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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 沿岸漁業の仕事と漁村のくらし

 佐田岬半島南側の宇和海域は、外海に直接連なった屈曲の多いリアス式海岸に恵まれ、古くからカタクチイワシやアジ、サバなどの好漁場であった。しかし、沖取(おきとり)漁業(沿岸でとる漁業に対して、沖合でとる漁業)の発達によって漁場が沖合に移動したため、岸深(きしぶか)で出入りの多い入り江の穏(おだ)やかな海面では、地の利と冬期水温の温暖さを利用して、魚類や真珠(しんじゅ)などの養殖業が営まれるようになった。
 八幡浜港から宇和海に向って突出する諏訪崎(すわざき)の南側基部に位置する舌間(したま)地区は、かつては舌間浦(うら)と呼ばれた漁村で、昭和20年代から30年代にかけて、カタクチイワシを獲る四ツ張網(よつばりあみ)をはじめ各種網漁や一本釣りなどが盛んに行なわれた。現在でも、一本釣りや刺網(さしあみ)などの漁業や、マダイやスズキなどの養殖業が営まれており、南に接する合田(ごうだ)地区を併せた舌田(しただ)漁港の港勢(こうせい)をみれば、八幡浜市全体の漁獲量に対する割合は、漁業が0.8%であるのに比べて養殖業は18.5%を占め、養殖業が盛んであることがわかる。
 舌間での漁業のようすやくらしについて、Eさん(昭和7年生まれ)、Fさん(昭和18年生まれ)から話を聞いた。


(1) 舌間の漁師一代記

 ア 漁師になる

 「昭和30年(1955年)ころの舌間の港は、現在の船溜(ふなだま)り(船舶が風波(ふうは)を避けるための碇泊(ていはく)所)がそうで、当時は海岸を埋め立てた舗装(ほそう)道路もなく、今よりも広くて砂浜のある遠浅の港でした。氏神(地域の守護神として祀る神)の一宮(いちみや)神社の前を通って集落の中を港に向けて伸びる道が主要な道でした。その港の少し沖側には細長い波止(はと)場があり、そこに漁船を繋(つな)いでいました。
 昭和21年(1946年)、私(Eさん)が国民学校の高等科2年の時、担任に、『お前は学校(愛媛県立八幡浜商業学校〔現愛媛県立八幡浜高等学校〕)に行かないけんのやけん(進学する学力があるのだから)、勉強せい(せよ)。』と言われて、学校に残されて勉強をさせられました。しかし、進学しようにも家にはお金がなく、父親は、『どがいにしても(どのようにしてでも)お前を学校に行かしちゃる(進学させてやる)。』と言うのですが、親戚に猛反対されました。最後には、その担任の先生から、『お金なら心配せんでも、わしが出しちゃるがやけん、働いち返しちもろうたがでかまん(働いてお金を返してもらったので構わない)。』とまで言ってもらいましたが、私自身、勉強があまり好きではなかったこともあって、結局は、国民学校の高等科を卒業した後、四ツ張網漁(よつばりあみりょう)の船に乗り、大人に混じって仕事を始めました。そのころはまだ14、15歳でしたので、年上の漁師たちの指示を受けて小使(こづかい)(雑用をする人)のように働きました。『お前はようする(仕事をよくする)。』と褒(ほ)められるのがうれしかったものでした。」

