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愛媛の技と匠(平成9年度)

(1)力を合わせる家族

 **さん(松山市宮西 大正15年生まれ 71歳)
 **さん(松山市宮西 昭和27年生まれ 45歳)

 ア 鋳物製造工程

 銑鉄鋳物とは、鋳物用銑鉄(*11)や鋼くずなどをキュポラ(*12)(写真4-1-8参照)や電気炉などで溶解した溶湯(ようゆ)を、必要な形状、寸法をもった砂型や金型の空隙部(くうげきぶ)に流し込んで、凝固・冷却させたものである。
 鋳物製造工程の概略を記すと、以下のとおりである(③)。

 ① 鋳物砂(*13)の調整
   鋳型により、配合の割合はさまざまである。砂粒に粘結剤や添加剤を加えてよく混練する。
 ② 鋳型の製作
   ①の砂で、機械や人力により、目的の形状寸法の空隙部を持つ鋳型を作る。
 ③ 溶解
   地金材料を溶解炉で燃料や電力を用いて溶解し、高温度の溶湯を作る。
 ④ 鋳込み
   取瓶(とりべ)などを用いて、鋳型の湯口から溶湯を注入する(写真4-1-10参照)。鋳込み後は適当な速さで冷却する。
 ⑤ ばらしと堰(せき)折り
   凝固後鋳物を取り出し、湯口を除去して、機械や人力で砂落としをする。
 ⑥ 鋳仕上げ
   鋳物表面の不必要な部分を、研削したり工具で除去して仕上げる。
 ⑦ 検査と試験
   鋳物が図面指定に忠実に作られているか調べるとともに、欠陥や不良がないか検査する。

 イ 鋳物屋の子供

 市街地で、代々鋳物業を営んでいる**さんにうかがった。
 「わたしの祖先は鋳物師で、伊勢桑名から松山藩初代藩主松平定行(1587~1668年)と一緒に松山へやってきて、かつての唐人(とうじん)町2丁目(現在の、松山市三番町1丁目)で鋳造業を営んでいました。唐人町は、今で言えば工業地区のようなものです。屋号は三原屋で、代々の当主は三原屋久左衛門を名乗り、わたしが12代目に当たります。しかしその作業場は、昭和20年(1945年)の空襲で焼失してしまいました。
 鋳物屋の子供でしたから、父親の作業の様子をよく見ておりました。もう、小学校6年生のころには、父親から『魚釣り用のおもりを作っておけ。』と言われるようになっていました。おもり作りは、取瓶で鋳型に湯(溶湯のこと。以下、同じ。)を流し込む程度の作業で済みますから、子供にも簡単にできました。釣り糸が通る穴は、鋳型に竹ひごを差しておき、湯が固まったら、竹ひごをすっと抜くと出来上がりです。父からの注意は、『やけどせんようにせいよ。(やけどをしないようにしなさい。)』というくらいで、後は任されていました。自分で湯を流し込んだ鋳型から品物が出来上がるのが、本当におもしろかったです。
 わたしは満19歳で終戦を迎えました。その時に、今後も鋳物業を続けるかどうかを父親と話し合いました。しかし、終戦後の混乱の時期で、新しい事業を始めると言っても、何をすればいいのか全く見当のつかない状態でした。それに、農具のすきの刃先を作っていた関係で、農協から、『早くすきを作ってもらわないと、農作業ができない。』という要望があったので、結局鋳物業を続けることになりました。そして、わたしが父親の後を継いだわけです。
 その後、少しの間松山を離れていたのですが、昭和22年(1947年)に現在の場所に移り、鋳造業を再開したのが翌23年でした。その当時は、この辺りのほとんどは田んぼで、家が数軒立っているくらいでした。しかし、鋳物業を再開すると言っても、全てが焼失した後の裸一貫からの再出発ですから、これは大変でした。借金なども一切返済し、本当の意味で工場が自分のものになるまでに、約20年はかかりましたね。
 製品は、すきやくわなどの農具が中心でした。しかし、昭和30年代の初めころに耕うん機が売り出されるようになると、わたしのところの農具の売れ行きが、次第に悪くなってきました。そこで、農具に替わる物として、次に何を作るかということで、頭を悩ませました。ちょうどそのころ、社会全体で浄化槽の普及が取り上げられるようになっておりましたので、マンホールのふたを作ってみてはどうかということになりました。現在では、浄化槽に加えて、下水道のマンホールのふたも製造しています。」

