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愛媛の技と匠(平成9年度)

(3)漆にかける夢

 ア チャンスを生かす

 **さん(今治市河南町 昭和42年生まれ 30歳)
 昭和60年(1985年)3月に県立今治東高等学校を卒業し、同年4月国立高岡短期大学漆芸学科へ入学、昭和62年3月同校を卒業した。その後、高松市にある香川県立漆芸研究所に入所したが1年で中退して、平成元年、伊予桜井漆器会館に就職し、現在に至っている。桜井漆器業界において最も若い蒔絵師として活躍中である**さんに、漆芸へのかかわりや今の心境などについて語ってもらう。

 (ア)漆芸を志す

 「今治東高等学校の時、仲の良い友達が桜井の漆器問屋の息子だったんですよ。もともと絵を描くんが好きだったけど、今治ではタオルのデザインしかないでしょう。タオルには興味がなかったが、その子が、『こういう仕事もあるし、お金にもなるよ』と教えてくれたのが漆器だったんです。子供の感覚というんですか、その時には、深く考えてはなかったんですけれども。実際、親に相談しても、親自体が漆器を知らない。今でこそ、こういう会社があるので、若い人もどういうことか分かるんですけれども、僕らが高校生のころ、どこに漆器屋さんがあるのか分からなかったんですよ。親もそういう関係で、始めは反対だったんですけど、自分の進路は自分で決めるとか、高校の先生からもこういう学校ができるから行ってみんかという話もあって、高岡に行くことにしたんですよ。
 高岡短期大学では、2週間に1単位というわけで、漆芸についてはかじる程度のことしかやらんわけですよ。だから、蒔絵専門でいくとか、下地専門でいくとか、弟子でいくのとは全然違う感じですね。僕らは、塗りとか下地とか全然分からずに漆芸学科に入ったわけですね。実際、学校で見学に行って、この業界が分業だということに気が付くわけなんですよ。僕は最初に決めた時点で、絵を描くことに目標を置いたんですよ。ただ、学校へ行ったら、下地から塗りまで全部自分でやるんですよ。塗り上げたものに絵を描けというんじゃなしに、漆器というもんはどういう風に作られるのかというのからやるんですよ。だから、絵を描く練習板を作るのにも、布を貼(は)って下地をして、塗ってということを、最初からやらされるんです。それで自然と、漆器というのはどういう風に作られていくのかが分かっていくんですけど。卒業した時点では、絵よりも下地の方が詳しかったというくらいですけど。卒業制作では、器のデザインをしたらそれを素地屋さんに引いてもらって、素地の状態で来たものを自分で塗っていくんですよ。それで何か月もかかっていくわけですよね。僕の場合には、絵を付けて完成させる時間がなかったんですよ。卒業制作は絵なんかは全然描いてなかったんですよね。
 高松の漆芸研究所に行って、彫漆(ちょうしつ)(*10)、存清(ぞんせい)、キンマもやったんですけど、蒔絵とかやろうとかは全然思わなかった。彫漆やってみたら面白いので、そのころは職人とか全然思わないので、回りが作家の先生ばっかしで、そういう人の影響を受けてた。1個作ったらなんぼとかいうことなくて、自分の表現したいものを作って、それを売ってという感覚みたいなものでした。それにあこがれいうんですか。」

