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愛媛の技と匠(平成9年度)

(4)陶風を受け継ぐ人々

 ア 二六焼

 **さん(伊予三島市村松町 大正3年生まれ 83歳)
 **さんは、昭和7年(1932年)旧制三島中学校卒業後、初代・2代のもとで陶磁器製造に従事し、昭和15年(1940年)3代目佐々木二六を襲名した。
 初代佐々木二六(本名:六太郎)は、安政4年(1857年)に宇摩郡松柏村村松(現在の二六焼窯元の近く)に生まれた。家業は代々、鬼瓦(かわら)、細工瓦などの瓦製造業を営む。六太郎が陶工への道を志した動機は、人形製作で日本一といわれた松本喜三郎の作品を見て、その妙技に感嘆したことによる。鬼師としての技術を教えながら福島・愛知・三重・佐賀県などの窯元を訪ねその技を磨き、明治20年(1887年)二六焼を創始した。二六焼の命名は、祖先で楽焼(*33)を製作した人から2代目になることと、本名の六太郎の六をあわせたものである。初代二六によって今日まで継承されている技は、福島県有馬焼の浮き彫りからヒントを得たものである。
 **さんの作品は、ロクロを使わず竹ヘラ1本を使って緻密(ちみつ)な細工を施す伝統的な技法を受け継いでいる。「心を彫る」を信条とし、人物、仏像をはじめ、おもと(*34)・天神ガニ・ネズミなどの動植物を生きている姿のようにとらえ、土の上に再現している。特に、釉薬の研究に力を注ぎ色彩に独創性を発揮している。昭和34年(1959年)ころから干支(えと)の置き物も製作するようになった。昭和34年、皇太子殿下の御成婚を祝して「おもと」を献上した。昭和37年には伊予三島市無形文化財指定、平成6年「陶磁器焼成工」として卓越した技能者「現代の名工」の労働大臣表彰を受けた。

 (ア)細工の土作り

 「原料の土は、川之江にあります。初代は、はじめ新居浜の土や土居(周桑郡)の土を使ったり、いろいろ苦労したんです。やっと、川之江市川滝町の小高い山の断層地帯になっているところを少し買いましてね。現在もそこの土を取っているんです。使うだけの土を人夫を雇って、堀ってトラックに積んで、持ってきて土蔵に入れておくんです。砥部では大がかりに土を作っていますが、うちは小さい窯ですからね。家庭内で水篏(すいひ)法というて、水で十分溶かして砂とか木の根などを分別して、非常に緻密(ちみつ)な細かい土を作るんです。それというのもすべての作品が手作りで細かい細工をするもんですからね。」

 (イ)心を彫る

 「初代と2代がいるときに、やれやれと言われて細かい作品づくりをしました。手を取って教えてくれんので、見よう見まねでね。ただ平面的に彫ったんでは、わたしの心がすまんのです。動物の魂というんですか、ネズミならネズミの心情を彫り込まないかん。カニなら力二の心を彫り込まないかん。立体的に奥深くですね。でないと生きた作品はできないと思うのです。息子にも上辺(うわべ)ばかりではいかないと言うんです。動物だけではなく、ナス・ホオズキ・ハクサイなどいろいろ作ります。これらの作品は、初代の六太郎から続いています。七福神とか布袋(ほてい)(中国、唐代の禅僧)などは、外国の人がよく買ってくれました。
 生きものは、よく観察し写生しないと本当のものにはなりません。ネズミは、もらってきたときには、ともかく野生ですから『ガザガザ』して。落ち着いて写生できるまでに10日くらいかかります。えさを毎日やっていたら、やや落ち着いてきますね。カニは、この近くの川におります。トラはサファリパーク(*35)に行ってスケッチしました。昔ね、松山の道後動物園とか香川の栗林動物園に行ったんですが、動物園のトラは檻(おり)に入っているでしょう。生きているという程度で筋肉隆々としたところが全然ないんですね。だからサファリーパークで肉に『バアー』と飛びつきよるようなところを見に行ったんです。ヘビは、岩国の白ヘビを写生に行きました。ここではね、白ネズミをえさにやるんです。」

