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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 発電所を動かす

 現代の日本人が生活する上で、電気はなくてはならないものである。自動車を運転しない人や携帯電話を持たない人がいても、電気を使わない人はいない、と言ってよいだろう。
 愛媛県における電気事業は、明治34年(1901年)松山(まつやま)に設立された伊予水力電気株式会社に始まる。2年後の明治36年には、湯山(ゆやま)発電所の電気を松山と三津浜(みつはま)に送電して電気事業が開始された。その後、大正6年(1917年)に鉄道会社と合併して伊予鉄道電気株式会社が発足し、中小の電気会社を合併していった。戦後、昭和26年(1951年)に四国電力株式会社が設立され、越智郡島嶼(とうしょ)部を除く県内全域に電力を供給する体制になった。
 四国電力が、水力発電の設備が多い「水主火従」から、火力発電の設備が多い「火主水従」に移ったのは、昭和40年(1965年)のことである。それまでは、水力が主であったから、水力発電所の建設、維持管理が重要であった。県内に建設された水力発電所のうち、歴史が古く、また多く立地していたのが柳谷(やなだに)地区である。
 本節では、柳谷地区の水力発電所について、Eさん(大正11年生まれ)とFさん(大正15年生まれ)、Gさん(昭和25年生まれ)から話を聞いた。

(1)発電所で働く

 ア 柳谷地区の発電所

 「私(Eさん)は、昭和17年(1942年)に電力会社に入りました。梼原(ゆすはら)水力(高知県にあった電力会社)に入社当時の給料は73銭でした。その後兵役を終えて帰郷し、再び元の会社で働きました。途中、鈍川(にぶかわ)発電所(現今治市玉川町)や今治変電所にも勤めました。昭和36年(1961年)3月から、面河第二発電所と黒川第一発電所の所長を兼務しました。その時は、3万円足らずの給料でした。翌37年3月、黒川第二発電所に転勤し、黒一(くろいち)(黒川第一発電所)、黒三(くろさん)(黒川第三発電所)の所長も兼務しました。その後、昭和38年に組織が変更され、所長が区長という名に変わりました。昭和41年(1966年)の3月に面一(おもいち)(面河(おもご)第一発電所)の区長になりました。そして、昭和50年(1975年)3月に面一の区長から四電エンジニアリングに出向しました。四電エンジニアリングは、発電所の修理や点検を、四国電力から請け負ってする関連会社です。そこで昭和62年くらいまで働いていたので、結局、面河川にある発電所全体をあちこち回ってずっと仕事をしていました。
 面二(おもに)(面河第二発電所)と黒一は隣り合わせで柳井川の川前(こうまい)にありました。面二は、面河川上流の面一から放水された水を水路で発電所に引き入れて発電しました。黒一は、黒三から放水された水を水路で導き、山上の水槽から水を落として発電しました。
 黒川を上流へさかのぼると黒二(くろに)(黒川第二発電所)があります。現在は柳谷(やなだに)発電所と呼ばれています。永野(ながの)には黒二の近くに黒三があり、黒二で使った水を取水して黒三で発電していました。水系ごとに発電所ができた順に番号がついていますが、『小村(こむら)発電所』は、今ならそんなこだわりはないと思いますが、四の数字を嫌って、地名をとって発電所名にしています。
 私が昭和36年(1961年)に来た時には、柳谷地区で120人ほどの社員が働いていました。水力発電所では、現在は自動化されていますが、かつてはほとんどの仕事が手動で、現場で処理していたので人手がいりました。取水口の門扉(もんぴ)を開けることから始まって、すべての仕事を人がしていました。事故に備えての対策や水の管理、発電量を測定して上部機関(面河第一発電所にあった電力所)に報告する業務、発電機の分解点検の準備や支援などの仕事、1、2か月の間発電所を停止して改造工事を実施する仕事などがありました。
 それが、ワンマン・コントロールといって、配電盤などを操作して一人で管理できるようになりました。梼原はワンマン・コントロールで当時の最新式でしたが、柳谷地区の水系は面三(おもさん)(面河第三発電所)を除きオール手動で古いスタイルでした。ワンマン・コントロールがしばらく続いた後、次の段階では遠方制御というやり方に変わりました。現在は、柳谷の発電所は高知県の佐川(さかわ)でコントロールされており、発電所や水路の巡視をする人や定期的に点検する社員14、15人の姿を見るだけになりました。」

