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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 磯崎のくらし

(1)海辺のくらし

 磯崎を舞台にした昭和のくらしのようすを、Bさん(昭和12年生まれ)、Cさん(昭和15年生まれ)、Dさん(昭和18年生まれ)、Fさん(昭和20年生まれ)、Gさん(昭和21年生まれ)から聞いた。

 ア 農業
 
 「磯崎では漁業をする人は少なく、ほとんどは農業でした。山の方は棚田(たなだ)が広がっていました。水が割と豊富なので、山田(やまだ)といって上の方まで田んぼがたくさんありました。戦後、だんだんと山の上の方からミカンに替わっていきました。栽培していたのは、ほとんど夏ミカン(夏柑)です。昭和30年代中ころまでは、ドンゴロス(麻袋)に夏ミカンを入れて山から降ろしてきて、出荷する時は夏ミカン(夏柑)を竹カゴに入れてワラ縄で縛り、船に積み込んでいました。夏ミカンの収穫の季節になると、千丈(せんじょう)(八幡浜市)の方から竹カゴを作りに来ていましたが、そのうちに、竹カゴはダンボールに変わり、夏ミカンも温州(うんしゅう)ミカンヘ転換していきました。私が小学生のころ、温州ミカンは、採りカゴに1杯分が1人役(1人の1日の賃金)くらいの値段がついていたので、『ミカンは大事にしろよ。』とよく言われました。」
 また、昭和20年代から30年代にかけて、磯崎では、現金収入を得るため、一部の農家で乳牛飼育やトマト栽培が行われた。昭和26年(1951年)に北海道より10頭の乳牛を導入し、10戸が酪農を始めた。Hさん(大正10年生まれ)は、次のように話す。
 「毎朝4時に起きて乳を搾(しぼ)っていました。よく乳が出る牛は、日に1斗7升(約30.6ℓ)ほどとれました。集乳所へ各自が入れ物に入れて、持っていきます。朝7時には八幡浜からトラックで集めた牛乳を取りに来るので、それまでに集乳所へ持っていかなくてはなりませんでした。仔牛(こうし)ができると3、4万円で売れました。その後、乳牛を飼う農家も増え、30年代後半には集乳所が賑わっていました。
 トマトの栽培は、トマトは米軍基地(山口県岩国(いわくに)市や広島県呉(くれ)市)での需要があるということを聞きつけた人が始め、次第にトマトの栽培をする農家が増え、昭和28年(1953年)には、磯崎にトマト出荷組合ができました。昭和31年(1956年)にはトマト倉庫が建設され、トマト生産の最盛期を迎えたのですが、そのころからトマト栽培が各地に普及したこともあって、磯崎でのトマト栽培は衰退しました。」

 イ 漁業

 昭和30年代まで磯崎で行われていた漁業について、Iさん(昭和9年生まれ)は次のように話す。
 「男性が漁で釣った魚を女性が村中を売って歩いていましたが、磯崎では、漁業だけで生活していくことはできず、ほとんどが漁をしながらヤマ(田んぼや畑)の手伝いにも行くという生活でした。昭和30年代は櫓(ろ)をこいで船を出し、釣りをしていたのです。主に、タコ、イカ、ハマチを釣りました。
 また、イワシ網もありました。村の東の出海との境に近いところにイワシの漁場がありました。漁場近くに少し海に突き出た小高い所があるのですが、そこが見張所でした。木でやぐらを組み、二人が海を見ています。イワシがわいてくる(たくさん見え始める)と白い旗で合図して、イワシ干し場の方にいる人に知らせます。知らせを受けたら、ほら貝を吹き鳴らし、村中に聞こえるように漁に出る合図をします。ほら貝が鳴ると、手伝い衆がヤマの方から皆降りてきて船に乗り漁を始めるのです。イワシはよく獲れていました。子どもも手伝うと、その日のおかずになるくらいは駄賃にイワシをもらっていました。母親が喜ぶので、手伝って持って帰るのがうれしかったです。当時は岩場にサザエもたくさんいました。」