 イ 仕事を仕込まれる

 「当時は、舌間に四ツ張網が3統あり、夕方になるとそれぞれ沖に出て、集魚灯(しゅうぎょとう)でイワシ(カタクチイワシ)を誘い寄せて獲り、朝方に港に帰って来て水揚げをしていました。その後、漁師たちは、網を船から陸(おか)の干し場まで運んで乾かせながら、木の下の辺りで、寝たり休んだりしながら夕方の出漁を待ちます。ある時、同じ船に乗っていた几帳面(きちょうめん)な仕事ぶりのおじいさんが私を呼ぶので行ってみると、『網を縫(ぬ)え。』と言われました。私が、『よう縫わん。』と答えると、『よう縫わんけん、縫え言うかじゃ。わしが教えちゃる。』と言ってくるので、『そんなもん習うたち(習っても)余計に金はもらえんのやし、寝るほどええんじゃけん(寝るほうがよいので)嫌ぜ。』と言い返すと、『ばか言うな。何でも習うちょったらいいんじゃが。』と押し切られました。他の若い衆(若者)が、網を修理している年配の人たちを尻目に楽しそうに話しながら休んでいる中を、『こわやのう(辛いなあ)、嫌やのう、なんでわしだけやらにゃいけんのぞ。』と文句を言いながら網縫いをしました。時々、作業途中の網を見せると、『ここん違うちょる(ここが違っている)。飛んじょるじゃねえか(網の目が飛んでいるではないか)。』と怒られ、『そんな小(こ)まいのが(小さな破れが)分かるか。』と言い返すと、『それが分かるようにならんといけんが(いけないのだ)。』と注意されました。
 それを網干しの度に繰り返していると、不思議なことに、網がきれいになるのがおもしろくなって、やがて、そのおじいさんから、『ほれみよ。やれるようになったろうが。』と言われました。ただ、その時は、すぐ後に、『あーっ、いけない。ここん違うちょるけん(ここの網目がずれているので)、一番終(しま)い(網の端の部分)がつるみつかん(どうにもならない)。』と指導されました。あのころに教えてもらったおかげで、種類は違いますが、今でも網の修理ができます。」

 ウ 四ツ張網漁船に乗る

 「四ツ張網の漁場を求めて、舌間の沖だけでなく、遠い所では、大島(八幡浜市大島)の西の方まで行ったことがあります。網を引く網船4隻に5人ずつと、集魚灯をつける中船1隻に1人、合わせて5隻の船に20人程が乗って沖に出ます。昭和20年代半ばころはまだ、網船1隻だけが動力船で、残りは手漕(てこ)ぎ船でしたので、港と魚場までの往復に結構時間がかかりました。漁の方法は、まず漁場に着くと、小さい中船を真ん中にして四隻の網船がそれぞれ四方に広がり一丸半(ひとまるはん)(約300m〔丸は魚網に付ける綱の長さの単位で、1丸は約200m〕)くらい離れます。そして、その場所に錨(いかり)を下すと、また真ん中に戻り、網を海に入れます。網に繋いだ綱(つな)に目印のために木の樽(たる)をつけますが、たとえば錨が50mの深さまで沈んだ場合は、網と綱との繋ぎ目から70mぐらいの場所に取りつけておきます。そして、網船がその樽が浮かんでいる場所まで移動したら、2個のバッテリーに繋いだ集魚灯で海を照らします。当時はまだ100色(しょく)(100W)の電灯でしたが、それでも一晩でバッテリーの電気がなくなるので、毎日、重いバッテリーを船から下ろして充電していました。網を入れた後は、監視をする者以外は睡眠をとって、午前3時くらいにぼちぼちと網を引き上げます。それから、獲れた魚を網からのけ、錨を上げて明け方に港に向います。船のエンジンが、ディーゼルではなくて、馬力の小さい焼玉(やきだま)(シリンダー内の赤熱(せきねつ)状態になった球形の突起〔焼玉〕に油を吹き付けて爆発させる仕組みのエンジン)のころは、漁場が遠いと、『ポンポンポンポン』とエンジンの音をたてながら、時間をかけて帰っていました。
 四ツ張網漁が最盛期だった昭和20年代半ばころに、魚探(ぎょたん)(魚群探知機)が使われ始めました。魚探がない時分は、『灯(ひ)を見に行っちみよ(見に行ってこい。)』と言って、遠くで集魚灯をつけて漁をしている他の船の近くまでだれかを伝馬船(てんません)で行かせ、ようすを探らせました。灯(あか)りに照らされた海面が魚の群れで光り、しなぎ(魚が吐き出す小さな泡)が上がっていれば、『あそこがついちょるけん(魚が多く獲れているので)、この辺りで(漁を)やるか。』と言いながら、網を入れていました。漁探も最初は使いこなすのに苦労しますが、慣れてくると魚探をつけた船の方がよく魚が獲れました。私(Eさん)の乗っていた船には魚探があって、20歳前のころでしたが、船の親方が風邪を引いて漁に出られない時などに、『お前が(魚群探知機の操作と読取を)やれ。』と言われて、魚探を使ったことがありました。漁をすることは好きでしたが、まだ若かったこともあって、魚探を見るのは漁の全責任を負うことになるので怖かったことを憶(おぼ)えています。
 四ツ張網漁の景気がよかったころは、年に2回、盆と正月にまとめて出る歩合(ぶあい)制の給料も相当よくて、他の仕事を辞めて四ツ張網の船に乗る人もいました。しかし、それも昭和25年(1950年)ころがピークで、昭和28年(1953年)ころには漁に出たり出なかったりになり、昭和30年(1955年)には舌間の四ツ張網も1統になっていました。イワシが獲れなくなって収入が減ると、どうしても他の仕事をしなくてはならず、結果的に、人手を必要とする四ツ張網は廃(すた)れてしまいました。私が就職先を探している時に、会社の人に、自分が四ツ張網漁をしていたことを話すと、困った顔をして、『四ツ張網に行きよった人はいけん(採用しづらい)。それだけの給料はよう出さん。』と言われたことがありました。」

