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愛媛の技と匠(平成9年度)

(1)細かい手仕事

 ア 時計修理の技

 **さん(北宇和郡吉田町東小路 大正7年生まれ 79歳)
 従来、時計店の経営は、修理の技を武器に客の信用を得るというのが基本であった。ルーペをつけて仕事に集中している姿は、まちかどの懐かしい光景の一つであったが、それはまた時計店の象徴でもあった。「これまで時計屋の仕事は修理が中心で、それだけでくらしが成り立っていました。」と話し始めた**さんは、今年(平成9年)79歳、長年時計の修理一筋の人生を歩んできたが、今もなお現役として活躍している。

 (ア)修理した時計は新品のごとく

 「わたしはもともと機械いじりが好きでした。昭和8年(1933年)今の韓国のソウルで時計職人になるための修業を始めました。わたしらの修業時代は、修理だけでなく、柱時計の外側にニスを塗ったり、懐中時計をぴかぴかになるまで磨いたりしていました。修理のために預かった時計は新品同様にしてお返ししなければならないというのが親方の口癖でした。今でもこの精神を大切にしたいと思っています。
 わたしはこの道が好きで、修業時代、一人で研究を続けていましたので、修理の難しい時計も扱わせてもらいました。その時は、何とか直してやろう、兄弟子に自分の腕を見せてやろうと意欲がわきました。動いた時はうれしいですよ。ほかの者が直せないのを直したという思いもありますしね。ある時、当時修理が一番難しいと言われていた『引き打ち』というドイツ製の懐中時計(ボタンを操作すると時刻を音でも知らせてくれる懐中時計)の修理を任されたことがありました。ほかの職人たちが寝静まった後、分解して、部品一つ一つ並べて番号をつけるなど細心の注意を払い、全神経を集中して直しました。なにしろ部品が普通の懐中時計の4倍くらいあり、最初はその組み合わせ方もよく分からないので苦労しました。その後同じ時計を二つ三つ直した記憶がありますが、不思議なことに、おととし、何十年ぶりにわたしの息子(松山市内で時計店を経営)のところにこの時計が持ち込まれ、こんな時計を修理するところを知らないかと聞かれたそうです。『わたしはよう直さんが、うちのおやじなら直せるかもしれん。』と答えた息子を通して懐かしい『引き打ち』の懐中時計がわたしの手もとに届きました。簡単な修理で済みましたが、大変喜んでもらいました。この時計は、今なら骨とう的価値も高く、べらぼうな値がついていることでしょう。昨今、こんな時計があったことを知っている方も少なく、恐らく時計職人の中でも知らない人が多いのではないでしょうか。ましてこの時計の修理を経験した職人となると数は限られていると思います。
 5年間の修業を終え、1年間のお礼奉公の後ソウルで小さな修理店を出し、その後奉天(現在の中国リヤオニン〔遼寧(りょうねい)〕省のシェンヤン〔瀋陽(しんよう)〕)に移りました。戦時中であまり仕事がないころでしたが、修理で十分食べていけました。戦後昭和21年(1946年)に引き揚げ、郷里の吉田町で店を構えたのですが、毎日多くの修理の依頼があり(時計の販売も順調)、職人を二人雇って仕事をしていました。それでも忙しい時はわたし一人が夜中の12時ごろまで仕事をしたこともあります。その後10年程前から修理の依頼は次第に少なくなり、職人も雇えなくなりました。今では修理だけでは生計が成り立たないのが現状です。」