 ウ 交通

 「昭和15年(1940年)ころは、磯崎と長浜の間は定期船に乗っていました。私(Bさん)の母は白滝(しらたき)(大洲市)の出身だったので、小さいころよく白滝へ行きました。磯崎から定期船があって、伝馬船で沖まで出て、その定期船に乗り換えて長浜まで行っていました。共栄丸という船だったと思います。船は磯崎のあとは出海(いずみ)、櫛生(くしゅう)に寄って、長浜へ行っていました。長浜は末永回漕店があった辺りが浜になっていて、そこに船が着いていました。長浜からは、汽車で白滝まで行きました。当時、汽車はハイカラでまだめずらしい時期でした。
 昭和15年に瞽女ヶ峠(ごぜがとうげ)を越えて八幡浜へ向かう県道が開通しましたが、おそらく長浜からの道路は昭和10年前後には磯崎の辺りまでできていたのだと思います。わが家(Dさん)の製材所は、もとは海岸付近にあったのですが、県道ができたので上の方に移ったという話を聞いています。
 長浜行きのバスは終戦直後から走っていましたが、八幡浜方面行きのバスができたのは昭和25年(1950年)くらいからだったと思います。長浜行きのバスは2時間に1本くらいあり、片道小(こ)1時間くらいかかっていました。子どものころにバスに乗っていて窓から下を覗(のぞ)くと、道路がなく断崖絶壁で海しか見えないので、『(バスが)落ちとる、落ちとる』と騒いでいました。当時の道路は、バスが通るのが精一杯ぐらいの道幅で、バスのタイヤは道路の上ですが、車体の端は道路から海の方へはみ出していたのです。昭和31年(1956年)1月に櫛生のあたりで最終便のバスが転落し、乗客の全員が亡くなる事故がありました。海が時化(しけ)ていて、暗い上に潮が上がって前部全然見えなくなったせいだと思います。今でも冬の風が強い日には、バアーッと潮が上がって前部見えにくくなって怖くなることがあります。私(Bさん)は長浜高校へ、バスではなく自転車で通いましたが、道路が舗装されていないので、自転車がよくパンクをして大変でした。自転車で1時間くらいかかっていたと思います。
 磯崎から八幡浜方面行きのバスは、一番多いときで日に2便ありましたが、ほとんどは朝早く八幡浜方面へ出発して、夕方戻ってくる一往復でした。現在は15分ほどで川之石に着きますが、昔は瞽女ヶ峠を通らないといけなかったので1時間以上かかっていました。朝7時ごろにバスは出発していましたが、八幡浜の高校への通学は、バスでは始業に遅れてしまうからでしょうか、八幡浜高校ヘバスで通学する人はほとんどいなかったのではないかと思います。川之石高校への通学には、枇杷谷(びわだに)に自転車を置いて、山を越えて通っていた人が何人もいました。その方が早く行けたのだと思います。
 小学校は喜木津にもあったのですが、中学生になると、喜木津の子たちは磯津中学校に通います。昭和29年(1954年)ころまでは、喜木津の子はいろは丸に乗って中学校へ通学していました。高校進学は、だいたい川之石高校か長浜高校へ行くのですが、喜木津の子どもたちの8割ほどは川之石高校へ行き、反対に磯崎では、8割ほどの子どもたちが長浜高校へ行っていました。」

 エ 娯楽

 「娯楽といったら、磯崎にはネオン楽団がありました。終戦直後に、ギターやアコーディオン、バイオリンなどを演奏するグループがいて、結婚式や何かごとがあると呼ばれて演奏していました。小学校の運動場に舞台を作って演芸会もやっていました。
 テレビが磯崎の町に入ってくるのは遅かったと思います。昭和34年(1959年)の皇太子殿下のご成婚の時には、テレビがある家はまだ1軒か2軒しかなく、ラジオばかりでした。相撲が放送される時間には、テレビのある家に大勢の人が見に行っていました。テレビは、山口県の方の電波がよく入っていたので、『山口のニュースは分かるけれど、松山のニュースは分からん』といった感じでした。防府(ほうふ)テレビの電波がよく入っていて、山口でやっていることは分かるけれど、肝心の愛媛で何をやっているかは分からないのです。」