 エ 海から離れ、また海に戻る

 「四ツ張網漁の仕事を辞めてからは、一時期、八幡浜の建設会社が経営していた製材所で働きました。その製材所は八幡浜の向灘(むかいなだ)にあり、最初のころは自転車もなかったので、『大谷越(おおたにご)し』(舌間から八幡浜の市内への近道で、舌間の集落の北側の山を越えて八幡浜の大谷口(おおたにぐち)に抜ける経路のこと)を歩いて通いました。ただ、2、3年後には、会社が製材所を閉めることになったのでそこを辞め、その後、川上(かわかみ)(八幡浜市川上)の製材所に勤め始めましたが、そこも2、3年後には閉鎖されて辞めなくてはなりませんでした。
 そういうことが続いたので、もう他所(よそ)で働くのは止めて、当時、舌間で景気のよかった夜磯(よいそ)(夜釣り)を始めようと思ったものの、船や発電機を買うお金の工面がつかずに悩んでいたところに、向灘で新しい五智網(ごちあみ)(網で海底を引いて主にタイを獲る網漁)の船ができるという話を聞いたので、そこで働かせてもらうことにしました。その五智網船の船頭(せんどう)がよい人で、日役(ひやく)(1日の労賃)もよかったのでそのまま続けるつもりでしたが、舌間で鯛網(たいあみ)を始めた人から、手伝ってくれと頼まれ、五智網船の船頭からも、『おら方(うちの五智網船)も、お前がおらんようになったら怖おうちしょうがねえんやけど(漁がどうなるか心配で仕方がないのだけれど)、地下(じげ)やけん(地元なのだから)、帰っちゃれ(帰ってやれ)。』と言われたので、鯛網船に乗ることにしました。始めてみると、鯛網漁もまあまあよかったのですが、ある時、雨の中でカッパを着てゴム長靴を履いて作業をしていたところ、網に巻き込まれて海中に引っ張られてしまい、カッパや長靴のせいで身体を思うように動かせず、ようやくのところで助けてもらったことがありました。その後、私が鯛網船を辞めると、今度は、その鯛網船の持ち主が対馬(つしま)(長崎県対馬市)でイカ釣りを始めることになって、そこに行ってくれと知り合いから頼まれました。乗り気はしなかったのですが、どうしてもと頼まれた上に、船を造るための資金が必要で、その時分は舌間で漁がなかったこともあって引き受けることにしました。昭和36、37年(1961、1962年)ころだったと思います。」

