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愛媛の景観(平成8年度)

(2)明治が生きているまち①

 八幡浜市周辺から保内町、さらに佐田岬半島にかけては含銅硫化鉄鉱(がんどうりゅうかてっこう)(鉄と硫黄(いおう)の化合物に銅を含むもの)地帯である。出石(しゅっせき)・金山(かなやま)・今出(いまで)・大峯(おおみね)などに鉱床が分布し、四国の主要産地の一つとして明治時代から大正時代にかけて盛大に採掘された(④)。
 そのころ、保内町(旧名川之石(かわのいし)町。昭和30年〔1955年〕、町村合併により町名を変更。)においても鉱業は町の中心産業として活況を示し、町の発展に大いに貢献した。また、その経済力を背景に町内には洋館が建築され、現在もそのいくつかが残っている。

 ア 狭まる巴湾

 **さん(西宇和郡保内町川之石 大正15年生まれ 70歳)
 **さん(西宇和郡保内町宮内  昭和6年生まれ 65歳)
 保内町が面する湾が川之石湾である。別名「巴(ともえ)湾」とも呼ばれる湾であるが、殖産興業と交易によって蓄積された財力を背景に、江戸時代以来埋め立てによる市街地の拡大が行われてきた。狭い平坦部の拡張を埋め立てに求めたのである(⑤)。

 (ア)沖に延びる土地

 川之石湾の埋め立て地の一部には、鉱山からの廃素石(銅を取るのに利用価値のない石)が使われている。埋め立てが進む様子を見てきた**さんに話をうかがった。
 「今出鉱山からの鉱石は、荷馬車に積んで運び出していました。それが、昭和12年(1937年)に昭和鉱山株式会社(*6)が川之石湾岸の一雨(現在の保内町楠町)に進出し、そこに選鉱場を作ると、鉱石の運搬をより迅速にするために、昭和15年に索道(*7)を、通称「和田山」の中腹にあるコンクリート製の『じょうご』(写真4-1-6参照)まで建設しました。その索道は、『さるぎかい』と呼ばれておりました。4本の柱を1組としてやぐらが立てられ、その上部に滑車が取り付けられ、そこにワイヤーロープが通されて、やぐら同士をつないでいます。そのロープには、荷かごのような形をしたものがぶらさがっており、このかごに鉱石を入れて鉱山から運び出すわけです。運搬の途中で鉱石が落ちた時の危険を防止するために、ロープが人の歩く道を横切るような場所には、落ちてきた鉱石を受け止めるための金網が張られていました。
 さるぎかいによって運ばれ、コンクリート製のじょうごに集められた鉱石は、ここでさらに細かく砕かれ、水と混ぜあわされて泥状のものとなります。この泥状のものは、今度は『百尺(ひゃくしゃく)』と呼ばれるコンクリート製の貯蔵タンク(写真4-1-8参照)に流し込まれます。この百尺の中では、プロペラ状の羽根が鉱石の泥をかき回しています。そうしないと、泥はすぐに固まってしまうからです。ここからさらにパイプによって選鉱場に送られ、純度の高い銅鉱(銅に精錬する前の原料鉱石)とそうでないものとに分けられます。銅鉱は製品として、海岸近くに設けられた『じょうご』(写真4-1-9参照)に貯蔵されました。このじょうごの容量は、1基あたり約50tです。貯蔵された銅鉱は、随時トロッコに移し変えられて桟橋へ運ばれ、沖合の佐島製錬所へ船で積み出されていました。そして、製品として使えないかす(専門用語では尾鉱(びこう)という。)の方は海に流し込んで埋め立てに活用していました。
 昭和12、3年(1937、8年)に行われた埋め立ては、沖新田のさらに沖合の部分です。どのようにしていったかといいますと、まず、これから埋め立てをする範囲に石の堤を築いて囲います。この作業には、7、8tのバラス船(石や砂を積む船)が10隻ほど稼働していました。岸から船にあゆみ(*8)を架けて、その足元がゆらゆらする上を、人夫さんがてんびん(*9)を担いで渡り、鉱山の廃素石を積みこんでいました。バラス船1隻には3人ほどの人夫さんが乗り組んでいて、埋め立て予定地に船が着くと、積み上げている素石の上側の部分は手で1個1個海にほうり込んだり、てんびんで担いでは海に落としたりしていました。そして、だんだんと高さが低くなってくると、今度はスコップを使って海に投げ入れたり、あるいは、船全体を傾けて積んでいる石などを海に落とし込んでいました。こうして石の堤を築き終わると、次に鉱石を選鉱したかす(尾鉱)をパイプで流し込んで、陸地に近いところから埋め立てていきます。かすはすぐに固まる性質があるので、海中で拡散することはほとんどなく、埋め立ての材料に向いているんです。現在のヤマキ産業株式会社の敷地や旧川之石中学校の跡地は、すべてこのかすでできているんです。」