 オ 雨乞い

 「雨乞(あまご)いは、30年ほど前までやっていました。雨が降らない特に、お宮で太鼓を叩(たた)いて『雨たもれ、じおんどう、じおんどうが焼けるぞー』とおばさんが歌っていました。太鼓を叩いたら天に響くからと言っていました。喜木津に雨乞い山という山があり、そこにお供(そな)えをして雨乞いをしていたという話も聞いた事があります。」

 カ かきほどき

 「大病をして手術をしなければならない特に、手術をする人の近所の人が集まり、無事に治るようにとするのですが、お百度参(ひゃくどまい)りのようなもので、『かきほどき』ということをやっていました。それは、手術の後ではダメなので、必ず手術前にやります。昭和30年(1955年)ころにもまだ、みんながお祈りのつもりで客(きゃく)神社でやっていました。神社の境内にお百度石という石があり、鳥居からその石のところへ行って、お参りをした回数を数えるために持っていった豆を置いてから、くるりと回って鳥居に戻る、ということを繰り返しました。この『かきほどき』には、大勢の人が出席していました。自分や身内が大病になったときにも同じようにしてもらわないといけないからだと思います。」


(2)子どもの遊び

 ア 海や川で

 「夏になると子どもたちは海に行って、サザエやアワビを採りました。大潮のときは、干上がった岩場にもアワビやサザエがいたので、たくさん採れました。磯崎の港で、何人もの子どもが、定期船のいろは丸にタダ(無料)で乗せてもらって、丸碆(まるばえ)のところ(図表1-1-3参照)で船から海に飛び込んで泳いで帰って来る遊びをよくしていました。私(Cさん)は子どものころ、コヤマメ(空豆)といって、田んぼの縁(へり)に作っていたマメを巾着(きんちゃく)(口に緒をめぐらした小袋)にいれて泳いでいました。泳いでいる間にマメが軟らかくなり塩味がついてうまかったからです。
 昭和20年代にはイワシがよく獲れました。手漕(てこ)ぎの船2艘で網を引いて港へ帰り、浜でイワシを大きな釜でゆがいて(茄(ゆ)でて)、干していました。海岸で遊んでいる時には、よく干した半生(はんなま)のイワシをつまみ食いしていました。イワシに交ざって一緒に干してある小さいイカもおいしかったです。子どもが取ってもあまり怒られませんでした。
 昭和20年代には、川でも泳いでいました。亥の子川(中之谷川)の流れが一番大きくて、昔は水も多かったのです。川の遊びといえば、ウナギを獲ったり、エビを獲ってそれを餌(えさ)にして魚釣りに行ったりすることでした。カニもいました。海岸端の石垣には、ツガニ(モズクガニ)が入っているので、よく獲りに行っていました。特に、大水が出ると堰(せき)が崩れるので、カニがものすごく出てきます。小学生のころは、大水が出るとそわそわして、(学校での)終わりの会があって本当は帰ってはいけないのに、先に帰らないとカニをとられてしまうので、勝手に早退してはよく先生に怒られました。」

 イ 里や山で

 「『ネンガリ』という遊びがありました。稲刈りが終わった田んぼに木を削った棒を突き立てておいて、木を投げ刺して倒し合う遊びです。竹で作った水鉄砲とか、メンコ(パッチンともいう)、たたきゴマでも遊びました。たたきゴマは、木を削ってコマをつくり、竹の棒の端に布切れを2、3本つけておいて、その竹の棒でコマをたたいて回す遊びです。メンコの絵柄は侍(さむらい)が多かったです。メダケ(笹竹)という竹で、心棒も竹を使い、クスノキの木の実を玉に使った鉄砲を自分で作って遊びました。缶蹴(かんけ)りもしていました。私たちが子どものころは、客神社の境内の大きなクスノキの木があり、その木の太い枝の上をダッダッと走って鬼ごっこのように逃げたりしてよく遊びました。
 おやつには、ヨノミノキ(榎)やムクの木の実をよく食べていました。マキの実もおいしいです。マキの実は赤い方が果実で青い方が種になっています。タブの実はイチジクのような味がします。蚕を飼っている家もあったので、クワの実もよく食べて、口の中が紫色になっていました。他にお菓子のない時代だったので、木の実をよくおやつがわりに食べました。」