 (イ)機械式時計の修理

 「お客さんの中には『修理といっても油をさすくらいだろう。』とおっしゃる方もいますが、そんないいかげんな仕事をして渡したら、『お前、この間直してもらったが、もう止まったぞ。』と言われることになります。ですから、修理を要する箇所を発見して、そこをきちっと直さなければなりません。もちろん分解掃除もやりますが、分解する時には部品を破損したり飛ばさないように注意します。小さい部品のことですから見失ったら捜すのが大変です。そこで、飛んでも遠くに行かないように囲いをして仕事をすることになるのですが、慣れてくれば飛ばすようなことも少なくなります。部品を挟むピンセットの使い方が上手になるからです。
 修理で難しいのは回転する歯車のシャフト(軸)を支えている穴(軸受け)の修理です。回転によって穴がふけてくる(大きくなったり、いびつになったりする)。そうなると、歯車のかみ合わせが悪くなり、時計が狂ったり、止まったりします。そこでそのふけた穴を軸に合った穴に直すのです。穴の周囲にタガネ(金工用の鑿(のみ))を当てて、たたいて調整するのです。この仕事は、非常に細かい手仕事になり、熟練を要します。
 ところで、これは何石(せき)の腕時計だとよく言いますが、その石(いし)(サファイヤ、ルビーなどの宝石)というのは、この穴の磨耗を防ぐために使用されているのです。シャフトを支える箇所に全部石を使うと21石くらい必要です。皆さんも聞かれたことがあると思いますが、修理に出すとこの石がとられるといううわさが以前にはよくありました。これには大変困りました。そんなことは全くあり得ないのです。石を盗んだら時計は動きません。シャフトを支えることができなくなるからです。
 懐中時計や腕時計は、落としたりするとテンプの心棒が折れることがあります。その心棒を取り替えたり、テンプを回転振動させるひげぜんまいの取り替えもやります。時計修理の競技大会でもテンプひげぜんまいを取り替える競技があったくらいですから、このひげぜんまいを取り替えるには熟練の技が要求されます。ひげぜんまいというものは長いもので、それを適切な長さに切って取り付けるのですが、この適切というのが難しい。短いと時計が進み過ぎ、長いと遅れます。わたしは、ひげぜんまいを振って、その動きを見ながら適当に切るのですが、時間が狂うということはまずありません。これはもう経験と勘の世界です。
 修理のために歯車などの部品もつくりました。深く切り込みを入れ、こぼれた歯をはんだでつけ、やすりで磨いて調整するのですが、小さい歯車のことですから、手先に神経を集中しなければなりません。卓上の旋盤でテンプの心棒やねじもつくりました。今は部品がすぐに手に入りますから、それを使いますが、人手できる年数に限度があり、古い時計を修理する場合(現在修理する時計は古いものが多い)には部品をつくらなければならないということも起こります。修理に持って来られた時、時計の中を見ただけでどこが悪いのか大体見当がつきます。ちょっと分かりにくいのは、ひげぜんまい、テンプとアンクル、かんぎ車の部分の異状(特に相互のかみ合わせの異状)による故障です。これは長年の経験による勘が働かないとなかなか分かりません。
 修理が終わったら、正確に動くかどうか試さなければなりません。現在はそのための機械があるので、それで測定するのですが、携帯用の時計(腕時計、懐中時計など)は、機械にかけて調べるだけでなく、六つの姿勢(表を上、裏を上、右側を下、左側を下、上側を下、下側を下)にして、それぞれの状態で正確に動くかどうか24時間ずつ調べるのです。修理をする場合大体1週間預かるのはそのためです。ある姿勢にして狂いが生じた場合、どこをどう直したらよいか、それがすぐ分かるのもこれまた長年の経験による勘ですね。
 ひと昔前までは、時計は貴重品であり、修理を頼みに来たお客が預かり証をくれと言っていました。時計が手ごろな質草(しちぐさ)(抵当として質に置く品物)であったことを年配の方は御存知でしょう。ところが、今や時計は貴重品ではなく(特に高級な時計は例外)、修理に出すより買い替える人が多くなりました。いわゆる使い捨てです。精度のよいしかも低価格の時計が店にあふれている現在、高い修理代を払う気にはなれないでしょう。しかし、それだけではなく、物を大切にしないという一般的風潮にも左右されているようです。昔は、たとえ採算が合わなくても修理をして使う人が多かったように思います。
 一方時計店も面倒な修理は採算が合わないので、『新しい時計をお買いになってはどうですか。』と勧めることになります。昔、わたしらは採算を度外視して、自分の腕を見せてやりたいという気持ちで修理したものです。現在ではそんな気持ちで仕事をする職人が少なくなりました。どちらかと言えばわたしらは商いより修理に力を入れ、技を大切にしてきました。お陰で今でも町内の人が『あんたじゃけん持って来た。』と言って修理を頼みに来ます。しかし、すでに申しましたように修理だけでは食べていけません。ですから眼鏡や貴金属も店に置くようになったのです(写真3-2-2参照)。これはどこの時計店でも同じです。
 時代は変わったなあとつくづく思います。時計店の現状を考えると時計(特に機械式時計)修理の技は廃れていくのではないでしょうか。その技を伝える意味や価値がなくなってきたように思われます。しかし、やはり時計店の経営では修理の技で信用を得ることが基本だと思います。たとえ採算が合わなくても心よく引き受け、預かった時計を大切に扱いながらきちっと直してあげる。わたしは今までそうやってきたし、今でもその気持ちで店に座っています。松山に店を構えている息子もわたしの気持ちを理解してくれているようなので安心しています。時計店ではもうけよりも信用が第一です。時計の商売が一人前にできたらほかのどんな商売でもできると師匠によく言われました。」