 オ 対馬でイカを釣る

 「当時は、舌間でも(温州)ミカン栽培が始まっていて、ちょうどミカン摘(つ)みのころの11月に対馬に行きました。対馬に着くと、愛媛の何々丸は、どこそこの宿というように、船宿が割り当てられました。舌間以外に、近隣では、八幡浜の向灘や合田の船が1、2隻来ていましたし、三瓶(みかめ)の周木(しゅうき)の船も見ました。それらの船はまとめて、『愛媛船団(えひめせんだん)』という名称を付けられていました。
 対馬の港には、1番船、2番船、3番船というように、獲れたイカを引き取る買取り船が何隻も待っていて、漁に出るころまでには、今晩のイカの引き取り額が、1番船はいくら、2番船はいくら、3番船はいくらというように決まっていました。1番船から順に値がよく、早く港に帰ってきた船の分から1番船、2番船の順に引き取ってもらえるので精(せい)らしい(励みになる)のです。ですから、少しでも引いたら(イカが獲れたら)、『もう、いのう(帰ろう)ぜ。』と言って港に戻り、1番船に引き取ってもらっていました。そして、まだイカが獲れそうであれば、もう一回漁に出て、戻ってから3番船ぐらいに持って行ったこともありました。
 私たちの船宿の主人は老夫婦で、二人ともよい人でした。その時分はガスボンベがなかったので、皆、薪(まき)を買って船でご飯を炊(た)いて食べていましたが、宿の主人は、宿で食事をしてくれと言わないどころか、薪をリヤカーに積んで船まで持って来てくれました。それが気の毒でならなかったので、獲れたイカをお礼に持っていくと、『上げちくれな(陸に上げてうちに持って来てくれるな)。船(買取船)に積め。お前らは金儲(かねもう)けに来ちょるがやけん、1銭でも取っち帰れよ(少しでも多く儲けて地元に帰らないといけないよ)。』と言ってくれました。そして、舌間に帰るときに、その主人が、『また来年も来(き)ちくれよ。』と言うので、私は、『うん。わしが思うほど金ん(イカ釣りの収入が)あったら来(く)る。来(こ)なんだら、思うたほどはなかったがぜ、と思うちやんなはい(思ってください)。』と答えました。結局、思っていたよりも賃金が少なかったので、対馬までイカ釣りに行ったのは、その1回だけでしたが、あの船宿の主人にはよくしてもらいました。」

 カ 魚を見る

 「昭和40年代後半になりますが、私(Eさん)は、40歳のころに2、3年間、メジカ(マグロの幼魚)網の船にも乗りました。動力船1隻とそれに引かれる(曳航(えいこう)される)伝馬船1隻にそれぞれ10人ぐらいが乗って、夜明け前の暗い時に港を出るのですが、私と一緒に伝馬船の方に乗っていたおじいさんは魚を見るのがえらい(魚がいることを見抜く能力が高い)人で、私も頭が上がりませんでした。ある時、まだ漁場には着かないので船の中で寝ていたら、そのおじいさんが突然、『起きよ、起きよ。(メジカが)おるぞ。』と言って私を起こすのです。『どこにな。』と言いながら海面を見渡すのですが、私には何も見えません。続けて、『そこにおろうが、(魚がいる場所に留まるために)早(はよ)う表(おもて)(動力船から伝馬船の船首に繋がれていた曳航用のロープ)を放せ。』と言われても、私にはメジカがどこにいるのか分からず、言われるままにしました。やがて海面に畳(たたみ)2帖(じょう)ほどの広さの渦(うず)が巻いていることに気がついたので、『これがそうかな。』と聞くと、『そうよ。早ようやれ言うがよ(早く網を入れよと言っているのだ)。』と言われたので、寝ている皆を起こして網を入れると、その伝馬船に一杯のメジカが獲れました。後で、メジカは夜が明けてしまえば海面からいなくなるので渦もなくなる、ということを聞きましたが、そのおじいさんの、魚を見ることのえらさには本当にびっくりしました。」

