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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 日土のくらし

(1)食とくらし

 「主食は麦に米を入れた麦飯が多かったです。私(Dさん)が小学生の時は、米のご飯を入れてくれたのは運動会や遠足の時ぐらいでした。中学2年生のころから弁当に米のご飯を入れてくれるようになりました。冬になると、どこの家も沢庵(たくあん)を大きな樽に一杯漬(つ)け、梅雨ごろまで食べていました。味噌も醤油も全部自家製です。急なお客さんで米や味噌、醤油(しょうゆ)などの調味料がないときは、隣近所で貸し借りをしていました。当時は、私(Bさん)の店でも塩や砂糖、醤油、酢などは量(はか)り売りでした。お客さんは容器を持って買物に来ていました。冠婚葬祭は近所の人に手伝ってもらいながら各家でしていました。私の店にいろいろと買い物に来てくれるのでありがたかったのです。
 昭和30年代は、葬式の香典(こうでん)返しは砂糖箱が定番でした。その注文が入ると砂糖箱を作らなければなりません。まず、砂糖を紙袋に入れて蓋(ふた)を閉めて、それを箱に入れます。何十個も作らなければならないので大変でした。急なことで、砂糖がない場合は問屋に持って来てもらうこともありました。昭和20年代は、砂糖が貴重だったのでそんな慣習はなく、病気のお見舞いに卵を持っていくような時代だったので、それと比べると昭和30年代は、生活に余裕が出てきたのだと思います。
 鮮魚は、宮内(みやうち)や川之石(かわのいし)から女の人が天秤棒を担いだり、リヤカーを引いたりして売りに来ていました。乾物の行商は合田(ごうだ)辺りから来ていたと思います。夏になると天秤棒に担(かつ)いで『金魚、金魚。』と言いながら金魚売りが来たり、年末になると千丈(せんじょう)の方からしめ飾りを売りに来たりして、それぞれの時期の風物詩になっていました。カゴ屋さんが、ツリカゴやトジョウケ(いずれも竹製のカゴ)などを天秤棒にぶら下げて川之内(かわのうち)から来ていました。
 今はのどが渇くと当たり前のようにジュースを飲みますが、当時は、値段が高くてなかなか買えませんでした。飲み物では、『渡辺のジュースの素』という粉末ジュース(昭和33年〔1958年〕発売)が、一番のご馳走(ちそう)だったのです。昭和30年代は食生活も大きく変化した時代で、市内の西南開発が作ったスモークミート(魚肉ソーセージ)や松本商会が作った『コクサンケチャップ』がヒットしたのも昭和30年代です。」

(2)装いとくらし

 「私(Bさん)の家内は、『姉たちが洋服を作っていたので、中学生のころには、自分で洋服を作っていた。』と言っていました。当時のこの地域の女性は、ほとんどの人がそうしていました。店では、まだ絣(かすり)を売っていました。五反田縞(ごたんだじま)の反物(たんもの)を店に置いていました。着物に縫(ぬ)うのはどこの家でも自分で縫っていました。
 私(Dさん)は横尾地(よこおじ)の出身ですが、小学校4年生まで、川辻(かわつじ)の保育園まではワラ草履を履いて下りて、保育園の近くの家の薪(たきぎ)小屋で靴に履き替えて、そこに靴を置かせてもらって、学校に行っていたと記憶しています。靴は高価なもので、急峻(きゅうしゅん)な山道を下りると靴が傷むからです。それだけ大切にしていたのです。
 私(Cさん)が小学生の時には、傘はまだ番傘(ばんがさ)を持って行っていました。帰りに雨が降っても、傘が重いのでささないで走って帰っていました。靴は履いていましたが、布靴で布に糊(のり)を貼り付けただけなので水に濡れるとすぐに糊がはげてしまうのです。そこで靴を脱いで懐(ふところ)に入れて裸足(はだし)になり、カバンを頭の上に乗せて走っていました。運動会でもみんな裸足で走っていました、分団リレーの選手に選ばれると、足袋(たび)を買ってもらえるぐらいでした。運動靴ではなくて運動足袋です。私(Dさん)が運動会で足袋を履いたのは小学校6年生の時です。それまでは裸足でした。」

(3)くらしとエネルギー

 「昭和30年(1955年)ころは電気も十分には供給されない時代で、電気休みというのがありました。だいたい一月に1回のペースであり、その日はこの地域に電気が供給されないのです。その日は、私(Dさん)の家では燭台(しょくだい)の上にロウソクを置いて明かりをとっていました。酒六の工場も休みになるので、商店にはお客さんがたくさんいました。昭和33年(1958年)に鹿野川(かのがわ)ダムが完成してから電気が十分に供給されるようになり、電気休みはなくなりました。それまで普通の家庭には電灯が一つ、二つしかなくて、用事がすむと別の部屋に持っていっていました。昭和35年ころになると、コンセントも出てきて、裕福な家庭ではテレビを買うようになりました。家を新築すると固定資産税の評価がありますが、当時は電気コンセントの数も評価の対象になっていました。電気代も高かったので電気はなるべく使わないようにしていました。中学生の時に、昼間は遊んで、夜になって勉強しているふりをすると、祖父に『昼間に遊んで何をしよんぞぉ。夜は電気を消さんかい。』と怒られていました。
 生活用水は昭和27年(1952年)に防川に簡易水道はできたのですが、それ以外の地区はそれぞれの世帯で確保していました。個人で井戸を持っている家は裕福な家で、普通は共同井戸を使っていました。中当では郵便局の横に共同井戸があり、風呂に使う水は天秤棒を担いで汲(く)みに行っていました。そのころは『今晩は、お風呂貸して。』などと言うのが当たり前でした。モヤイとして、何軒かが一つの風呂を当番で焚(た)くこともありました。風呂場は湯殿といって家とは別棟になっていました。風呂を焚いたりご飯を炊(た)いたりするのも薪(たきぎ)でした。その当時は、みんなが山で薪を拾うので山も荒れていなかったのです。
 昭和35年(1960年)ころから、プロパンガスが徐々に普及していきました。ほとんどの世帯が使うようになるのは昭和40年代に入ってからです。」