 イ 印章彫刻の技

 **さん(宇和島市中央町 大正4年生まれ 82歳)
 印章(印、判、印判、はんこともいう)は日常生活に欠かせないものであり、しかも「捺印による印影は、本人の意志確認と本人の同一性の証明という二つの機能を有している(②)」ので、社会生活上重要な意味を持っている。印鑑(*1)には法的効力があり、「つい連帯保証人の判を押したばかりにひどい目に遭った。」などという話もその一例であろう。印章はそれを使用する人の言わば分身である。そこで印章にも吉凶の相があると信じて吉相印を求めようとする人々が現れる。**さんはそのような人には次のように答えるという。「吉相印を彫れとおっしゃるが、あなた自身が吉相ですか。印鑑が大切なものだということは間違いないが、あなたはそれに左右されるような人間ですか。印鑑が吉相だから仕事がうまくいったり、出世したりする、そんなことがあると思いますか。出世したければ自ら努力することです。ただ印章をつくる時、これが自分の代弁者になるのだという気持ちを持つことは大切です。人と印鑑とは一体ですから、印鑑さえ押してあれば、その書類はその人のものとしてどこまでも通用する。そういう意味で印鑑は大事なものだということを忘れないでください。」この答えから、60年以上印章彫刻一筋の道を歩み、その仕事を通して世の中を見続けてきた**さんの一つの見識がうかがわれる。