 (イ)埋め立て地での思い出

 鉱石のかすによって作られた埋め立て地とはどのようなものであったのだろうか。川之石湾の埋め立て事業の歴史に詳しい**さんに、埋め立て地にまつわる思い出を語ってもらった。
 「旧川之石中学校跡地は鉱石のかすでできた土地です。土の粒は砂よりもまだ細かく、その色合いは少し赤茶けていて、比較的硬いです。しかし、硬いといっても鍬(くわ)やスコップで掘ることはできました。例えば、中学校で陸上競技大会が開かれる時、幅跳や三段跳の競技などに砂場が必要になりますが、その場合は土地を掘り返せばすぐに作れました。また、水はけもかなりよかったので、少々の雨でも大会を実施することができました。こういう意味では、きわめて便利な土地でした。ただ、土地の表面の乾いた部分が風で舞い上がって、風向きによっては民家の方へ流れてきて洗濯物などに付くということもあることはありました。
 わたしが小学校1年生の時(昭和13年〔1938年〕)に遠足でやってきたのが、この埋め立て地でした。そのころはまだ埋め立ては未完成で、埋め立て部分の先端にはまだ海水が流れ込み、そこが池のようになっていました。その周りには葦(あし)などが生えて、とてもきれいな海中をボラやチヌ、スズキなどが泳いでいましたね。また、楠町には網元がおりまして、その網元の網干し場が楠町に近い側の海端に広がっていましたし、沖新田との境には松並木(写真4-1-10参照)があってなかなか風情(ふぜい)がありました。そういう景色の中で、昼御飯の握り飯を食べた思い出があります。こういう自然の風景が工場の建ち並ぶ景色へと変化しはじめたのが、昭和30年代 (1955~64年)でしたね。」


*6:昭和11年(1936年)から16年にかけて、川之石町内の主要鉱山を経営した。以後の経営権は、昭和16年に帝国鉱発株
  式会社、昭和24年に東方鉱業株式会社へと移る。
*7:架空した索条に搬器をつるして人または物を運搬する設備。架線ともいい、鉱業・林業の運材施設としても利用。
*8:歩板のこと。船から船へ、または船と岸との間に架け渡す橋板。
*9:天秤棒のこと。両端に荷をかけ中央を肩にあててになう棒。

写真4-1-6 じょうご(和田山中腹)

写真4-1-6 じょうご(和田山中腹)

平成8年7月撮影

写真4-1-8 百尺

写真4-1-8 百尺

現在は宅地として利用されている。平成8年7月撮影

写真4-1-9 銅鉱石を貯蔵したじょうご

写真4-1-9 銅鉱石を貯蔵したじょうご

銅鉱石取り出し口より内部をうかがう。平成8年7月撮影

写真4-1-10 百尺より下方を望む

写真4-1-10 百尺より下方を望む

右奥に松並木が、手前の住宅の間には銅鉱石貯蔵用じょうご(写真4-1-9)が見える。平成8年7月撮影