 ウ 鋳物を作る技

 **さんの話が続く。
 「鋳物の作り方は、基本的にはせんべいを焼くのと同じです。ただし、せんべいは、種を両側から型で挟みますが、鋳物は、雄(お)型と雌(め)型の二つの型を合わせた中に湯を流し込むところが違います。型は砂で作りますが、使い古した砂では、いい鋳物はできません。型は、砂が命です。毎回、新しい砂を補給しています。
 湯の原料にはスクラップを使っています。常に同じ材質の鉄を溶かして湯をつくるのならば簡単ですが、スクラップは、業者が運んで来る度に材質が異なっています。材質が異なれば、溶かす温度とか、溶湯として使うタイミングなどが違ってきますから、その都度注意をしなければなりません。湯の作り方一つを間違えば、その湯から作られた鋳物は、全て製品として価値のないものになってしまいますからね。特に最近は、1個や2個ではなくて、一度に大量に鋳造しますから、不良品ができた時の損害はかなりなものがあるとともに、納品先からの信用も無くしてしまい、以後、注文がこなくなります。
 また、スクラップを原料としているということは、製品の設計にも影響してきます。先程のマンホールのふたで説明しますと、例えば、6tの荷重に耐えることのできるふたの鋳造の注文を受けたとします。すると、その設計は、8tの荷重に耐えられるようにします。どうして2tも余分に見積もるかというと、万が一スクラップの中に材質の悪いものが混ざったままで湯を作り、それでふたを鋳造してしまった場合でも、この余分の2tによって、製品の質の悪さがカバーされ、最初の注文どおりの6tの荷重に耐えることのできるふたが出来上がるからです。
 松山市から注文を受けて作っているマンホールのふた(写真4-1-13参照)は、すべて「手込め」(機械ではなく手作業で鋳込むこと)です。あのマンホールの裏側の形状は、県の工業技術センターと共同で、約2年がかりで設計しました。マンホールのふたは、一見するとなんでもないような形ですが、裏側は凸レンズのように膨らませた形になっています。この形の利点は、従来の形の物に比較して、上からの圧力に対する強度が約1.5倍増すにもかかわらず、製品の重さを約2kg(全体の約8%)軽く仕上げることができることです。」

 エ 作り続ける営み

 さらに**さんの話が続く。
 「製造業全般に言えることかもしれませんが、特に鋳物業では、同じところに何十年と勤め続けて、ほかのどこでもない、その家の職人と呼ばれる人がいなければ、そこの技術は伝承されません。親方よりも年上で、製造技術を熟知している職人が、必ず働いているものです。親方となるべき者は、子供のころから、その職人の技を見よう見まねで覚えていくものなんです。技術というものは、こうして受け継がれていくのだと思いますよ。」
 **さんの息子さんで、13代目の**さんに、現在の鋳物業の様子をうかがった。
 「かつての鋳物業は、1個1個に時間をかけて、こつこつと手作りで仕上げていくという色彩が強かったんです。それが、現在では、一度に大量の製品を作らなければならなくなってきました。ゆっくりと時間をかけていたのでは、採算が合いません。
 大量生産のためには、作業工程の機械化をせざるを得ません。機械に湯を入れるのは人間がやりますが、それ以外は、ボタンを押すだけで全部機械がしてしまいます。作業の能率はいいですが、父がしてきたように、いろいろ工夫しながらということはなくなります。ですから、作業の面白みはありません。人間が機械に動かされているという感じですね。
 経営のためには、製品を大量に作らなければなりません。しかし、そうすると、仕事の面白みがなくなってしまいます。ここに、この仕事を続けていく上でのはがゆい思いがあります。」


*11:鉄鉱石を溶鉱炉または電気炉で溶融し、還元と加炭を行った鉄のこと。
*12:円筒の鋼板に耐火レンガを内張りしたシャフト炉で、地金とコークスを交互に入れ、コークスを燃焼させることで地金
  を溶解させる装置。
*13:鋳物砂は大きく分類すると、山砂(粘土含有率2%以上)、けい砂(粘土含有率2%未満)、特殊砂の三つに分けられ
  る(③)。

写真4-1-8 キュポラでの溶湯づくり

写真4-1-8 キュポラでの溶湯づくり

上部(挿入口)から地金とコークスを入れる。平成9年7月撮影

写真4-1-10 溶湯の注入

写真4-1-10 溶湯の注入

平成9年7月撮影

写真4-1-13 マンホールのふた

写真4-1-13 マンホールのふた

表に松山市花のツバキが浮き出ている。平成9年7月撮影