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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 昭和初期の山村のくらし-直瀬・小椋寛一郎の写真から-

 久万高原町直瀬(なおせ)には、今から約80年前に撮影された「古写真」がある。「古写真」と言っても、写真が歴史を記録し始めたのはわずか150年前のことである。言葉や文字の歴史に比べると、写真の歴史はきわめて短い。さらに、写真が庶民の歴史を記録するようになったのは19世紀末のことである。
 そして、写真がまだ庶民に広まりはじめたばかりの約80年前、直瀬にて地元の風景や人物の写真を撮り続けた人物がいた。その人は小椋寛一郎(1905年~1960年)。本節では、彼の残した写真から、昭和初期の山村のくらしを振り返りたい。
 寛一郎が写真を撮影していた当時、直瀬は川瀬村といった。川瀬村は、明治22年(1889年)に上畑野川(かみはたのかわ)・下(しも)畑野川・直瀬が合併して設立された村で、昭和34年(1959年)に久万町に、さらに平成16年(2004年)に現在の久万高原町に編入された。さらに直瀬地区は、大きく上直瀬と下直瀬に分かれ、両者は生活圏が異なっている。今回の調査では、寛一郎が居住し、写真が多く残されている上直瀬地区を対象とする。
 寛一郎は、明治38年(1905年)、直瀬の裕福な木地師(きじし)の家に長男として生まれた。松山の旧制中学を卒業後、家業として家の田畑や山林の管理を任された。昭和26年(1951年)から5年間、川瀬村の助役を務め、また川瀬村森林組合の組合長も務めるなど(在籍期間不明)、地元の行政や林業と深く関わった。そして、昭和35年(1960年)に54歳で亡くなるまで、この地に暮らした。
 彼は経済的に恵まれた環境から、多くの趣味を持っていた。その一つが写真であった。大正末から昭和初期に手札(てふだ)判木製ハンドカメラを入手、昭和4年(1929年)には日本で販売されて間もないライカⅠ(A)型をカタログ販売によって手に入れる。それは、愛媛県内で最初に購入されたライカだったと、当時を知る松山市内のカメラ業者は語っていたという。ライカはリンゴの木箱に何重にも箱詰めされ、馬に乗せられて直瀬の寛一郎のもとに届いた。また、寛一郎は、書籍を通じて撮影や現像処理などの知識を独学で覚え、自宅の納屋に暗室を作り現像までしていた。寛一郎が直瀬にもたらしたモダン文化はごく一部だが地元にも波及し、裕福な者はライカやその他のカメラを購入し、寛一郎の暗室を借りて現像することもあった。さらに、寛一郎の活動は地元だけにとどまらず、日本で最初のライカ愛用者の団体「日本ライカ倶楽部」に参加、会報誌を通じて全国の同好の士と交友した。
 寛一郎は、外出時はライカを、自宅近くの撮影では乾板カメラを使った。当時の美術界や海外の動向などを反映した「新興写真」と総称された芸術性を意識した写真を撮る傍(かたわ)ら、村祭りの様子、消防団の記念撮影、稲刈りなど、地域の身近な出来事も撮影した。
 寛一郎の写真は、例えば愛媛の昭和の民俗、景観などを伝える20万枚を越える写真を残した愛媛大学地理学教授・故村上節太郎(1909年~1995年)のような「記録」に対する意識はあまり感じられない。当然ながら、体系だった民俗学の知識を前提に撮影したわけでもない。あくまでも、寛一郎の写真は個人の自由な創作であり、心に響いた何ものかを撮影したものである。しかし、写真が記念写真や特別な行事の際にだけ撮影するものであった時代に、なにげない山村の姿を捉(とら)えた寛一郎の写真は、時間の経過とともに時代の客観的記録として資料的価値をもつようにもなる。また、何よりもそこには部外者の眼ではなく、村で生きた人だからこその視点が映し出されているだろう。
 本節では、昭和初期に小椋寛一郎が直瀬にて撮影したと考えられる写真(小椋陽介氏所蔵)を中心に、それに対する意見を聞く形で聞き取り調査を行った。ただ、写真をもとにした調査であるため、写真に残されていないことについてはあまり言及されておらず、昭和初期の直瀬のくらしを総合的にとらえることが出来なかった点をお断りしておきたい。
 聞き取り調査には、Aさん(昭和4年生まれ)、Bさん(昭和8年生まれ)、Cさん(昭和9年生まれ)、Dさん(昭和11年生まれ)、Eさん(昭和12年生まれ)がご協力くださった。
 なお、撮影場所が特定されたものについては、当時との比較ができるよう現在の風景を撮影し、変化を記録するようにした。