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愛媛の景観(平成8年度)

(1)急潮に浮かぶ城

 ア 能島の思い出

 能島城跡は、能島と鯛崎(たいざき)島にまたがり、南北朝時代(14世紀)から戦国時代(15世紀後半から16世紀後半)にかけて能島村上氏(*5)が居城とした典型的な海城の遺跡である。海城とは水軍の城塞のことで、城郭のほかに桟橋・造船所・船だまり(船の潮待ち、風よけのための停泊地)・水場(給水施設)などの独特の施設を加え持つ要塞のことである(伊予水軍の活躍については『瀬戸内の島々の生活文化(④)』参照)。
 『宮窪町誌(⑤)』に、「両島は、大島と伯方島(はかたじま)との海峡にあって鵜島(うしま)に隣接し、伯方島と鵜島の間にはさまれた船折瀬戸(ふなおりせと)は、燧灘(ひうちなだ)から斎灘(いつきなだ)へ向かって芸予(げいよ)諸島を東西に通過する際の最短距離にあたる海上交通上の要衝であるが、能島はそののど元を押さえるところに位置している。海上交通上の要衝は同時に、船折瀬戸の呼称にみられるように海の難所でもある。しかし、この難所も、地形を熟知し、潮流を掌握している者にとっては、わが家の庭同然である。能島の海賊衆たちが、航海に苦しむ敵船を、地形や海流を味方につけて翻弄(ほんろう)したことがたびたびあったに相違ない。このようなところにも、能島に海賊の本拠が定められた理由の一つがある。海城にとっては海面が土塁であり、潮流が堀である。戦いが行われるとすれば、海水や潮流を防御施設として活用できる海上面が戦場となる。」とあるが、瀬戸内海の潮の流れは実に複雑極まりない。潮流は上げ潮と下げ潮で流れる方向が全く逆となる。その速さも時々刻々変化する。早いだけでなく、複雑な海峡や海底の地形のため、反流(ワイ)など、潮が乱れる状態になる。「船に乗るより潮に乗れ」という土地の言い伝えは、この急潮の瀬戸で船に乗る肝心な点をずばりと言っている。
 『宮の窪地誌(⑥)』には、「能島は三方が神によって守られた島であるという。東は能島と鵜島の間に荒神瀬戸(こうじんせと)があり、西には能島と宮窪の間に宮窪瀬戸があり特に潮流の激しい神代門(じんだいもん)(神さまが守ってくださる門の意味、代官の代のように守る意味もある。)といわれるところがある。南にはコウノ瀬(*6)(神の瀬、業の瀬、河野瀬など、神さんが与えてくれた瀬の意味)がある。さらに、北側には、少し離れて船も折れると怖れられる急潮の船折瀬戸があり、守るに易く、攻めるに難しい要害の島である。」とある。