 (イ)経験を積む

 「ここ(桜井漆器会館)ではぶっつけ本番みたいですね。先輩に教えてもろたり、出張で輪島とかにも最初のころは結構行ったんで、向こうの職人さんに話を聞いたりした。いろんな品物が入ってきたら、じーっと見て、どういう風にやっとるんかと、自分なりに考えたりして。作品作る機会があったら、それを試したりして。入ってから、8年ちょっとですね。良かったのが半分、悪かったのが半分ですか。最近あまりやってないんですが、自分の作品作ったりするときには結構楽しいんですけど、漆器の特色を知らずに納期とか言うてくるでしょう、そしたら無理な仕事もやらないかんし。中に入ってみたら、外から見たら分からん事情みたいなものがある。まあ3年間外へ勉強に行っとったわけで、親が苦労して出してくれたことに対して、最初の方は期待にこたえないかんという意地みたいなものがありました。今は、嫁さんも子もできたから、逆に食わさないかん、頑張らないかん、意地いうんですかね。
 学校にいる間は、図案描いても、自分の好きなようなものを描いているけど、やっぱりこういう仕事に入ったら、売れる図案いうんですか、全然考え方が違うわけですよ。基本的に違うのは、作品いうんは金に糸目を付けんわけですよ。材料なんぼ使っても良い、豪華なもの作るいう感じですけれど。こういう会社では、いかに材料安く上げて、安く売るかという。実際、ここに入ってきて1、2年は、学校で何してきたんかなという迷いみたいなものがあったんですけど。
 会社に入ったら、ベテランの人に囲まれて仕事するでしょう。ベテランの人がどんどん仕事していくのに、自分は十分できんでしょう。会社にとって、自分は何なんかなという悩みがあった。そんなことばかし考えとったら、やっとれん(やっていけない)ので。ちょっとずつ仕事がこなせるようになったら、自信がついてくるいうんですか。ただ、桜井は職人が少ないですから、自分が絵を付ける仕事以外のことも実際にやらされる場合もあるわけですよ。そういう意味で、かじる程度というか、習うとって役に立ったということもなんぼかはあるんですね。それと、後継者が育ついうのは、こういう絵を付けるのばっかしで、下地とか塗りいうのは地味で、縁の下の力持ちいうんじゃないんですけど、今、専門的に習う人も少ないんですよ。
 下絵のもとは、自分のデザインは自分で作っていかないかんので、何年もやってる人は自分の図案、積み重ねの物を持ってますね。やり始めのときは全然ないですから、お客さんの注文があったら、最初から描いたりする。過去のものから頂だいするものが結構多い。僕が、与えられたお皿に全部絵を入れる感覚でいると、出来上がったものは品のない物になってしまう。実際お盆とかに全部に絵を入れるよりも、部分的にちょっとずらして絵を入れるというのは、職人さんと一緒に仕事して覚えたことであって、僕らは学校で、与えられた素材を全面生かすように教育されてきた。
 技法的には産地できれいに分かれとると思う。高級なものを作るのは、蒔絵にしても京都とか輪島とか。桜井というのは、いろんな産地の集合体みたいなところがあると思う。自分がやっているのは平蒔絵と言っていい。ただ、年に1度か2度は特別な仕事が入ってくるのはあるんですけど。今まで手掛けてきたものに、皆でやったもので、今治市内のあるホテルの大広開扉があります。貝と金粉使った研ぎ出し蒔絵(*11)です(写真2-3-10参照)。
 蒔絵が描けておしまいということではない。金の上に漆を置いて、金がはがれにくいようにする。金といえばイメージ的には光ってると思うけれど、金粉は磨かんと金の光沢が出ないんですよ。磨くのが最終の工程なんです。金の種類によって、粒子の荒い金粉なんかは、研ぐんです。粒子は丸いと思ってください。その集合体だけでは光らない。その上っ面をはねて半円状にすると、断面が平たく大きくなって光る。研ぐのは耐水ペーパーで、磨くのは手に粉をつけて磨く。昔は角粉とか歯磨き粉を使っていたが、今は専用の粉があるんです。漆器というのは、漆を塗ってつやが出るというのではない。ごみが付いてたらペーパーで落とすんですよ、それに漆をワックスをかけたように引く。それを磨いてやったら真っ黒に光るんですよ(写真2-3-11参照)。

 (ウ)今後の抱負

 「会社に入りたてのころは、取材に対して、格好ええことを言いよったんですよ。どうしても作家のイメージみたいなものが頭にあって、作家活動をして有名な人になりたいと。これからの夢いうのは、夢を実現できる時期が来たらやったらいいだけで、とにかく今の目の前の目標いうのは、いいものを作るチャンスがあったらいいもの作りたいいうのですか。それと、長い間やっていきたいというのもある。これは僕自身が決める問題ではない、産地がないようになってしまったらそれはかなえられない。だからといって、よその産地に行ってやっていうても、割りと、よその産地はよその人には冷たい言うんですよ。だから、高岡なんかは、向こうの秘伝いうんか、秘密の技法があるんですけど、県外の人間には絶対教えんという業界の決まりがあるんですよね。ここでやって、向こうで通じるかという不安みたいなもの、いろいろありますけど、いいもの作るチャンスがあって、いいものどんどん作っていったら、ある程度自分に自信がつくと思うんですけど。
 考え方が、この業界に飛び込んできたときと今とは全然違います。昔は聞かれたら、必ず全国的に有名になりたいとの目標があると答えたが、現在は、いつまでも続けていけれたら続けていって、いいもの作る機会があれば、いいもの作っていくいうのが目標です。」