 (ア)1日に300字

 「わたしは宇摩(うま)郡富郷(とみさと)村(現在の伊予三島市富郷町)の**家の三男として生まれ、高等小学校卒業後、一時新居浜市の人絹工場で働いていましたが、そのころ下宿していた市内の慶正寺の住職の薦めで同市の印判店に入ることになりました。外交担当でしたが注文などなかなかとれるものではありません。ある時5円の旅費をもらって出掛けたのですが、印の注文は一つもなく、38銭の朱肉1缶が売れただけでした。歩合はとってきた注文の額の3割でした。印判業は3割の歩合を払ってもまだもうかるのか。そんないい仕事ならいっそのこと印章彫刻で身を立てようと決心し、弟子入りを願い出ました。弟子入りを許された翌日から早速子守り、草むしり、これが修業の始まりでした。年季奉公は5年間、つらいこともいろいろありましたが、その中でも仕事中に眠気と闘ったことは忘れられません。店の向かいのアイスキャンディー屋の機械の音で眠気を誘われ、つい居眠りすると後ろからキセルの頭でこつんとくる。しかし、たたかれることより眠くてたまらない方がよっぽどわたしにとってはつらいことでした。
 奉公の期間は着せてもらい、食べさせてもらって、小遣いが年50銭。その50銭で年1回の里帰りです。富郷へは山越えをしなければなりません。正月は雪が深くて歩けないことが多いのでお盆に帰省していました。汽車賃41銭(新居浜~伊予三島間)、山越えの途中で4銭の素うどんを食べ、5厘(りん)(1厘は10分の1銭)のあめ玉を4個(内2個は妹への土産)買うと残りはわずか3銭、新居浜へ帰るときには親から旅費をもらわなければなりませんでした。
 年季が明けて徴兵検査、甲種合格(旧軍隊の徴兵検査で第1級の合格)で軍隊に入りました(入隊するまでお礼奉公)。わたしは3度召集されましたが、除隊の間は、大阪、尾道、広島、呉の印判店で職人としての腕を磨きました。当時広島と呉では軍関係の仕事が多く(*2)、忙しい毎日を送っていました。呉では作業場の窓際に大勢の職人が並び、競い合って印を彫っていました。朝から夜の10時ころまで仕事をしていました。わたしは1日に300字彫った(材はツゲ)こともあり、1か月に当時としては大金765円の賃金をもらったこともあります。主人からお前は四国一の職人になれると言われましたが、まだまだだ、あの人のような仕事がしたいものだ、この人のようになりたいものだと思っていました。こういう時期は腕が上がりつつある時だと言われています。自分の腕の末熟さが分かり、恥ずかしくて、自分がかわいそうになったこともあります。技のまずさはその職人の仕事ぶりでお客にも分かるのではないでしょうか。常にこれでよいのか、これでよいのかと反省しなければなりません。これでよしと満足したらもう進歩はありません。上には上がいくらでもあります。呉で3度目の召集、善通寺(香川県善通寺市)の連隊に入隊したのですが、入隊の朝、旅館で目を覚ますと母親が枕もとに座っていてわたしの顔をじっと見ていました。今でもその母親の姿を忘れることができません。このときは中国東北部(旧満州)に渡ったのですが、そこで太平洋戦争ぼっ発を知りました。昭和18年(1943年)12月31日除隊(そのころは名目上休暇と言っていた)、再び呉で仕事をしていたのですが、ある人の世話で宇和島の**の3女と結婚、**印房の後を継ぐことになって現在に及んでいます。昭和20年(1945年)の宇和島の空襲で焼け出されたり、**家の家族の面倒をみたり、いろいろ大変なこともありました。」

 (イ)印章彫刻の工程

 **さんの好意で彫り上がるまでの工程を実際に見学させてもらうことができた。その間(約50分)いろいろ説明を加えてもらったが、要約すると次のとおりである。

 ① 印面ずり
   印面を平らにする作業。加工してある印材(象牙(ぞうげ)、水牛の角、ツゲ等)でも念のため彫る前にトクサ(*3)で磨
  く。現在は紙やすりを使う。
 ② 朱入れ
   印面に朱を塗る。彫ったところと彫り残したところをはっきり見分けるため。
 ③ 字割り
   印字を割り付ける。字割り用の器具(文字割り板)を使い、印面に鉛筆で線を引いて字割りを行う。字割りをせずにおよ
  そで字を書くといくら慣れていても多少の狂いが生じる。
 ④ 字入れ
   印面に印字を書く。細筆を使い、墨で字を入れる。裏字(右から左へ書く裏から見たときの字)を書くのだから修業を始
  めたころは書きにくかったが、慣れてくれば簡単に書ける。書体にはいろいろあるが、実印(*4)の場合は篆書(てんしょ)
  体(*5)がよい。篆書体の文字には品格がある。
 ⑤ 荒彫り
   印を篆刻(てんこく)台(印床)に固定し、印刀で彫る(写真3-2-4参照)。篆刻台には大小があり(大きい篆刻台は落款
  用の印〔書画などに押す印〕を彫る時などに使用)、印刀にも8種類(字の大きさによって使い分ける)ほどある。印刀は
  自分で磨く。印刀が上手に研げるようになって(数年かかる)、やっと一人前の職人として扱われる。印刀の中には仕事の
  能率を考え、自ら工夫してつくった(研いでつくり直す)ものもある。
 ⑥ 仕上げ
   印に皮を巻き、せめ竹(写真3-2-5参照)に挟んで仕上げ彫りをする(写真3-2-6参照)。せめ竹に似たせめ木(写真
  3-2-5参照)というのもある。本来は荒彫りの段階で仕上げておくのが基本。仕上げは念を入れるための仕事である。以前
  は荒彫りの時からせめ竹やせめ木を使っていた。そのほうが思うように彫ることができる。しかし、病気をしてからせめ竹
  やせめ木を握る左手に力が入らないので、荒彫りの段階では篆刻台を使用しているということであった。

