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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 久万町のくらし

(1)久万町の産業

 ア 林業の全盛期

 「昭和20年代から30年代は、戦後復興とその後の高度経済成長で木材の需要が多かったのです。久万から松山方面へ向かうトラックはほとんど全部材木を積んでいました。三坂峠を越えて松山の三津浜(みつはま)港や伊予市の郡中(ぐんちゅう)港へ運んでいました。その当時は材木の値段がよくて、トラック1台分(今の4t車に相当し、3m³から4m³ぐらい)積んで行くと、道後温泉で1週間ぐらい泊まって遊んで帰れるぐらいでした。なかには、家の山の木を勝手に切って原木を積んで松山へ持って行き、それを売って道後で遊んで帰るような人もいました。何回も同じことをやっていたので、最後は父親に知られて、ひどく怒られたそうです。
 久万からは、原木や木炭を積んだトラックが、狭い曲がりくねった砂利道を、砂埃(すなぼこり)を巻き上げ、松山まで2時間近くかけて運び、帰りには三津(松山市)や郡中(伊予市)から、酒造会社で使う石炭やコークス、農協で販売する肥料や農業資材、町内の商店が松山で仕入れた商品などを運んでいました。
 材木を山から切りだしてトラックに積むまでは、ほとんど馬と人力の仕事でした。昭和30年代になると徐々に林道整備が始まりましたが、それまでは大変な重労働でした。伐採(ばっさい)して材にすることは、鋸(のこぎり)と斧(おの)で全部人力、材木を数箇所に集めて大きさや長さを揃(そろ)える集材もほとんど人力、林道や道路までの運搬は、馬の背に積んだり、牽(ひ)かせたり、小さい材木は人間が担いだり牽いたり、少し広い林道になると馬車や台車でトラックの来るところまで運んで積み上げていました。トラックへの積み下ろしも全部人力で鳶口(とびくち)(カシの棒の先に物をひっかけるために鉄製の鉤(かぎ)を取り付けたもので、木材運搬で物をひっかけたり、引き寄せたりするのに用いる道具)やドットコ(大きな木材などを動かすために用いるテコ)という道具を使っていました。景気がよかったのは、昭和40年代まででした。それ以後は日本の大手商社による外材の輸入増加に圧(お)されて、価格面ではまったく太刀打(たちう)ちできないような状況になりました。」

 イ 葉タバコ栽培

 「林業以外では葉タバコの栽培がありました。昭和30年(1955年)ころには、ミツマタは植林ブームのため少なくなっていました。葉タバコは何軒かで乾燥蔵を持っていました。乾燥蔵は高い土壁の蔵のような建物で、秋になるとそこからはいつも煙が出ていました。というのは、タバコの葉を薪で乾燥させていたからです。それを中学校の講堂や体育館を利用して収納していました。専売公社の営業所があったのもそのためです。11月ころから1月末ころまで収納していたのですが、その間、体育館が使えないのです。運動場の端のほうも葉タバコを積んだトラックがどんどん入って来ていました。昭和30年代初めのころです。タバコは当時政府の専売品でした。農家は専売局に管理されて葉タバコを生産し、かつその葉の生産から乾燥までの品質管理が重視され、農家にとっては大きな収入だったのです。現在は、葉タバコを栽培している農家は直瀬にしかありません。
 昭和30年ころから、農林業が少しずつ機械化されるようになりました。それまで大きい農家では必ず牛馬を飼育し、農作業に家畜の力を利用していました。それまで牛馬や人間だけの利用であった農道や水路が、だんだんと改修されてリヤカーや荷車や耕運機が通るようになり、水田のあちこちでエンジンの音が聞こえるようになり、圃場(ほじょう)整備も進み、機械も大型化しました。林業においても、鋸からチェンソーに変わりました。」

(2)食生活

 「久万は農業が盛んな地域だったので、比較的食べるものには困らなかったのです。昭和30年ころ、農家では今のように米の飯(めし)を食べていましたが、農家でない家はトウキビ飯(めし)や麦飯などを食べていました。戦後の間もないころは、久万でも食糧難で農家以外の家では、酒造所がついた米ぬかを練って食べたり、ノビル(ネギ属の多年草)やチモト(ユリ科の多年草)などの野草を採ってきて食べたりもしていました。私(Aさん)の家は農家でなかったので、戦後間もないころは着物を売って、そのお金で米を買ったり、着物と米を交換したりして米を食べていました。いわゆるタケノコ生活(タケノコの皮を一枚一枚にはいでいくように、衣類や家財を売りながら生活費にあてるような暮らし)です。
 この地域は冬に野菜が採れないので、サツマイモ、サトイモ、白菜、大根などは畑の斜面に穴を掘って入れてスクモ(籾殻(もみがら))をかぶせ、その上にワラを置いて保管をしていました。ニンジンやゴボウもありました。サツマイモやサトイモは食糧として保存する目的もあるのですが、次の年の種付け用として保存していました。下に向かって穴を掘るよりも横に掘る方が多かったです。現在でも穴を掘って野菜を保管しているところはあります。『室(むろ)』(物を入れて、外気を防いで保存する所)といいます。戦後間もないころは防空壕の跡に籾殻をいれ、入口にコモ(簡易むしろ)を掛けたりしていました。雪が降ると畑や土手に穴を掘り、雨や雪から守るために籾殻と藁(わら)で囲って室を作ります。穴の大きさは大きいものでは直径2mぐらいで深さは1m半ぐらい掘っていました。穴が深いほうが外気温に左右されなくて、保管には都合がよいのです。」