(3)年中行事

 ア フノリの口開け

 「毎年4月3日に『フノリの口開(くちあ)け』といって、磯にあるフノリ(岩礁に着生する海藻、布海苔(ふのり))を採りに磯崎の海岸に行きました。それまではフノリを採ってはいけない決まりで、その日に家族総出で弁当を持って行き、食べ終わって、引き潮になると、合図のほら貝が鳴り、それから一斉に好きなだけ採るのです。家族で弁当を持って行くので、春先の楽しみでした。それぞれ自分の好みの場所へ行きましたが、私(Dさん)方は磯崎の西海岸のクシノハマヘ行って、磯の岩についているフノリを採りました。フノリカギといって、草削りと同じ小さな道具でフノリを採り、ドンゴロス(麻袋)や竹かごに入れて持ち帰りました。フノリは、壁土の材料として換金できるので、昭和20年代の中ごろから採り始め、業者に売ったり自家用(建築資材)として保管したりしていましたが、昭和30年代の中ごろにはしなくなりました。
 また、潮がよく引く旧暦の1日と15日には、日土(ひづち)(八幡浜市)や豊茂(とよしげ)(大洲市)の方からも、ワカメやヒジキを採りに来ていました。」

 イ おこもり

 「4月28日に『おこもり』といって、城山(しろやま)(磯崎城の城跡)に地域の者みんなが手弁当を持って集まっていました。昔は、地域のことは何もかも、この『おこもり』の時に話し合いで決めていたそうです。今では年度末である3月末までに決めないといけないので、話し合いはしなくなりましたが、今では『城山まつり』として、地域の人たちがお弁当を持って城山に集まり、楽しんでいます。」

 ウ 盆踊り

 「盆踊りは、昔は浜でやっていました。今は学校です。亡くなった方の供養もかねているので、名前を書いた紙を櫓(やぐら)の周りに貼ります。仮装で盆踊りをしたりもしていました。昭和30年(1955年)ころは、赤穂浪士(あこうろうし)の四十七士に仮装して踊るのが流行(はや)っていました。長浜の青島(あおしま)でその仮装をやっていたのを、青島から来た人や青島で見てきた人がまねてやりはじめたようでした。」