 イ 発電機

 「私(Fさん)が最初に勤めたのは面三で、当時、面三に20人ほどが勤めていました。
 松山からの給電指令によって発電所を動かしていて、深夜は発電を少なくして堰堤(えんてい)(川をせき止めた小さなダム)に貯水し、朝方に運転するようにしていました。堰堤番に指令をして水を水路に流し、発電所上の水槽の水が増えてくると発電機の運転を始め、外の系統(送電線)に接続する、という流れになります。発電機には横軸と縦軸のものがあり、黒一、黒二、黒三は横軸でしたが、面一、面二、面三、小村、五黒(ごくろ)(第五黒川発電所)は縦軸でした。私は修理所長の仕事も長く、このあたりのどの発電所も、水車や発電機の分解点検や修理のため、よく巡回していました。その時、面河電力所長で、発電機のことが全部頭に入っている渡部愛源さんの指導も受けました。水車や発電機の分解、点検、組み立ての手順書は全部渡部さんが作りました。さらに渡部さんは、発電所の勤務を終えた後、社員を集めて手順書をもとに講習会もやってくれました。実際の修理や分解、組み立てのときは、メーカーの指導員も来ていました。
 水車の場合、分解して水車ランナ(水車の内部にあり、水の力により回転する部分)の摩耗(まもう)をみて、効率試験をして効率が悪いと取り替えるのです。ちなみに水車の型式は、ペルトン水車、カプラン水車、フランシス水車がありました。取替え後、再度効率試験をして、どれだけ復旧させたかも調べ、確認します。取替えは10日くらい、状態や機種によっては1か月近くかかるものもありました。発電機や変圧器は、コイルが絶縁不良になっている場合に巻き替えもします。このようにして、水車や発電機の解体修理や部品交換をしながら発電してきたのです。」

 ウ 発電所のトラブル

 「発電所で働いていた社員は、地元で採用された人が多く、社員の半分以上であったように思います。発電所の仕事は、私(Eさん)が入社したころは2交替(12時間勤務)でしたが、昭和30年代には3交替で行っていました。3日ごとに二人ずつ当直の仕事をしていました。
 メーターの監視が主な仕事でした。事故防止が一番大事で、メーターに変化があったり、異常電圧がかかるなどのトラブルで継電器(けいでんき)が働いて警報が出たりすると、すぐ対応しました。警報の種類によって、ベルであったりブザーであったりして違うので、何の警報か判断してから対処するのです。
 私が経験した大きなトラブルは、梼原水力の梼原第一発電所に一人で勤務していた時にありました。引き込み送電線の落雷事故で、発電所の機器の電源となる電気が止まりました。電源を失ったら発電機を止めなければならないのですが、そのためには水路のゲートを閉めなければならないのです。ところがゲートを閉める電源がないので手動でしなければなりません。ゲートを閉めなければ、水がどんどん送水されて発電機を回してしまうのですが、発電機の一定速度を超えてしまうおそれがありました。一定速度を超えると、発電機が壊れてしまうのです。発電所から30m上にある水槽に上がって、ゲートを手で閉めようとしました。普通の閉め方では間に合わないので、手袋をしてギアをつかんで閉めようとしました。ところがギアに手袋が食い込んで、指に大怪我(おおけが)をしました。ですが、ようやくのことでゲートを閉めることができ、発電機を守ることができました。」

 エ ダムと水路

 「水力発電は開発に多額の資金が必要ですが、開発が済(す)めば、後は維持管理に力が注がれます。昭和30年代には、面一や黒二では、ダムというか、少し高い堰堤(えんてい)から取水していました。そのダムも電力会社が造って発電所と一緒に管理していました。ほかには大きな施設はなく、堰堤で水をせき止めて発電所にトンネルの水路で送水し、落差を利用して発電していました。
 堰堤には堰堤番がいて、家族も堰堤そばの社宅に住んでいました。昔は、堰堤番に地元から採用された社員が多かったようです。慣れてきたら、発電所勤務になりました。今のような遠隔操作の自動ではないので、堰堤のところに人がいて、バルブやハンドルを回す作業がありました。郷角の堰堤のところに社宅があって、そこに一家族住んでいました。雨が降って増水し濁った水が流れてきたら、堰堤番は堰堤の取水口のゲートを閉めていました。住んでいた人のほかにも、何人か、泊り込みをしていた人もいました。
 今は水路を暗渠(あんきょ)にしていますが、昔はトンネル部の切れ目は地表に水路になって出ていました。トンネルはサイフォン(パイプの途中で水が取水地点より高い地点を通る装置)で流す場所もありました。
 郷角(ごうかく)に堰堤があり、この堰堤でせき止めた水がトンネルの水路で黒二に落ちていきます。砂交じりの水は水車の故障や摩滅(まめつ)につながりますので、トンネルの水路に砂が入らないように、前もって『砂流し』をしていました。
 私(Gさん)が子どものころ、年に1回くらい、『砂流し』といって堰堤に溜まった砂を流すための仕事がありました。地域の大人が雇われて、スコップで砂を掘り返して流しました。砂流しのときには、沈砂池(ちんしゃち)の魚をとるために網をもって行きます。全部砂を流すと、堰堤の水を止めます。すると、エプロン(コンクリートで固めた堤防)にできた『つぼくり(穴)』に魚がいますので、それをとっていました。村じゅうの楽しみで、砂流しで盛り上がりました。」

