。』と声を掛けるのです。子どもたちは、いつも隠れて製造場の干物を食べていましたから、逃げる者はいませんでした。今考えると、手伝いをしっかりとしていたので、悪さをしても頭から強く怒られることはなかったのだと思います。干物の中にある小イカ、これは本当においしかったです。」

 (ウ) 埋立浜とトロッコ

 「昭和18年(1943年)に柏で大水害が起こりました。その時に、今の大川(おおかわ)(柏地区を流れる柏川のこと)が土砂に埋(う)もれてしまったので、その土砂を使って昭和20年代の半ばに埋立浜を造りました。土砂の運搬は、川にレールを敷き、トロッコで行いました。水害で堆積した土砂を取り除くだけではなく、以前の河床(かしょう)よりも深く掘り下げたので、田んぼ沿いの井手(水路)の穴よりも河床がかなり下になっています。水害が起こる前までは、この井手の穴にかかるくらいに河床の高さがありました。
 作業用のトロッコが設置されていた時、このトロッコを使って遊んだりもしました(図表1-1-3参照)。潮が満ちてきたらトロッコが海水に浸(つ)かってしまうので、作業をする人が作業終了後に小学校の前まで上げていました。トロッコの車輪が動かないように歯止めがされていましたが、それを外して友だちと乗り込んで河口まで下るのです。河口では海水中にトロッコが突っ込んでしまうので、『ほりゃ、逃げー。』と言って逃げていました。
 この埋立浜ができるまでは、ハシの沖に、中浦(なかうら)から出ていた巡航船の市杵島丸(いちきしままる)が着いていました。柏の港は、潮が引くと海底が現れてしまうくらい水深が浅く、陸に着けることができないので、そのようなときには沖に停泊し、ダンベ(団平船(だんべいふね)〔幅広で底が平たく頑丈に造られた重量物の近距離輸送の船〕)という通い船で、艪(ろ)を押しながら沖の船まで行っていました。埋立浜ができてからは、そちらに炭や切干、材木などを運んだりする船が着いていました。それを思うと、この埋立浜は柏地区に役立っていることを実感します。」

 ウ 近所で遊ぶ

 「子どものころには、柏でも年に1、2回は5、6cmの雪が積もっていました。下駄(げた)を履(は)いていたら前歯と後歯の間に雪が挟(はさ)まって、すべった弾みで鼻緒を切ったことがあります。また、畑では、キンマ(木馬、山から木材と炭を運び出すためのソリのような道具)などでよく遊んでいました。
 軒先に下がったつららもよく食べていました。朝の通学途中に、太いつららを数えながら食べて、学校へ持って行っては廊下の端から端まで滑らせて遊んでいました。
 冬に限らず、その他にも子どもの遊びはたくさんありました。凧揚(たこあ)げやコマ、缶蹴り、鬼ごっこ、かくれんぼもしていました。かつて四国電力の宿舎があった場所に、今でも槇(まき)の木が一本残っていますが、昔は剪定(せんてい)もせずに伸びっぱなしでしたので、かくれんぼをしていた時には、その木に登って2、3人は隠れていました。」

(4)戦時中の体験

 「木造船は、海につかる船底部分にフナムシ(貝、船食虫(ふなくいむし)の異名)やカキが付くので、月に1回船底を焼く作業が必要です。焼くといっても焦(こ)がす程度に燻(いぶ)る感じで、フナムシを殺したりカキを落としたりするのです。この作業を『たでる』と言います。昔はよく船をたでる作業をしていました。太平洋戦争の最中(さなか)に爆撃機によって柏地区に爆弾が落とされた時、地元で漁師をしていた人が船をたでていました。多分、アメリカ軍の爆撃機が上空を飛んでいた時に、その煙に気が付いたのではないかと思いますが、引き返してきて、爆弾をこの地区に6発落としていきました。
 船をたでるには扱葉(こくば)を用います。扱葉というのは松の葉(落葉、特に松の枯れ落葉)のことで、地元の亥の子の唄にも『扱葉を食い寄せ巣を組んで、十二の卵を産みそろえ』と歌われています。アメリカの爆撃機や戦闘機が上空を飛ぶ恐れのあるときは、警戒警報が『ブー、ブー、ブー』と鳴らされますが、たでる作業をしていた漁師は、『何がこれくらい。』と思って火を焚(た)たいていたのかもしれません。松葉は油を含んでいますから、爆撃機から見えるくらい、火と煙が上がっていたのでしょう。その漁師さんは、爆風で飛ばされてきた土のために胸の辺りまで埋もれたと聞いています。
 爆弾は高目木や柏湾に落ちました。海中で爆弾が爆発したため、その衝撃で背骨の折れた魚が海面に浮いたりしたので、爆撃機が去った後に魚を拾いに行った人もいました。今は埋め立てられてもうありませんが、爆弾が落ちてできた大きな穴は、潮が満ちれば泳ぐこともできました。爆撃で亡くなった方がいなかったのは不幸中の幸いでした。」

(5)突き合いの思い出

 ア 突き合い牛

 「突き合いは、南郡中はもちろん、宇和島からも観客が来て、ものすごく盛んに行われていました。
 柏には、突き合い牛(闘牛の取組に出る牛)を飼う家が3、4軒ありました。中でも土代川牛(どよがわうし)(柏の土代川さんが飼っていた牛)という突き合い牛の評判がよかったのを憶えています。柏にも突き合い場があったので、大会が開かれていました。南郡(なんぐん)(南宇和郡)の闘牛の角(つの)は、頭から角が出始めたベコ(牛の子)のころから、自転車のチューブで左右を寄せていきます。だんだんと絞っていくので、角は上を向きます。その角を鎌で研(と)ぐのです。今の闘牛は、角を自然に伸ばすので、額で突くのですが、昔の牛は角で突き合っていました。下に入ったり、ヒラ(側)に入ったり、そういうのを私らは『突き合い』と言っていました。角同士がぶつかると、ガツンゴツンと音がして、その音がすると、見る方にも力が入りました。」

 イ 大まわし

 「柏には、突き合い牛を飾る大回しをつくる名人がいました。器用な人で、その人が作った大回しは崩れることがなく、一度締めたら外れませんでした。通常は回しを緩めて角に引っ掛けて、それを一人の勢子(せこ)が持った状態で突き合い場に下りて来ます。それから相手の牛が入って来た時に、回しをさっと外して試合が始まります。
 人突き牛の場合は、大回しを緩めない状態で土俵に入って、一人がしゃくったら(引っ張ったら)、回しが一気に外れるという仕掛けになっていました。大回しを外したり緩めたりすると、動きやすくなって人に向かってくるので、そのような工夫が必要でした。
 多くの場合は、勢子が牛の頭を上げるようにしていれば暴れることはありません。牛は、体より頭を下げたら力が出て、体より上へ頭を上げたら力が出ません。牛を土俵に出す時には頭を差し上げて連れて入るのです。」

 ウ 勝負の後

 「突き合いの勝負に勝った晩は、贔屓(ひいき)の人を呼んで、ご馳走(ちそう)の並ぶ宴会が開かれます。土代川牛が試合をしたら、土代川牛の関係者の家で酒を飲んで大騒ぎをしていました。他に娯楽がない時分でしたので、勝っても負けても、突き合いが大きな楽しみでした。」