 エ 秋祭り

 「秋祭りは、10月15日ですが、9月15日は鳴らし始めといい、この日から各地区で練習を始めます。1週間に1回ずつ、1か月かけて練習するのです。各地区の練り物はそれぞれ別で、沖(おき)と東中(ひがしなか)は、四ツ太鼓といって乗り子が乗ってみんなが担ぐもの、中之谷(なかのたに)は五ツ鹿、坊(ぼう)はお船を出していました。昭和30年代には、磯崎の子どもたちで牛鬼を2体出していました。現在は、五月ヶ丘(さつきがおか)から唐獅子(からじし)が出ます。五ツ鹿は、装束を着て頭で顔を隠して踊るのが普通ですが、磯崎の五ツ鹿は長襦袢(ながじゅばん)姿で頭(かしら)の下はお化粧をしていて珍しいうえに、舞うというより歌舞伎のような感じで割と大きく踊ります。
 10月13日にお宮(客神社)の準備をします。14日の晩は、相撲とお神楽をしていました。相撲はお宮の境内でやっていました。相撲をとる人は、お花(ご祝儀)を貰(もら)うので半分商売みたいにしている人もいて、お祭りを追って近隣を回っていました。大洲や長浜の方からも相撲をとりに来ていました。日土からモリノハナという相撲取りが来て、とても強かったのを憶えています。お宮の中ではお神楽、境内には土俵を組んで相撲が行われて、14日は本当に賑(にぎ)やかでした。
 15日の昼からお祭りをします。お宮で練(ね)りをした後、先頭の牛鬼(現在は唐獅子)につづいて、五ツ鹿、四ツ太鼓、お船、お神輿(みこし)、神主、総代の順番でお宮から浜にある浜宮(はまみや)(お旅所(たびしょ))へ行列を組んで行きます。現在でも50人近くの人数になります。浜宮で神事の後、そこで再び練りをします。浜宮から戻る際は、練り物は地域を回り、振る舞い酒をいただきながらお宮へ帰ります。帰りは練り物の順番が違います。順番を間違えると昔は詫(わ)び状(じょう)を書いたりもしていました。振る舞い酒は、神様がくることと同じことなので、神様が来たということで家々でお酒と鉢盛(はちもり)(ご馳走)を用意します。担ぎ手は振る舞い酒で酔ってしまい、四ツ太鼓に乗る子たちは小学生ですから眠いのになかなか帰らないので、大人と子どもがよく喧嘩(けんか)になったりしていました。夜の10時ごろにお宮に戻り、練りをするので、練りは合計3回やります。お祭りが終わるのは夜中の12時ごろになります。夜中なのにみんながお宮で待っていて、最後にみんなで万歳三唱をして終わります。万歳を仕切るのは、当時は青年団の団長でしたが、今は練り物の頭(かしら)(代表者)で、毎年交代でやります。16日に『花びらき』といって、もらったお花を精算して、またお酒を飲みます。
 私(Bさん)は四ツ大鼓の世話役をしているのですが、昔は長男でなければ上に乗せませんでした。私は他所(よそ)から来たので、長男ではあるけれど四ツ太鼓には乗れませんでした。今では、男の子がいないからと女の子を乗せることになって、そのうち女の子もいなくなって、というように子どもがいなくて困っています。お神輿も担ぐのに8人、2台あるので16人いるのですが、担ぐ人がいないのでお神輿に台車をつけました。今はどの地区も担ぎ手がいませんが、お祭りの4日間は大阪や松山からみんなが帰ってきてくれるので、お祭りを続けることができています。」