(2)発電所と地元とのつながり

 ア 発電所所員のくらし

 「発電所ごとに、5、6軒ずつ社宅がありました。私(Gさん)が小学生のころ、親が四電(よんでん)(四国電力)で働いている同級生が大勢いました。その子らは、3年くらいしたら親の転勤で出て行く(転校)のですが、またしばらくして中学生になったら、帰ってくる(転入)のです。四国では他の地域に水力発電所があまりなく、昔は水力が主力でしたから、水力関係の社員は、柳谷あたりと松山の変電所あたりを行ったり来たり(転勤)する社員が多かったようです。地元採用の人は、ほとんど異動がありませんでした。
 のちに四国電力の水力部長になった人も、新入社員で入ったとき、郷角の堰堤番のところへ来ていました。若い社員が現場の勉強に来る場所でした。
 宴会はよくありました。月1回くらい、定期的に職場会をしていました。好きな人がよく計画してくれました。宴会は、発電所の事務所のなかでやることが多かったように思います。
 交代勤務があり長期休暇も難しいので、村の祭りにはほとんど参加していませんでした。ふだんの楽しみは、ピンポン(卓球)をするとか、将棋や碁を打つとかでした。庭球(ていきゅう)(テニス)もやっていて、五黒に庭球場がありました。当時、地元の人は『何しよるんじゃろ(何をしているのだろうか)。』と思っていましたが、電力の人は都市ではやっていた庭球をしていました。
 面一には看護婦さんが常駐していて、各発電所を巡回していました。買い物は落出(おちで)でもしていましたが、面一にあった生協が安いので、生協でしていました。職員が松山までジープで商品を仕入れに行き、発電所の関係者に販売していました。散髪(さんぱつ)も、発電所ごとに、散髪用の小屋を社宅の近くにある物置などを利用してつくり、理容師が定期的に巡回してきて散髪していました。不便はあまりなかったです。
 また、年に1回、柳井川(やないがわ)小学校で、学校の運動場を借りて社員単独で運動会をしていました。徒競走やダンスなど、親睦(しんぼく)を深めるために1日わいわいやって過ごしていました。発電所ごとの対抗リレーもありました。もちろん、発電所には当直を確保していました。
 昭和20年代に、四電になる前のことですが、ある発電所でストライキが発生し、組合員が労働争議の最中に電気を止める、それを会社側が動かす、また組合員が止める、というようなことがありました。組合員が当直用のふとんを配電盤の操作するところにかぶせて、会社側が運転しようとするのを阻止(そし)したこともありました。
 私(Gさん)が子どものころは、地元の子らが『でんち』という綿入れの服を着て、ぞうりで学校に行っているのに、電力社員の子どもたらは、セーターを着て靴をはいていました。テレビも電力社員の家に早く入りました。地元の人は、四国電力の社員をうらやましく思っていました。」

 イ 発電所をつくる

 「発電所や発電用水路・トンネルの建設が盛んに行われていた昭和20年代、郷角や大成(おおなる)に建設会社の飯場(はんば)(工事現場の宿舎)がありました。大きな建設工事があれば、その現場で働く人たちが家族連れでやってきます。
 五黒(ごくろ)がある大成は、工事に来ていた人がそのまま住みついた集落です。大成には、もともと人が住んでいなかったのですが、五黒とダムや水路関連の工事関係者が多く住んで、小さな町ができていました。散髪屋、パチンコ屋、飲み屋、衣料品店などがありました。旅館は2軒あったと思います。下請けを含め、工事関係者相手の商売が成り立っていました。今のように給料振込ではなく現金支給でしたから、飯場にいる労働者はもらった給料で飲んだり食べたりして使ってしまうのです。そのように大成がにぎわっていたため、もともと西谷地区の中心であった本谷(ほんだに)(江戸時代の役場である庄屋所(しょうやしょ)があった集落)にあった小学校やお寺までが、大成へ移りました。
 ダムや水路の建設労働者の子どもが西谷(にしだに)小学校に通っていました。工事が一区切りついて親が別の建設現場へ移動すると、子どもも転校しました。ところが4、5年して、中学校でその子が転校してきました。『あれ、かずちゃんじゃないか。』『そうよ、工事が西谷の奥のほうであるけん、もんてきたんよ。』と言っていました。」
 平成23年発行の『四国電気事業概要 第64巻』によれば、現在、四国の発受電電力量構成比率のうち、水力発電は9%にすぎず、風力発電や太陽光発電などの新エネルギーに注目が集まっている。しかし、水力発電は明治期から昭和期の経済発展を支え、その安定供給のために、山奥の谷あいに発電所や水路が次々と建設され、昭和40年代まで柳谷地区の発電所では、多くの人々が地道に働いていたのである。