 イ 桜井漆器を異業種へ、全国へ

 **さん(今治市長沢 昭和19年生まれ 53歳)
 **家は和歌山県黒江の出身である。大正時代に、祖父が桜井に来て、「地元卸し(地元の大手卸しに卸す製造家)」を始めた。父である2代目から「製造卸し」になった。漆器家業を継ぎ、3代目として斬新な経営感覚を持ち、桜井漆器の再生に向かって果敢に挑戦している**さんに、家業の継承から経営上の工夫の数々、今後の桜井漆器の展望について語ってもらう。

 (ア)漆器家業の継承

 「わたしは、昭和37年(1962年)に県立今治南高等学校を卒業しまして、九州の椀舟の流れの業者のところへ丁稚(でっち)奉公に3年間行きました。昭和40年に先代が病気、そして亡くなったため、こちらへ帰ってきて、今まで漆器の仕事に携わっています。
 わたしが帰ってきたとき、ちょうど桜井漆器は一つの過渡期といわれる時期でした。それは業者の方の後継者、職人さんの後継者の問題でした。桜井漆器は、10年か、20年かたったら駄目になるだろうといわれていたときに、わたしが飛び込んだわけです。当時、桜井漆器業界は、従来からの『待ち』の仕事に徹していました。21歳のわたしは『待ち』の商法が肌に合わないので、自分ところのお得意さんを訪問する営業活動を始めました。それが良かったんでしょう。それが、最後まで、漆器の卸売業者として残れた原因の一つじゃないかと思います。桜井の場合は、どちらかというと皆さん、製造小売りに早く転向され、わたしは製造卸しが主体になりまして、小売りということに関しては後発になります。
 それと、わたしは、漆器に染まりきらぬうちに自分が商売を始めた、これも良かったんじゃないかなと思います。いうのが、漆器にこだわらずに発想ができたと。商売を始めた昭和40年代始め、今治地方では核家族化していく時期で、建て売り住宅がどんどん建っていく時期でした。そこで、わたしは、今までのものにプラスして、テーブル・額などの装飾品を中心に、積極的に売り込んでいきました。
 昭和50年(1975年)ごろから、高級茶道具に着手しました。それも、思ったようにスーと伸びていきました。そして、輪島にも進出しまして、36人ほどの職人さんを抱えるというたら大げさになりますが、仕事をしてもらいました。また、家を1軒借り、職員を一人雇いまして、職人さんたちの間を回ってもらい、できたものを送ってもらうようにしました。そんなんが、本当に面白いように当たっていきました。」

 (イ)漆器会館を創る

 「伊予桜井漆器会館がオープンしたのは平成元年です(写真2-3-12参照)。20代から夢を持っていましたから、実際は15、6年、温めたことになりましょうかね。きっかけになったのは、十何年か前、県議会議員さんが5、6人、桜井漆器の見学にこられたんです。その時に、わたしが職人さんのところをずっとご案内したんですが、見学が終わったところで、ある議員さんが、『こんな天井裏とか、こんな穴蔵みたいなところで仕事しよったんじや、今の若い者は来んよ。もっときれいな、明るい場所で仕事するならまた、可能性はあるが』と言われました。この言葉が耳から離れんのよね。
 結婚するときに、女房に『こういうことがしたい。でないと、桜井漆器が存続することは難しい』とわたしは言い続けとったんです。そして、土地を物色しよったが、思うように手に入らない、人も思うように入ってこない。それが、昭和60年(1985年)ぐらいに二人名乗り出てくれたことで、真剣にやらにゃいかんということになり、またひょんなことでこの土地が手に入った。これがまあ、一番思い切る、踏ん切りを付けた原因ですね。
 若い人が二人入ってきてくれたということで、わたしは、これはなんとしても明るいとこで、仕事ができる雰囲気の所を作らないかんな、作らないかんなと思いました。それが漆器会館です。それで、会館を始めたら、続かないけど、門は結構たたいてくれとんです。ただこれから先、どのように育てたらええんかな、難しいところはあるんです。今の子供は怒られてないでしょう、怒ったら、はぶてるし(すねる)。これは大変な時代やなと。まあ、それにはめげず、人を育てていく勉強はせないかんなあと思っとります。」