 キ 自分の船で漁をする

 「他人の船でいろいろな漁をしてきて、よいこともありましたが、辛いことや嫌なことも経験しましたので、自分の船で漁(いさ)り(夜磯(よいそ))をしようと決めました。ただ動力船や発電機などを買うお金が足らなかったので、祖父に金を借りて船を造りました。祖父は、『返さんでいい。』と言ってくれましたが、そう言ってくれたからこそ早く返そうと思い、夜も昼もなく働いて、1年も経(た)たないうちにすべて返しました。それができたのは、当時、魚がよく獲れて、しかもミカン栽培が盛んだったからです。ミカンを収穫する時期になると、朝、沖からそのまま八幡浜の魚市場に魚を持って行って、舌間に帰ってから2、3時間寝て、地元でミカン摘(つ)みを夕方まで手伝って、それから沖に出る、を毎日繰り返しました。もともとは舌間のミカン山にだけ行っていたのですが、向灘(むかいなだ)のミカン農家から、『うちが済(す)む時分に(向灘のミカン摘みが終わるころに)舌間が始まるぐらいやけん(舌間でのミカン摘みが始まるぐらいなので)、来(き)ちくれんか(手伝いに来てもらえないか)。』と頼まれ、向灘と舌間の両方でミカン摘みをしました。向灘のミカン山に行く時は、魚市場から舌間に一旦帰ってから、弁当を持ち、自転車に乗って向灘まで通いました。向灘でのミカン摘みは、賃(ちん)(賃金)もよかったし、仕事の始まりと終わりが早くて午後3時ころには舌間に戻れたので沖に行くのにも都合がよくて、しばらくは沖とミカン山への行き来を繰り返しました。
 昭和の終わりころ、私が50代の半ばころでしたが、家庭の事情で昼間の長い時間と夜に家を空(あ)けることができなくなりました。当時はまだ夜磯も漁があったのですが、それに行けず、その上、昼間に長い時間続けて働くこともできなかったので困りました。その時にふと、以前、ねずみ島(八幡浜市真網代(まあじろ)の大釜(おおがま)漁港沖にある島)の近くでタコ籠(かご)漁(籠を海中に仕掛(しか)けてタコを捕らえる漁法)をしていた大島(八幡浜市大島)の漁師から、獲れたタコを見せてもらいながら、『あんたも入れちみなはいや(試しに海に入れてみたら)。』と、その人が作った網籠を10個ほどもらったことを思い出しました。そこで、タコ籠漁を試そうと思って、餌(えさ)はカニが一番よいということを聞いていたので、この辺りで『ツガニ』と呼んでいたカニを建網(たてあみ)(沿岸の魚群の通路に設置する定置網)で獲り、それを網籠に入れて仕掛けてみました。舌間にもタコ壺(つぼ)(漁)をしていた人はいたのですが、皆、漁のよかった夜磯に変わってしまい、当時はだれもしていなかったせいか、二日目に海から上げてみると、全部の網籠にタコが2、3匹ずつ入っていて、すぐに、『これは(タコ籠漁を)やらにゃいけん。』と決めました。それからは、昼の4、5時間を使ってタコ籠漁を続け、網籠を50個、100個、200個と増やしていきました。一番多いときには、300個ほどの網籠を仕掛けたこともあって、カニが間に合わなくなるとイワシを買って餌にしていました。
 その後、一日中漁に行くようになってからは、夜の10時ころに沖に出て、夜通し網籠を仕掛けてタコを獲り、朝、八幡浜の市場に持って行っていました。ただ、そのタコ籠漁も、餌代は高くなるし、この5、6年前からは獲れる数も減って、最近はよくありません。今では、そのタコだけでなく、魚も餌代になるぐらいしか獲れなくなり、私自身、少し身体が弱って1日中は沖に出ることができなくなったこともあって、心配する子どもたちからは、そろそろ漁に行くのを止めたらどうか、と言われています。」