 「印というものは、ガラスの上に押してもはっきり印影がつくように仕上げなければなりません。下に紙を敷かないと写らないというのではだめです。」という**さんの一言が印象に残った。

 (ウ)頭から手先へ

 「手に技術をつけて、それで生活していくというのは楽な道ではありません。丁稚(でっち)奉公の仕来(しきた)りも無くなり、厳しい師弟関係も以前ほどではなくなった現在でも手に職をつけるには苦労が伴います。弟子入りもせず、手先の器用さだけで始めてもろくな仕事はできません。師匠について修業するのが本筋です。しかし、わたしの体験から言わせてもらうとどんな立派な師についてもその人の技を覚えるだけではいけません。まねはだめです。第一、師匠の仕事を簡単に盗めるものではありません。切磋琢磨(せっさたくま)して自分を磨くことです。そのためにはいろいろな職人の中でもまれることも大切です。修業の旅に出てみることです。要するに人にもまれ、自ら努力することだと思います。
 わたしたちの仕事は手先の仕事のように思われますが、決してそうではありません。すべて頭の中の仕事なのです。脳の指示で自然に手先が動くというのでしょうか、わたしらは手を動かす前にすでに頭の中で仕事ができているのです。これはこうしなければならないと頭の中で出来上がり、それが自然に手に伝わってくる。そうなるためにも修業を積み重ねなければなりません。仕事中、ほかの事を考えるということは一度もありません。常に彫ることを考え、彫ることだけに集中しています。そして出来上がったものは一つの作品です。みなさんがどう思っておられるか分からないが、わたしは印章彫刻を一種の芸術だと思っています。
 仕上げた後に印影をとってみて、これは上手に彫れたと思うことがありますが、めったにありません。しかし、いつも師匠の仕事に負けない仕事をしていると思っています。そのような気持ちがなかったら自信を持って仕事をすることなんかできません。職人は皆それぞれ自信があり、自尊心を持っているものです。でも半人前のころからそんな気持ちがあるとすれば、それは自信ではなく慢心です。自信とは人にもまれながら長い間努力した結果生まれるものだとわたしは思っています。
 印章彫刻の仕事というのは普通皆さんの使う印章を彫るだけではありません。わたしは『五三の桐』や『竹に雀(すずめ)』などの家紋も彫りました(写真3-2-7参照)。この『竹に雀』の紋は宇和島さんさ(民謡)踊りの着物にはり付けた紋です。大きなツゲの木で妙典寺(宇和島市にある寺)の寺印も彫りました(写真3-2-7参照)。長い間には、注文に応じていろいろな仕事をしてきました。」


*1:法律上、印鑑とは、将来の対照用として官公庁、銀行等にあらかじめ提出しておく印影を意味する(②)。
*2:広島には陸軍の第5師団司令部、呉は軍港で、呉鎮守府(軍港に置かれた海軍の機関)、海軍工廠(海軍直属の軍需品製
  造工場)があった。
*3:トクサ科の常緑シダ植物。茎は堅いので、干して物を磨くのに用いる。
*4:市区町村の役所に登録して印鑑証明書を求めることができる個人の印章。
*5:漢字の書体の一つ。隷書(篆書を簡便にした書体)、楷書の基になった書体。

写真3-2-2 標準時計と陳列棚

写真3-2-2 標準時計と陳列棚

標準時計は**さんの仕事を見続け、陳列棚の貴金属は店の経営を助けている。平成9年7月撮影

写真3-2-4 篆刻台(印床)と印刀

写真3-2-4 篆刻台(印床)と印刀

手前が篆刻台。平成9年7月撮影

写真3-2-5 せめ竹(左)とせめ木(右)

写真3-2-5 せめ竹(左)とせめ木(右)

平成9年7月撮影

写真3-2-6 せめ竹で仕上げ

写真3-2-6 せめ竹で仕上げ

平成9年7月撮影

写真3-2-7 家紋や寺印の印影

写真3-2-7 家紋や寺印の印影

平成9年7月撮影