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愛媛の技と匠(平成9年度)

(1)絣ものがたり

 ア 絣のいろいろ

 (ア)絣とは

 「かすり」という名は、織り出された文様の輪郭が絣糸の乱れによって、かすれたように見えるところから名付けられたとされている。中国の「飛白」、ヨーロッパで用いられるフランス語の「シネ(chiné)」などの名も同じ理由による。しかし、今日では、世界共通の染織用語として、「結ぶ」とか「縛る」を意味するマレー語の「イカット(ikat)」という言葉が一般的に用いられている(⑨)。
 インドの所産といわれるが、世界各地に特色のある絣が生まれた。我が国には、まず琉球に入り、しだいに北上して木綿生産地に伝わり、絹・麻系統にも摂取されていった。外来の絣を日本独特の染織工芸技術と結びつけ、各種の技法による絵絣にまで発展させたのである。また、異なる素材や技術を生かして、各地方で独特な絣が生み出された。飛躍的に発達するのは、江戸中期以降特に後期から明治にかけてである。しだいに量産性と合理性が加わり、工業化、機械化も推し進められていった。今日、我が国は世界一の絣王国と言われ、生産量や技術の多様性において他の追随を許さない(⑨)。
 絣の染色法は大別して、防染(ぼうせん)法、捺染(なっせん)法に分けられる。文様は、染色技法の制約を受けて、防染(*12)した輪郭部分がいわゆる「絣あし」というぼやけたものとなり、独特の味わいを供するのが特徴である。織りによって文様構成する。織りには、経(たて)糸に絣糸を用いた「経絣」、緯(よこ)糸に絣糸を用いた「緯絣」、経糸、緯糸両方に絣糸を用いた「経緯(たてよこ)絣」がある。文様には、単純な霰(あられ)のようなものから、十字、井桁(いげた)(*13)、亀甲(きっこう)(*14)、矢柄(やがら)(*15)、模様絣(絵絣)など種類は多い。経緯絣のように柄合わせの難しい複雑なものは、インドネシアのバリ島にも見られるが、日本の各地で多くつくられた。世界各地では、イカットのように経絣が多く、その地独特の民族的特徴をもつ図柄を表現している(⑩)。

 (イ)伊予絣

 伊予絣(⑪)というのは、伊予の絣織物という意味で、特有の文様をいうものではない。平織りの先染め織物であり、木綿絣織りである。他県の絣と大同小異であるが、強いて言えば、大衆向きの廉価品であり、手工業による家内工業的製品である。しかし、大絣(ふとん絣)においてはその文様が奔放自在である点が特色と言える。
 この伊予絣は、県下一円から産出されるものではなくて、産地は松山市・北条市・温泉郡・伊予市・伊予郡に限られていた。最初、藩政時代は当時の産地であった今出(いまず)(現松山市西垣生(にしはぶ)町)の名をとって、今出鹿摺(かすり)と呼ばれていたが、産額が増加して他県に移出されるに及んで、いつのころからか伊予絣と称されるようになった。

 (ウ)伊予絣の製造工程

 製造工程は、基本的には、①括(くく)る、②染める、③織るの三つの技術が中心となっている。
  ① 括りは、現在ほとんど機械でする。手括りは、絣糸を作るときに文様部分を荒苧(あらそ)(麻の表皮)で括り、防染す
   る作業のことである。
  ② 藍染めは、経糸、緯糸をそろえ、藍でまだらのないように染めあげる作業で、古来の発酵建て(*17)では工程中でも
   相当熟練を要する部分である。このほかに薬品建て(*18)があり、現在ではほとんど化学染料を使用している。
  ③ 織りの工程では、文様が複雑になるほど、織り上がるまでに、相当の時間と織り手の根気が必要である。