(2)海とつながる舌間のくらし

 ア 海辺の子ども

 「四ツ張網漁が盛んだった昭和20年代半ばころは、毎日、相当な量のイワシが獲れました。ほとんどのイワシが、『茹屋(ゆでや)』と呼ばれていた所で茹でてから浜で天日干(てんぴぼ)しにされ、イリコ(炒(い)って干したもの)にされていました。そして、そのイリコを四ツ張網の網船に載せ、八幡浜の海産物問屋まで持って行って売っていました。当時の舌間では、イリコを作るのが一番の産業で、現金収入を手にする数少ない方法でした。
 私(Fさん)が子どものころには、国道(国道378号)が海に突き当たる辺りに塩田(えんでん)があって、そこにたくさんのイワシが干されていました。イワシの最盛期には、ほとんどの浜が、干したイワシで埋め尽くされていました。子どもたちにとっては、その中を歩きながら、干したイリコに混じった小さなイカや小魚(こざかな)などを見つけて食べるのが楽しみでした。昼ごはんを食べるために学校から家に帰る道すがら、いつもつまみ食いをしていましたが、気に留める人もいなくて、叱(しか)られることもありませんでした。
 舌間の漁船は、他所の人から『カリコ船』と陰で言われることがありました(舌間地区の海には、通常見ることの多い「ヤカンブト」と呼ばれた白いクラゲのほかに、「カリコ」と呼ばれた、水玉模様をした小さなクラゲが多く見られた。一方、合田地区の海には、「ヤカンブト」は見られても、「カリコ」はあまり見られなかった)。それで、私(Eさん)が子どものころは、合田の子どもと喧嘩(けんか)になって、向うから『舌間のカリコ坊が、こなー。』と言われると、『何が、合田のヤカンブトが、こなー。』と言い返していました。」

 イ 海に浮かぶ朱塗りの鳥居

 「舌間には、氏神の一宮神社と宮島様(みやじまさま)と呼んでいる厳島(いつくしま)神社があります。昔は、宮島様の夏祭りがあって、秋祭りよりも賑わっていました。その夏祭りの宵(よい)祭りと本(ほん)祭りの二日間は、木で作った高さが3間(けん)(約5.4m)ぐらいはあった大きな朱塗(しゅぬ)りの鳥居(とりい)を海に浮かべていて、私(Eさん)が子どもの時分には、他所からも弁当を持って見に来る人がいました。祭りの前になると、まず、舌間に2軒あった造船所から和船を造るのに使う板を何枚も借りてきて、今の舌間漁港の真ん中辺りにあった御旅所(おたびしょ)の岸から沖に向ってその板を浮かべて繋ぎ、20m程の長さの回廊を造ります。それから、普段は公民館の倉庫に入れている鳥居を出してきて、回廊の一番沖側に組み立てます。そして、石灯籠(いしどうろう)をかたどったものをその鳥居の近くに置き、回廊の付け根にあたる陸側にはバベ(ウバメガシ)の木で作った門を鳥居と向き合うような形で立てていました。昭和27年(1952年)が鳥居を立てた最後の年ですが、そのときのバベの木は、私(Eさん)が伝馬船を漕いで諏訪崎まで伐(き)りに行きました。そして、お祭りの後で、その門は舌間小学校の運動会の入退場門に使われました。
 私(Fさん)は小学生のころまで、夏祭りの時にその鳥居を見ました。広島(広島県廿日市(はつかいち)市)の厳島神社の大(おお)鳥居ほどではもちろんありませんが、子どもの目には、ものすごく大きな鳥居に見えました。海の上に赤い鳥居が立っている姿は印象的で、今でも忘れられません。それから、夏祭りには、『渡御(とぎょ)』という行事が行われていました。一宮神社と厳島神社の神輿(みこし)を、御旅所の前の浜で別々の櫓漕船(ろこぎぶね)に乗せ、その2隻の船が御旅所と厳島神社前の海までを往復します。往路はゆっくりと進み、復路で御旅所まで帰ってくる速さを競います。御旅所に先に旗(はた)を立てたほうが勝ちでした。8月ころにしていた夏祭りは、鳥居や渡御を見に来る人が多くて本当に賑やかでした。渡御の行事は、しばらく途絶えていましたが、昭和59年(1984年)に地域を挙げて復活させ、2隻の船の競争はありませんが、今でも伝統行事を守り続けています。
 私(Eさん)は、その渡御の船によく乗りました。若い時から、漁に出ればいつも艫(とも)を持たされていた(船尾(せんび)で櫓を漕がされていた)ので、櫓を押す(漕ぐ)のはだれにも負けませんでした。」
 子どものころから船に乗るのが好きだったというEさんは、話し終えると、「新聞を読んだりするときは眼鏡がいるが、網の(修理の)ときにはいらん。」と言いながら、自宅の仕事場で細かい建網(たてあみ)の繕(つくろ)いを始めた。
 舌間をはじめ、どの漁村でも、漁業をなりわいとしながら、地元の文化や伝統などを守り、つつましく暮らしている人々が地域を支えてきた。