 (ウ)自然の色になるように

 「道具は、竹ベラとか木ベラを使います。自分でこしらえます。わたしは、旧制中学校のとき剣道をやりよりましたからね。竹刀(しない)の折れたので作るんです。竹刀の竹は厚みがあるでしょ。削ってノミのようにするとかキリのようにするとか、いろいろ自分に合うようなヘラを作ることができるんです。
 色もいろいろ使いますけどね。自然色になるように配合するんです。売っている顔料は合うものと合わないものがあるんで、精選して自分の窯に合う釉薬を作るんです。新居浜の住友工場のタンパンと呼ばれている硫酸銅をもらうんです。電気分解したときに廃棄物として出るんです。これを焼き物に使うと、いわゆる織部(おりべ)色というきれいな緑色になるんです。力二などに部分的に使ったりします。ネズミでも鼻のちょっと赤いところ、前足のちょっと赤いところが自然色になるように配合するんですが、そこが難しいんです。
 動物は目玉が難しいんです。ネズミなどは、生きているような目玉をしてないといけない。顔料が完全に溶けてないと、あれだけの『キラリ』とした目玉ができないわけなんですね。それが溶けすぎると、目玉が流れてしまうんです。流れたらすべてが『パー』です。窯で止める温度は、秒単位です。
 素焼きしたものに色を着けて、もう1回焼くんです。本焼きの温度は、使った色によって違うんです。だから均一の温度で焼けるようにテストして釉薬を自分で配合するんです。いろいろ色を使いますからね。どうしてもうまくいかない時には、2度焼き、3度焼きをするわけなんですね。
 窯は電気窯です。ずっと登り窯だったんですけど、燃料の松の木が製紙のチップ材に取られて少なくなってきましてね。材木屋で松のゆがんだのを買ってきていたんですけど、木を切って割ってくれる木こり職人もおらんようになって。また木を炊くと黒い煙がどんどん出て煙害になりますしね。これはガス窯か電気窯にせないかんなあと思って、電気窯にしたんです。経済的にも安いし、温度の上昇も早いんです。取り扱いもたやすいんですね。電気窯の中に、また薪(まき)をくべて炎を吹き込むようにしています。」

 イ 水月焼

 **(松山市岩崎町 大正15年生まれ 71歳)
 **さんは、佐賀県出身。昭和43年(1968年)水月焼創始者好川恒方(つねかた)へ弟子入り、45年恒方と結婚。53年に恒方亡き後、水月焼2代を継承している。昭和55年には「第6回全日本工芸展」で「欧州美術クラブ賞」を受賞。天理美術展など県外への出品が多い。
 初代好川恒方は、明治16年(1883年)狩野派の画家好川馬骨(号)の長男として松山に生まれた。20歳のころ「絵を立体的に表現したい」と自宅の庭に窯を築き水月焼を始める。釉薬の研究に打ち込み、大正10年(1921年)「天神ガニ」を彫って独得の色を焼きつけることに成功した。「生きたカニ」として好評を得る。また彫塑(ちょうそ)の研究にも情熱を注ぎ作品「羅漢(らかん)(*36)」の仏像・「寒山拾得(かんざんじっとく)(*37)」の人物像は、宮内省御買上げとなる。特に、山水彫りの壺は樹木、谷川、そま道を深く彫り込み、深山幽谷をしのぼせる作品である。

 (ア)恒方と金魚鉢

 恒方が水月焼を始めたきっかけを**さんは、次のように話してくれた。
 「恒方は大阪から来た菓子職人の方に花鳥、動物などの造型菓子を習ったんです。一人前になってお菓子店を松山の木屋町に出したんですが商売人に向かないので、店は駄目になったんです。お父さん(好川馬骨)の描く絵の手伝いをしているとき、ちょうど隣の家に窯場があったんです。窯場といっても素焼きで土管や七輪(*38)、金魚鉢を作っていたんです。その金魚鉢にお菓子で作ったような花を付けたり、釣り人を付けたりすると、これは面白いというのでよく売れるんです。そうしているうちに自分も平面的な絵ではなく立体感のある焼き物をやってみたいな、と思うようになったのです。」