 (ア)瀬戸の渦

 **さん(越智郡宮窪町宮窪 大正11年生まれ 74歳)
 能島周辺の潮流に詳しい**さんにうかがう。
 「『大潮のいきたち(潮流の早いときを言う)には、荒神瀬戸に乗り入れるな。ここへ船を入れたら船が沈められるぞ。』と言われていました。その時には、荒神瀬戸に、直径5、6mのかなり大きな渦が巻くのです。昭和20年(1945年)ころまでの船は小さかったし、櫓(ろ)で押していたのでこう言われていたのでしょう。この渦に巻き込まれた時に、カヤを編んで作った立(たて)トマ(船の両側に立てていた垣)を船の下に投げ入れると船がすうーと渦から出ることが幾度かあったと父親に聞いていました(写真3-3-5参照)。
 宮窪瀬戸は、帆船時代は潮流を利用しない限り航行することのできない難所でした。宮窪で今治渡海船が始まったのが、明治14、5年(1881、82年)で、手押しの船で今治への日帰りは大変だったようです。潮の都合で、上へ回って友浦沖(大島の南側)を通ったり、下の早川沖(大島の北側)を通ったりしていましたが、潮の都合で片道3時間半から4時間余りもかかることもあったそうです。櫓は『三丁櫓(ちょうろ)』でしたから、櫓漕(ろこ)ぎもなかなか重労働であったのでしょう。明治31年(1898年)、東予丸が尾道、今治、川之江間を1日1往復航海することになりましたが、大潮の時の宮窪瀬戸は当時の蒸気船の速力では登り切れないことも、度々であったようです。大正のころ東予丸が宮窪瀬戸をよう登らんまま、戸代(とだい)を回って(上へ回って)今治へ行ったことを度々見たことがあったとわたしが子供のころ父親から聞いています。
 能島の南にはコウノ瀬という岩礁(がんしょう)が海面下にあり、それが潮筋(潮流の道筋)にあたるので通行する船には難所でした。干潮には、8、9ノットほどの早い潮が流れているので、その急潮に乗って宮窪瀬戸に向かって行くとき、この岩礁を避けよう、避けようと、かじを切っていると、潮の流れに流されて鯛崎島の端にぶち当てるのです。宮窪の浜地区(漁業者の多く住んでいる地区)の半鐘が鳴って、遭難した船の救助に行ったことが、わたしの記憶でも2、3回はありました。
 コウノ瀬での海難事故を目撃したのは、昭和28年(1953年)だったと思うのですが、満ち潮に宮窪瀬戸を抜けてきた石炭を積んだ機帆船が、コウノ瀬にどしゃげて(ぶっつけて)船底をやられてじりじり沈みながら、最後は、水しぶきをあげて一気に沈んでいったのを見ました。その時海岸にいましたが、ドドーッというダイナマイトでも爆発したのかと思われるごう音に驚いたものです。特に大潮の時などに満ち潮に乗って宮窪瀬戸を抜けようとしたら潮があまりに早いのでかじがとりにくく、コウノ瀬をかわすのは容易なことではありません。この海難事故からは、この瀬戸を通らず有津瀬戸(あろうづせと)(船折瀬戸)を通るようになりました。一時期コウノ瀬を取り除いてはどうかということで、海流調査や海底調査もしたが、補償金もかかるということで、中止になりました。コウノ瀬の岩礁と急潮は能島の守りとして、水軍にとって、まさに『神の瀬』でした。しかし、水軍が滅び、守りが必要でなくなった後は、ここを航行する船にとっては難所であり、『業の瀬』となったわけです。」

 (イ)弁天祭りの思い出

 同じく**さんに、弁天祭りについてうかがった。
 「鯛崎島と能島の24mの間には桟橋が架けられていたという伝承があります。鯛崎島の頂上、出丸跡(でまるあと)に弁天さんを祭った小さな社があり、そのお祭りが毎年、旧暦の6月24日にありました。このお祭りには、漁業に携わっている人は必ず弁天さんにお参りしていました。この日は、最も小潮(潮の干満の差が最小。潮の流れはゆるやかになる。)になるときです。干潮には船が着岸できないから、大概、満潮にお参りしていました。島の東側の磯に漁船が15隻くらいは潮の満ち具合を見計らって着岸できたので、次々とお参りしていました。磯の岩を伝って島の南の端のお地蔵さんに線香をあげ、社に参拝して帰りました。今は、このお地蔵さんのさらに南の端に地元の石組合の手によって新しい立派な石の地蔵が建立されています(写真3-3-6参照)。祭の日には、鯛崎島には小さい出店が2軒立ち、かき氷やスイカを売っていました。このお祭りも、社がなくなり、昭和30年(1955年)ころから自然と立ち消えになっていますが、漁業組合が主体となって社を再建しようとの話もあります。」

