データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛の技と匠(平成9年度)

(5)菊間から全国へ

 ア 新しい風

 **さん(越智郡菊間町浜 昭和38年生まれ 34歳)
 菊間の瓦製造業の現状をみると、経営者は年々高齢化する傾向にある。平成4年の調査によると(④)、菊間町窯業協同組合に所属する経営者の年齢は、50歳以上が75%を占め、40歳未満の経営者はきわめて少ない。こうした菊間にあって、**さんは若い経営者として、菊間瓦の将来を視野に入れながら、近代的な設備を導入した瓦製造に携わっている。

 (ア)工程の機械化・ライン化

 「わたしの家は明治12年(1879年)の創業で、わたしは5代目になります。
 わたしがこの世界に入ったのは高校を出てからです。瓦を作るのは小さいときから見とりましたから、迷いはありませんでした。30歳ころには経営もまかされるようになりました。わたしと同じ若い後継者の中には、まだ親が実権を握っているところも少なくありませんが、その点、わたしの場合は早い時期に経営をまかせられ、思い通りにさしてもらったので、いい勉強になりました。
 わたしのところは、20年前に株式会社にしました。当時株式会社にしているところは少なかったと思います。自動化したのはわたしが二十歳(はたち)前後のときですから、もう13、4年前になります。ちょうど親父が手にけがをし、そういう関係で機械化に踏み切ったんです。地瓦や簡単な役瓦などは全部ライン化して自動でやっています。特殊な瓦は手作りですが、全部金型を造っていて、教えたらだれでもできる体制になっています。
 粘土は10tのダンプカーで毎日淡路島(兵庫県三原郡西淡(せいたん)町)まで取りに行き、配合した状態で持って帰ります。讃岐土や五味土は使っていません。毎日行っていますので、1日に10tの土を瓦にしよる(している)ことになります。
 最初、土はホッパー(粘土供給機)に入れられ、それからロールクラッシャーで最終的には0.5mm以下につぶされます。ですから、原土に石があっても完全につぶれて地面がよくなるんです。なるべく手をかけんようにするには粘土がいいのが一番ですから。続いて混水機に通します。ここで水を混ぜ、真空土練機で練り上げ、自動カッターにかけて、瓦の長さに自動的にカットします。続いて油圧のプレスで成形して(写真2-2-17参照)、乾燥台車に積んで強制乾燥室に入れます。台車に積む作業は手でやっています。
 強制乾燥室は、窯の余熱とガスバーナーで乾燥させますので、天気のいい悪いにかかわらず、15時間くらいで乾燥できます。そのあと、フリーハンガーにつるして、引き薬(引き土)をかけます(写真2-2-18参照)。それから焼成用のパレットに積みます。これも手作業です。それをガス窯に入れて焼成です。20時間焼いて20時間冷却し、あと8時間で窯の入れ替えをするようになっています。一つの窯が2日サイクルです。粘土10tというと、瓦で3,500枚くらいになりますので、だいたい瓦が2,000枚焼ける窯が四つあるんですけど、二つずつ2日サイクルでやっています。
 冷えた瓦は、焼成パレットから下ろしてこん包して出荷します。パレットから下ろすのは手作業です。こん包の際に検査(選別)をしますが、それは目でやっています。こん包は、地瓦の場合は全部機械がします。窯から出した瓦を入れると、ススをのけて、瓦を重ねて紙を当ててこん包して、トラックが積むところまで流れていくようになっています。出荷もわたしとこのトラックでやっています。今、10tダンプが1台と、4t車が1台、3t車が3台、2t車が1台、軽トラックが2台あります。
 このような工程で、結局、ブル(ブルドーザー)で粘土をホッパーに入れると、3日後には製品になり、早かったらそのまま屋根に上がるということになります。わたしのところは土地がせばい(狭い)ですから、できるだけロスのないようにせんときびしいんです。
 自分の目の届く範囲でやるとすれば、今くらいが限界だと思います。これ以上大きくなると、ちょっと管理が難しいですね。ですから、今は大きくするよりは、もっと楽にええもんを安く作るようなことを考えた方がいいと思っています。それぞれの工程の中で改善する余地はまだまだありますから。1週間に1回くらいは、夜、定期的に従業員と話し合いをするんですけど、若い人(20代が3人、30代が4人。)からはかなり思い切った意見も出てきます。わたし自身も先進地に行って研究するようにしています。規模が違いますので、まったくまねはできませんが、これやったら自分とこでもできるというようなことは多いですね。」