 (イ)ガーゼを使った土作り

 「いま使っている土は、松山の衣山(きぬやま)の土と信楽(しがらき)(滋賀県信楽町)の土とを混ぜているんです。恒方は最初、衣山の土だけで作ったんです。きめが細かくて粘りがあって、山水彫り、カニ彫り、花彫りなどの細工に似合うんです。いま使っている土よりも、もう少し赤っぽい肌色の土だったんです。ところが衣山の土は、もろいという性質があって、ある時、買っていただいた作品の細かい部分が『ポロッ』と取れたんです。そこでいろいろ研究して、わりと『サラサラ』していてちょっと強い信楽の土を混ぜるようになったんです。
 衣山の土は水にかしておいて、上澄(うわず)みを取るわけですね。それを網(あみ)でこして、最後にガーゼでこすんです。網ぐらいでは、駄目なんです。細かいものを彫る場合は砂粒が一つでも入っていたら、そこのところが『ポロッ』となりますからね。そして粘土に空気を入れないように菊もみ(*39)でね。丹念に手で練ります。大変な手間がかかるんです。」

 (ウ)すべて手作りの山水彫り

 「山水彫りの壷は、土を『パタパタ』と手で平らに伸ばすでしょう。それを丸めて紐(ひも)のようにして、グルグル巻いていくようにして、壷を作っていくんです。壷がきれいにできたら、奥行きのあるように窪(くぼ)みを作るんです。彫刻というと、普通、彫っていくんですが、この山水彫りの場合は、彫りもしますがどちらかというと付けていく方です。つまり彫塑なんです。柔らかいうちに粘土を大きく付けて、枝とか葉などを彫っていきます。形を整えたあと乾かします。
 きめが細かいため、一気に乾かすとひびが入りやすいんです。ナイロンの袋に穴をあけて壷にかぶせたり、袋を取ったりして陰干しで2か月から3か月かかります。それがすんで天日で2、3日乾かして、素焼きするんです。1,000℃前後で焼きますが、壷に厚みがありすぎると窯の中ではじけるんです。次に松の葉とか枝とかを、いろいろな色を使って塗っていくんです。絵付けしない周りの部分には、白釉薬をかけます。そして750℃前後で本焼きします。色の場合、あまり高い温度だと色が飛んでしまうんです。
 山水彫りは、先代が一所懸命やっているのを見ていましたが、生きている時にわたしが作った作品は一つだけなんです。本当に会得しないうちに亡くなってしまったんですよ。先代がしていたようにするんですが、どうしても松の感じがなかなか出なかったんです。ある時、ふと気がついたのは、最後の仕上げに針で松の先をほじくっていたんですよ。やってみたら、松の葉のとがった感じが出てきたんです。一所懸命、試行錯誤しながらやってきて、やっとできるようになりました。
 カニは赤の色が難しいんです。本焼きの温度が10℃過ぎても黒くなってしまうし、温度が低すぎるとざらざらした艶のない色になります。とてもデリケートなんです。湯呑みも急須も、全て手作りです。急須で一番難しいのは、口と柄ですね。口のところは、ただ丸くして『ポッ』と付けたんではいけないんです。形に味わいのあるように作らないと。手間、暇(ひま)かけていいものをというのが先代のモットーだったんです。」


*33:指頭で作る土焼きの陶器。低い火度で焼く。千利休の創始といわれ、初代長次郎、3代道入が有名。2代常慶が豊臣秀
  吉から「楽」の字の印を賜わり、以来家号とする。
*34:万年青。ユリ科の多年草で常緑。観賞用として品種が多い。夏、葉間から花茎を出し穂状に緑黄色の細花をつけ、のち
  赤色や白色の実を結ぶ。
*35:動物をオリの中に閉じこめないで野生のままにしておき、自動車で観覧するようにした動物園。
*36:阿羅漢の略。仏教の修行の最高段階に達した人。もとは仏の尊称に用いたが、後世は主として小乗の聖者のみを指す。
*37:寒山・拾得の飄逸(ひょういつ)(人事や世間の事を気にしないで明るくのんきなさま)な姿を組み合わせた中国・日本
  画の題材の一つ。
*38:物を煮るための土製のコンロの一つ。
*39:土もみで荒もみの次に行う。土を押して空気を徹底的に追い出す。もむ途中の形が菊の花びらに似た形になる。