 (ウ)桜井漆器を全国へ、異業種へ

 「今後の問題としては、若い技術者をどういうふうに育てて行くかということ。それと、われわれ業界がもう一度、この辺だけで商売するんでなく、もうちょっと広い視野で商売を考えていくということ。そして、製造卸しに近い感覚で商売できるようにならなかったら、桜井漆器の復活はできんと思います。製造小売りではたまには大量に売れることがありますが、職人さんを安定的に使うことが難しい。これに対して、卸しでは相手がプロですから、安定的に大量に買ってくれるわけですね。客が来てくれるんを待ちよるんじゃなくて、自分とこが営業に出ていく。昔の桜井は製造卸しが主力やったんだから、作ってそれをどこかに売りに行っていたわけです。売りに行く先が取り入れてくれさえすれば、安定的に出ていくところ、要するに、相手が個人ではなく、商売人のところ、会社に持っていく、この努力をせんかったらいかんでしょうね。
 小売りの世界では、わたしとこで極端に言うたら、毎日来てくれるのは松山から新居浜くらいまでの範囲です。これから先、わたしとこは、観光客をいかに足止めして来てもらうか、これが一つ。それともう一つは、わたしは今まで漆器の専門店の卸しやったんですが、専門店でなく、異業種にどれだけ食い込んでいけるかを考えていかないかんと思うとります。
 桜井の人はこのエリアの中で食い合いをしていたら、同じなんです。伸びることはないんです。それをどうやって桜井漆器を全国に発信していくかいう工夫を考えていかんかったら、同じ器の中、ここの中で取り合いっこしたってたかがしれとるんですね。職人さんが増えても仕事が減るんですよね。だから、いかに全国発信をやっていくか、それができる形態にしていくか、これを業界全体で考えないと発展につながらんと思います。
 今現在、輪島とか、山中漆器、会津漆器とかが全国発信してますね。その人たちと一緒に競争したら負けることになります。だから、その人たちとは競争しない、異業種がねらいなんです。わたしの言う全国発信をしているところは、異業種ということになれば、今ほかにありません。例えば、この『ガラス漆芸品』(ガラスに漆を塗ったもの)は、わたしのところが開発したもんなんです。よそでは何で考えんかったんぞといえば、輪島はこんな物、阿呆(あほ)らしくてしないんですね。輪島は高級品でしょう、こんな安いもの無理に作らんでいいよ、もっと高いものでいいものを作るというのが輪島です。これくらいのクラスのものを作るのは、山中とか会津とかいうところなんです。高級品も出てます。だいたい平均してこの人らの売場はデパート、もしくはギフト屋さん。このガラス物は『花クリスタル』、焼き物に漆を塗ったものには『花化粧』とわたしとこで名付けました。意匠登録はしていません。我々業界では意匠登録はいたしません。デパートなどでは、桜井漆器は愛媛県では通用するけど、全国では通用しないですね。ですから、わたしが異業種の方がいいというのはそこにあるんです。愛媛県では桜井漆器で通用します。だけど広島県とか大阪とかでは、『桜井ってどこにあるの』と言われることがせいぜいやと思います。異業種に食い込んでいくと、こういうことに使ってみませんかと計画プランさえ合えば、あるいは一つのプランを提案すれば向こうが他のプランを思いつくかもしれませんがね。
 今度、今治に橋がつくんですよね(本州四国連絡道路今治・尾道ルート)。桜井漆器の流通を大まかに分けると、舟から汽車になり、車になり、橋になる、この四つの時代に分かれるんじゃないかと思うんです。そして、桜井が栄えたのは、この一番最初の舟の時代ですよね。そして後は追い追い細っていっているんですよね。今度は、橋の時代をどうやって、切り抜けて行くか。観光ですね。全国から入ってくるお客さんをどうやってさばいていくか。これがどの業者も早く手を付けれることじゃないかと思います。むこうから来てくれるんですから。それで、わたしは、平成11年の橋の開通後、どのようにして自分とこにお客さんに来ていただくか、これが一つの大きな流れになるんじゃないかと考えています。これからの観光の時代には、桜井漆器の名前は上がっていくのじゃないかなと期待しています。」


*10:素地に漆を数十回塗り重ねて適当な厚さにした漆層に、刀で文様を浮き彫り状に彫る技法。漆の色や文様の違いによっ
  て、堆朱(ついしゅ)、堆黒(ついこく)、彫彩漆などという。
*11:塗り面に摺り漆をし、漆描きの文様の上に金粉を蒔いて、漆を塗りかぶせる。塗り面と蒔絵を平らで滑らかに研ぎ出し
  て仕上げる技法。

写真2-3-10 研ぎ出し蒔絵による大広間扉

写真2-3-10 研ぎ出し蒔絵による大広間扉

3か所の扉に同じ模様の蒔絵が施されている。今治市内のホテルにて。平成9年9月撮影

写真2-3-11 仕上げの磨きをする

写真2-3-11 仕上げの磨きをする

平成9年9月撮影

写真2-3-12 伊予桜井漆器会館の全景

写真2-3-12 伊予桜井漆器会館の全景

桜井漆器の製作実演、販売を行う。平成9年9月撮影