(4)磯崎の海を行き交う人々

 昭和20年代から40年代にかけて、磯崎の港や海に人々が集まり、賑わっていたようすを聞いた。
 「私(Gさん)方は戦後、磯崎にあった造船所で金山丸(きんざんまる)という木造船を造りました。造った船大工は、その後、三机(みつくえ)(伊方町)に移りました。金山丸は焼玉(やきだま)エンジン(シリンダー内の赤熱(せきねつ)状態になった球形の突起〔焼玉〕に油を吹き付けて爆発させる仕組みのエンジン)の大きな木造船で、磯崎の波止(はと)の3分の2くらいの長さがありました。船が大きすぎるので、ふだんは長浜港につないでいたようで、磯崎の港に入れないときは、沖に停泊している金山丸に伝馬船で近づき、吊(つ)りばしごで船に乗ることがありましたが、高くて怖(こわ)い思いをしました。子どもが船上から海に飛び込んで遊ぶのですが、高すぎて頭から飛び込むのが怖くて、足からでないと飛び込めませんでした。金山丸は運搬船で、炭やニブキ(クヌギなどの薪材)を関西へ運んでいました。そして関西で仕入れた商品を積んで帰り、経営している雑貨屋で売っていました。私の家は船持ちでしたので、『カニを食うたら船が沈む。』と言って、カニを食べさせてもらえませんでした。迷信でしょうが、理由はわかりません。
 私(Dさん)方も機帆船(きはんせん)や鉄船を持っていました。最初は敬神丸(けいしんまる)という木造船を買ってきて、大福丸(だいふくまる)に名を変え運航していましたが、それを廃船にして鉄船にしました。元の木造船のときは、木材運搬をしていました。磯崎の山の木(杉・檜・松)をここからここまでというふうに買い付けます。そして、その木を樵(きこり)さんに頼んで切ってもらいますが、その切った原木は15mから20mあるので、力の強い牛に引っ張らせてこの製材所の前まで運ばせます。当時の一人役は300円ほどでしたが、牛一頭は五人役ほどの駄賃を稼ぐことができたそうです。運んだ木はいったん製材所前の広場に置きます。その木を今度は製材所で、1間(1.8m)から1丈(3m)ほどの長さの、柱や板といった建築材用に加工します。それを港の船まで三輪トラックで運びます。大阪の方の住宅需要もあってどんどん運んでいましたが、そのうち磯崎の山の木もすっかりなくなり、住宅需要も少なくなったので、福岡県の若松(わかまつ)から石炭を積んで関西へ運ぶようになりました。木造船のころは、途中で潮待ちをするので、瀬戸内海を片道1週間もかかっていました。
 第七大福丸は油槽船(ゆそうせん)(タンカー)で、松山の丸善石油の仕事を請けて、瀬戸内海や遠くは北海道まで往復していました。岡山県の下津井(しもつい)にもよく行きました。かつては磯崎出身の船員さんもいたので、九州へ空船(からぶね)(積み荷のない船)が行くときは、ちょいちょい磯崎の沖にも帰って来て半日ほど停泊し、小船に乗り換えて磯崎の家族に会わせたことが何回かありました。」
 BさんやDさん、Fさん、Gさんは、広島県から来ていた「家船(えぶね)」(家族で船に住み、各地で漁をする)や、尾道(おのみち)(広島県)、三津(みつ)(松山市)、祝島(いわいじま)(山口県)から来ていた船のことを話す。
 「昭和30年代までのことですが、広島県から磯崎へ鱧(はも)を獲りに、家族連れで10艘(そう)ほどが来ていました。学校に行くような子どもは留守の家に置いておいて、就学前の子どもを連れて、夏に1か月くらい、磯崎の港で寝泊りしていました。港で水を補給したり、磯崎の店で買物をしたりしていました。それで磯崎の店も一時繁昌(はんじょう)していました。
 漁は、まず餌(えさ)のゼンゴ(小アジ)を獲って、夜、出漁して朝方帰ってきていました。磯崎だけでなく、喜木津や広早の沖の方にも行っていたように思います。私(Bさん)は電報を配達していましたので、港で『だれそれさんの船はどこやろうか。』と尋(たず)ねて停泊先を教えてもらい、電報を届けると、『よう届けてくれた。』とお礼に魚をもらっていました。
 当時、私(Gさん)が港を歩いていて、『おいしい匂いがするな。』と思って見回すと、広島県から来ている船で煮炊(にた)きをしていました。食事をして、夕方から漁に出て行くのです。その時分はまだ、磯崎のどの家も薪(たきぎ)や炭火で煮炊きしていたのですが、広島から来た船は、プロパンガスで煮炊きしていましたので、私(Bさん)は『ええ道具があるなあ』]と感心していました。
 昭和20年代には、広島県の尾道から、寝茣蓙(ねござ)や海産物を積んで売りに磯崎へ来る船がありました。イグサの製品は、港から上げられ家々に売られていました。その船は、磯崎でワカメを買って積むこともありました。
 また、当時は沖でイカがよく獲れたので、三津(松山市)からイカを買いに来ていました。こちらから三津へ売りに行くこともありました。
 昭和40年代の中ごろまで、農協とは別に夏ミカンや温州ミカンを防府(ほうふ)(山口県)へ運んでいました。山口県の祝島(いわいしま)の人が山本丸という船で磯崎の港へ来て、船にあゆみを渡して積み込み、ミカンを船の中の船倉でかごからダーッと移します。運んでいる人が、あゆみの上や船べりでこけて、ミカンが海面に落ちてしまうことがありました。
 また、昭和40年前後には、櫛生の人が磯津沿岸のヒジキを採っていて、磯津漁協に入漁料が入っていました。今はヒジキが採(と)れないのでやめています。それとは別に、昭和30年代の後半、夏にヒイラギ貝か何かを採るため、県外の人が1か月くらい櫛生で寝泊りしながら、当時はウェットスーツがないので水着を着て潜(もぐ)っていました。1時間ぐらい潜ったら寒くなるので、船の上で火をたいて暖(だん)をとっていました。」
 Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、Fさん、Gさんは、磯崎のくらしをさまざまな話題で語ってくれた。話し合いの中で、磯崎の伝統を大切にする気風が現在も脈々と受け継がれていることが言葉の端々から感じられた。