 (イ)菊間瓦の将来

 「菊間には、毎月18日に若い後継者たちが集まる『十八日会』というのがありますが、ここでも菊間瓦の将来はよく話題になります。組合あたりでも、何とかせんといかんと言っていますが、そう急に変わるものではありません。わたしは、昔ながらの工法でやっていたのではよその産地に負けると思います。けど、やっぱり昔の技術も残さんといけませんしねえ。最近ちょっと建築自体も少なくなって、大量生産で安いものをどんどん作ればいいという時代は過ぎたように思います。今は、いかに高品質なものを省力化して作るかですね。
 菊間では、うちのように機械化をしているところは2軒しかありません。若い者は、現状をなんとかせんといかんとは思っとるようで、機械化したいという気持ちはあるようですが、それを行動に移すのは難しいですね。うちの設備でも、一度にいうたら、借入れの金額も多くなるし機械の管理もようせんし、たいへんです。やっぱり、長期の計画をもって、段階的にしていかんと。
 今は瓦だけというのは売りにくいので、屋根工事一式という形で請け負っています。ですから、屋根ふきの職人さんの育成も真剣にやらんといかんと思います。わたしとこでは、今、屋根の方をしよるのは10名くらいですが、若い人もかなり入れています。工場の中が瓦作るのと配達を合わせて16名ですから、合計すると、30人くらいの人数が動いているということになります。まあ人数は菊間では多い方です。
 エリアは、四国全部と広島、岡山、九州は大分だけです。やっぱり愛媛県が一番多いです。東予、中予、南予全域に行っています。遠くへ行くと、年をとった人は『菊間の瓦が来た。』いうて喜んでくれますが、若い人はぜんぜん知らんですね。もっとPRが必要だと思います。
 営業は専門をおかず、わたしが全部しています。屋根は外からすぐ見えますので、だれが見てもああこれならきれいという瓦を入れとると、近所の人とか知り合いとかが順々に紹介してくれます。そういう、まあ口コミみたいなものですね、そんなんでいく方がええと思います。最後はやっぱり製品のいい悪いですね、菊間の瓦を使う家というのは、どうしてもお金かけた、こだわった家が多いですから。
 今、菊間の業者のなかには休んでいて瓦を焼いてないところがありますし、廃業するところもでています。後継者がおっても、やがて職人さんがおらんようになりますから、業者の数はまだまだ減ると思います。役物などができる人もだんだんいなくなりました。わたしらは、自分が若いころから何でもやってきたから一応教えることもできるけど、知ってないとそれもできんですしね。全部自分ができる腕とみんなを使う腕と、両方がそろってないと、これからは難しいですね。
 将来は共同化せんといかんと思います。ほんとに効率ようにしようと思うたら、広い土地がいりますよね。それに資金もいりますし。そうすると、やっぱり個人では限界がありますからね。そこらがこれからの若いもんの課題ですねえ。」

 イ 瓦にかける夢

 **さん(越智郡菊間町浜 昭和12年生まれ 60歳)
 「昭和59年(1984年)から4期半(1期は2年)組合の理事長を務めたが、平成5年(1993年)に理事長の最後の仕事として、菊間瓦ここにありというイベントをやって引退しようと思い、『’93かわらぬ愛・菊間』を企画した。平成5年5月22、23日の2日間にわたって、『瓦シンポジウム』、『鬼瓦サミット』など各種の催しが行われ、約1万2千人が会場を訪れ、一応の成功を収めた。
 なかでも『鬼瓦サミット』は、京都府の大江町(加佐郡)に本部を置く『日本鬼師の会』の第3回全国研修会として、全国から鬼師約65名が集まり、研修と親睦を深めた。大江町は、鬼退治の伝説を生かしてまちづくりをしている(*10)ところで、瓦とは関係のない町が、鬼師の会を作ったり、鬼瓦公園や鬼の交流博物館を造ったりするところがすごい。その点、菊間の場合、本物があるんだから、もっといろいろなことができるんじゃないかと思う。
 そんなこともあって、いわば、この『’93かわらぬ愛・菊間』がさざ波となって、『瓦のふるさと公園』に、今年(平成9年)中四国で唯一の瓦専門の資料館『かわら館』がオープンした。11月16日には、その記念イベントとして『’97かわらぬ愛・菊間』が開催された。わたしもこのイベントを盛り上げようと思い、だるま窯を復元した。窯を築く技術を若い人たちに知っておいてほしいという気持ちもあったし、実習館あたりでつくった粘土細工を焼くのにも使えればとも考えている。平成11年(1999年)には、西瀬戸自動車道(尾道・今治間)が完成するので、その記念に『’99かわらぬ愛・菊間』を継続して開催したら、という案もあるようだし、平成5年のさざ波が少しずつ大きなうねりになってきたようで喜んでいる。
 菊間瓦を生かすものとしてもう一つ大事だと思うものに、学校関係への働きかけがある。
 『菊間の子供が一度も土にさわったことがないというのではいけまいが。』ということで、町に働きかけて、昭和62年度から『菊間町粘土細工コンクール』を始めてもらった。以後ずっと菊間町内の小中学生が、粘土で作品づくりをしているが(菊間小学校、亀岡小学校全員と菊間中学校1、2年生全員が参加)、子供たちの中にも少しずつ『瓦のまち』菊間の子供だという自覚が生まれてきたように思う(口絵参照)。将来、子供たちがよその土地で菊間瓦のことを話せられるようになればいいし、ひょっとしてこの子らのなかから鬼師になってみようか、とでもいう子が出てきてくれたら、というような夢をひそかに描いている。」


*10:大江町では、昭和57年(1982年)宮津-福知山間に第3セクターによる鉄道新線(宮福鉄道、現在の北近畿鉄道)が建
  設されるのにともない、平安時代、丹波の大江山にすむ酒呑童子という鬼を、源頼光が渡辺綱、坂田金時らと退治したとい
  う伝説を生かしたまちづくりを進めることになった。平成元年、大江駅前には手づくりの駅前広場「鬼瓦公園」が完成した
  ほか、平成5年には、世界中の鬼文化を展示するとともに、交流を通じて新しい鬼伝説やまちづくり伝説を創造する場とし
  て、「日本の鬼の交流博物館」が建設された(⑤)。

写真2-2-17 機械でプレスされる瓦

写真2-2-17 機械でプレスされる瓦

**さんの工場にて。平成9年12月撮影

写真2-2-18 フリーハンガーにつるされた瓦

写真2-2-18 フリーハンガーにつるされた瓦

この状態で引き薬をかけられる。**さんの工場にて。平成9年12月撮影