 イ 名代の特産の誕生

 (ア)伊予絣の誕生

 伊予絣は、享和年間(1801~04年)温泉郡今出(いまず)(現松山市西垣生町)の人、鍵谷(かぎや)カナ(1782~1864年)が初めて製織したことによって始まるといわれる。その動機については諸説があるようだが、カナが金比羅(こんぴら)参りの船中において久留米商人が飛白(かすり)を着ているのを見て感じ入り、帰郷後考案したとの説(松山市西垣生町、三島神社境内の「飛白織工労姫命(かすりおりたくみいさおひめのみこと)」の碑文)や、わら屋根のふき替えを見て、押し竹を縛った跡が美しいまだら模様をつけていることに感じ、これを織物に応用を志したとの説(松山市西垣生町、鍵谷カナ嫗頌功(おうなしょうこう)記念堂の碑文)が主に伝えられている。
 創始者とされる鍵谷カナの偉業をたたえるために、絣織物業界が盛運であったころ、明治20年(1887年)地元有志が建立したのが、先の三島神社境内の「飛白織工労姫命」の碑であり、昭和4年(1929年)に伊予織物同業組合が今出天王社跡に建設したのが、鍵谷カナ嫗頌功記念堂及び碑石である。今日、発祥の地である今出では機の音が絶えて久しくなってしまったが、毎年カナの命日には、団体関係者や地元住民が集まって、「鍵谷祭」という慰霊祭を盛大に行い、その遺徳をしのんでいる(写真2-3-16参照)。

 (イ)伊予絣の前史-伊予結城(ゆうき)

 伊予絣を考える上で、見過ごしにできないのは伊予縞(しま)すなわち伊予結城である。今出絣は、明治10年(1877年)前後までは当地方の需要を満たす程度のものであったが、このころから他国に広まり始め、同20年ころより伊予絣としてその名を全国に知られるようになった。ちなみに、この地方では、それより以前において、すでに伊予結城あるいは伊予縞と呼ばれる木綿縞織りが盛んで、広く他地方に売れていたのである。このことが、後の伊予絣の生産、販売にそのまま役立ったのである。これは明治19年、伊予織物改良組合創立会議の際に、時の県知事関新平が、「本国の伊予結城は東京は申すに及ばず現に拙者(せっしゃ)は九州の出生にして其(そ)の名の高きことは夙(つと)に幼少の頃(ころ)より伝承せり(⑬)」と演説していることでも、知ることができる。
 こうして、絣の生産はとみに増加して、しだいに伊予縞をしのいでいき、明治36年(1903年)、初めて両者の統計を区別して作成したときには、縞4,400余反(1反は長さ10m強、幅約34cm)に対し絣147万反となり、その差は歴然となったのである。

 ウ 伊予絣の盛衰

 (ア)全盛時代から戦時統制へ

 日露戦争終結の明治38年(1905年)、伊予絣の生産は初めて200万反を超え、翌39年には249万反となり、絣生産で全国一となった。ここに、久留米(くるめ)絣(*19)・備後(びんご)絣(*20)と並んで、伊予絣は日本三大絣の地位を築き上げたのである。その後、明治末から大正の初めにかけては一般産業界の不況もあって低迷したが、大正5年(1916年)から10年までは第一次世界大戦の影響下で、我が国の産業経済界がかつてない発展をするなかで、伊予絣も空前絶後の発展を遂げた。とりわけ、価格の高騰が好況を支えた。生産高は、大正8年から昭和4年(1929年)まで11年間にわたって毎年200万反を超え、なかでも大正12年には270万反余の最高生産記録を達成したのである。
 昭和の戦前期において、伊予絣は一時を除きおおむね全国一の生産高を誇ったが、価額の面では久留米絣に及ばなかった。それは、中部、関東、東北地方などの農民層を顧客にしていて低廉な価格でなければ売れず、粗製濫造(らんぞう)になることが多かったためである。このために業界では、種々の対策を講じ、信用回復に努めた。しかしながら、その生産高は、昭和14年(1939年)に100万反を割り込み、以後次第に減少していった。大正末期から昭和初期にかけてのこの時期は、小学校で制服が制定され、農山漁村の人々の服装もしだいに洋服化していったころであった。さらに、日中戦争が始まり、綿花の輸入制限、綿糸配給統制、製造・販売統制が行われたことにより、木綿絣業界自体が衰退を早めたわけである。
 昭和18年から戦力増強、企業整備で転業者が相次ぎ、わずか3工場を残すのみとなった。さらに、昭和20年の松山空襲によって、生産は途絶えた。