(3) 冬の生活

 ア デンコ人形

 「曙町の天理教教会前の道を裏道と呼んでいました。私たちは国道の混雑を避けて、小学校に行く時に通っていました。冬になると小学生が学校に行く時は、みんなデンチ(チャンチャンコ)を着て行っていました。その姿から生まれたのがデンコ人形です。デンコ人形は昭和29年(1954年)から民芸品として売り出したのです。私(Eさん)が中学生の時には木工室で、削ったり、彫ったり、色づけをする、手ほどきを野村麦秋先生から受けて、デンコ人形をたくさん作りましたが、手間がかかるわりには値段が安いのです。材料は檜(ひのき)の柾目(まさめ)で、大きさは20mm×30mm×50mmくらいから数種類ありました。
 どの家でも暖房のために薪(たきぎ)を山から拾って帰って家の横に積んでいました。久万中学校ではダルマストーブで焚く薪を池(いけ)の峠(とう)にあった町有林に切りに行っていました。一冬に3日ぐらい全員でショイコ(オイコ)を持って行き、木を切って持って帰るのです。持って帰った薪は中学校の渡り廊下の周りに防風を兼ねて積んで乾燥させていました。」

 イ 昭和38年の豪雪

 「冬に大雪が降ると、『秋には産婆がせわしなるぞ。』と言われていました。普通の年は、車が動けない日があっても人は歩くことができたのですが、全く人も車も動くことができない日があったのは、昭和38年(1963年)の豪雪の時です。前年末から年明けにかけて毎日大雪が降り、家の軒下まで雪が積もったのです。家の前の雪を道へ除けていくのですが、道には除けた雪がたまってだんだんと道が高くなっていき、屋根のトイまで雪があったのです。道から家の中に入るのに雪で作った階段をダンダンダンダンと下りて入っていました。家の中に入っても昼間でも真っ暗なので昼も夜も電気をつけていました。雪が積もって屋根が耐えられなくなったので、町に入る藤の棚から久万小学校までの区間を通行止めにして屋根の雪を道路に落とし、それを踏み固めて、その上を車が通れるようにしたのです。雪が融(と)けなくて固い間は、ちょうど家の2階ぐらいの高さのところを車が走っていたのですが、雪が融け始めると車が通ることができなくなって、再び遮断(しゃだん)をして雪をかき集めてトラックに積んで一斉に総門橋から久万川へ落としました。
 私(Bさん)はその当時、銀行に勤めていたのですが、出勤するとまず、屋根の雪下ろしや雪かきをしていました。まだ、のんびりとした時代だったので、大雪でお客さんが少ないと、ダルマストーブの石炭がもったいないからという理由で昼から帰らせてくれることもありました。そういう日は笛ケ滝(ふえがだき)公園のスキー場に行って、夕方までスキーをしていました。私(Eさん)が高校生の時だったのですが、明神から上浮穴高校へ通学する際に、最初は友だちと一緒に雪道を歩いて通っていたのですが、相談して『スキーで行こう。』という話になり、スキー板を買いに行って、明神から藤の棚までは下り坂なのでそれを履(は)いていって、藤の棚にある松の木にスキー板を縛り付けておいて、そこからは歩いて通いました。40日間、三坂峠をバスが上がって来ることができなかったのです。郵便車は何とか上がってきていたのですが、郵便配達の人はソリを引いて配達していました。植林した杉、檜が雪の重みに耐え切れず、折れたり曲がったりして、雪起こし(雪で倒れたり、曲がった木を元にもどす作業)などをしなくてはならないので大変だったそうです。」

(4)久万へ来る人

 「久万町は上浮穴郡の政治、経済、文化の中心地でした。郡内の物資の集散地であったので周辺の村から産物を運んでくる人やそれらを買い付けに来る商売人、町へ買物に来る人、国や県の出先機関があったので出張や仕事で来る職員、周辺の村から申請や書類提出など用事のある人などが集まっていました。また、大宝寺や岩屋寺へ向かう遍路道でもあったので、お遍路さんもたくさんいました。そのため、町内には旅館や木賃宿、遍路宿がたくさんあったのです(戦前戦後には28軒の宿屋があった。)。商店がたくさんあったので久万へ行商に来る人は少なかったのですが、三津(みつ)や松前(まさき)の人が魚の干物を『ぶえーん』と言いながら売りに来ていました。『ぶえーん』は塩ものでないことの『無塩』から来た言葉ではないかと思います。鮮魚はここまで運んでいると時間がかかり、傷んでしまうので当時は持って来ていませんでした。背中に大きなブリキのカンカンを背負って、両手に風呂敷包みをもって来ていました。帰りには、売り上げたお金で米を買って帰っていました。お金の代わりに米を渡す農家もありましたが、当時は統制経済で米の売買管理は厳しく、いわゆる『闇米(やみごめ)』でした。昭和30年代の初めころは、紙芝居も来ていました。割り箸(ばし)に刺したスルメが3円か5円ぐらいだったと思うのですが、それを買うと『月光仮面』などの紙芝居を見ることができました。
 人が多く出ていた記憶があるのは、菅生山の縁日と野尻の牛市の時です。出店が並んでにぎやかでした。菅生山の縁日は、旧暦の3月21日、弘法大師が亡くなった日にありました。四つ角の周辺から総門橋にかけてずらっと出店が並んでいました。総門橋の下に変電所があり、変電所に下りる道沿いにも出店が並んでいました。夜になるとカーバイドランプで照らしていたのでアセチレンガスのにおいが漂っていました。野尻の牛市の日も賑やかでした。牛市は春と秋の年2回ありました。春は野上げ市、秋は大市と言って収穫が終わった後にあり、町内外から多くの人が集まっていました。」