 (イ)戦後復興から生産調整へ

 戦後、綿スフ織機復元許可とアメリカ綿輸入の道が開け、昭和23年(1948年)から生産が再開された。衣料不足を背景に、一挙に戦前の水準に駆け登り、昭和27年には200万反余の生産額を回復し、活況を呈した。しかしまもなく、綿スフ業界は生産過剰となり、市況は低迷することとなった。絣業界では、備後絣の台頭が著しく、伊予絣の市場に参入してきた。昭和29年(1954年)、政府は生産設備制限及び織機設置制限に関する規則を公布して、業界の安定を図ったが効果なく、昭和31年「繊維工業設備臨時措置法」を、昭和47年「臨時繊維産業特別対策に係る特別措置」などを制定、発令して織機の買い上げを実施した。また、昭和32年には3大産地が共同で生産調整を行うなど、種々の対策を講じたが市況は好転せず、生産の減少には歯止めがかからなかった。伊予絣の生産高は、昭和40年ついに100万反、同45年には50万反、同54年には10万反を、それぞれ割り込んでいくなど激減し、現在はかつての面影はない。

 (ウ)伝統的特産品としての歩み

 昭和55年(1980年)、愛媛県は、伊予絣を伝統的特産品として指定した。その指定組合は伊予織物工業協同組合で、平成8年11月末現在、事業者数6、従事者数72人、7年度生産額3億円、指定地域は松山市となっている。
 業界関係で特徴のある施設に、民芸伊予かすり会館(以後、「かすり会館」という)がある(写真2-3-18参照)。昭和48年(1973年)7月、松山市久万ノ台の紡績工場跡地に開館したものである。館内は、伊予絣の歴史や資料の展示コーナー、織機を使っての機械織り、手織り及び藍染めの実演を行う工房コーナー、反物や各種二次製品を販売する直売所に分かれている。このユニークな施設は、年間数十万の人が訪れる松山の観光名所となっている(⑭)。


*12:必要な部分以外に染料や顔料がつかないようにすること。
*13:井桁(井戸の上部の縁を材木で、井の字に組んだ枠のこと)を図案化したもの。経緯絣の代表的な柄模様。
*14:亀の甲らを図案化したもの。六角形の連続模様になっている。
*15:矢筈(やはず)、矢羽根(やばね)ともいわれる。矢羽根の形を図案化したもの。
*16:竹または鉄製の薄い羽を櫛の歯と同じく等間隔に並べた形の道具。羽の間に経糸を通し密度を決めるとともに、筬框(お
  さかまち)という木枠に入れて補強し、経糸に対して直角になるようにして緯糸を手元に打ち込むために使う。
*17:奈良時代から行われている方法。タデアイの葉を微生物の働きによる発酵作用によって藍建てする。自然出しと誘い出
  しの2方法がある。
*18:藍建ての一種で化学建てともいう。ハイドロや亜鉛末などを藍の還元剤として使うもの。
*19:福岡県久留米地方で作られる代表的な木綿の紺絣。
*20:広島県福山市周辺で作られる代表的な木綿の紺絣。

写真2-3-16 鍵谷祭での慰霊祭

写真2-3-16 鍵谷祭での慰霊祭

松山市西垣生町「鍵谷カナ嫗頌功記念堂」にて。平成9年5月撮影

写真2-3-18 民芸伊予かすり会館

写真2-3-18 民芸伊予かすり会館

伊予絣の歴史資料展示や実演、直売を行っている。平成9年8月撮影