 (ウ)古城は、いまサクラの名所

 **さん(越智郡宮窪町宮窪 大正11年生まれ 74歳)
 **さん(越智郡宮窪町宮窪 大正10年生まれ 75歳)
 能島のサクラに詳しい、**さんと**さんに、水軍の古城がサクラの名所になった経緯についてうかがう。
 「能島へのサクラの植樹は、昭和5年(1930年)の秋、当時青年団長で商工会の副会長もしていた野田農夫さんが、叔父の矢野有志夫村長に『能島にサクラを植えて宮窪の観光に備えては』と話したのがきっかけのようです。そのときは、能島までだれがサクラを見に行くのかと一しゅうされましたが、翌年3月に村長からサクラの苗木が届いたから植えよという話があり、野田農夫さんは、さっそく、藤木正平商工会長に相談して人を雇って商工会の数人とで植え込んだようです。それから、毎年、春には、役場から肥料が支給され、数人の人夫と会員の手伝いで水やりや補植、除草などの手入れが行われましたが、昭和12年(1937年)に日中戦争が始まり、ほとんど忘れられた存在になっていました。戦後になって、昭和22年(1947年)に能島のサクラの育成が再び始められました。翌年商工会で能島で花見を始めようという話がまとまり、商工会の費用で今治への渡海船住吉丸を借り切り村民を無料で渡しました。みんなは、『わしらは、宮窪に生まれて、この歳まで能島に来たことはなかった。こんな広いところに、こんな見事なサクラがあるとは知らなかった。宮窪の誇りだ。』と喜んでくれました。
 それから、能島の花見を毎年4月10日前後の土、日曜日に実施することにしました。商工会も町民も協力してくれました。能島への花見の交通手段は、浜地区の人は漁船をしたて、また、町でも道下(みちか)渡し(伯方島の道下と大島のカレイ間の渡し船)を雇って交通手段を確保しました。昭和38年(1963年)に大島フェリーが尾浦(おうら)渡し(伯方島の尾浦と大島の宮窪港)を始めてからは花見の日だけは能島への花見客の輸送を頼んでいます。
 能島のサクラの花見の最盛期は、昭和35年(1960年)から40年ころだったと思います。今治市や伯方島など町外からの花見客も多く、来島者は多い時には、2日間で3千人をこえる盛況でした。売店などがつくられ、そこでジュースなども売られていました。この最盛期のころ、商工会員提供の発電機を2台据えつけ、夜の10時ころまでライトを点灯して、夜桜見物もにぎやかにやったものです。
 雪洞(ぼんぼり)に映し出された夜桜が、周辺の海に映えて幻想的な雰囲気を醸し出しており、普段は、潮騒の音が響くばかりの古城も、この時ばかりは大にぎわいでした。水軍ありし日の戦勝の祝宴もこのようであったかと思ったものでした。潮の香のむせる春風に、酒杯を傾けながら水軍のロマンにしばし浸った人も多かったと思います。水軍の古城は、サクラの名所として大変有名になり、春の能島のサクラを撮影した写真が広く紹介されました。
 最盛期のころは、100本ばかりあったソメイヨシノが、現在は半分に減りました。それは、サクラの木の寿命はほぼ60年から70年と言われるように、老木化しているのに加え、台風被害や異常渇水、病害などで枯死がすすんでいるからです。また、野ウサギが繁殖して穴ぐらをつくり、サクラの木の根に被害を与えるので、町の猟友会の人々が、その捕獲に活躍した話もあります。初代のサクラの老木化に備えて、昭和43年(1968年)に明治100年記念事業の一つとして、サクラの幼木100本を補植しましたが、地中に雑木の白根が張っていたり、台風被害や干害で結局根付かなかったのです。あれが育っていれば、いま、サクラの花は見ごろになっていたのですが、残念です。
 今年(平成8年)も水軍太鼓(*7)のオープニングで恒例の能島の花見がはじまりました。
 宮窪町立宮窪小学校では、環境教育の一環として給食材料の野菜くずで、EM(有用微生物群)菌を使ったボカシ堆肥づくりに取り組み、これを肥料として花壇に使い大変効果を上げました。それで、平成8年8月、5、6年生の児童で構成する『みどりの少年団』の19人が、宮窪町教育委員会や観光協会関係者らと一緒に、学校でつくったボカシを持って島に渡り、能島のサクラにも肥料を与えて元気を取り戻させようという、サクラ復活作戦を試みました。」

 (エ)能島の磯に魅せられて

 **さん(越智郡宮窪町宮窪 昭和7年生まれ 64歳)
 素潜りを得意とする**さんに、能島の磯での魚とりと、古城の遺物に夢を追った少年のころからの思い出を語ってもらう。

   a 能島の磯に潜る

 「わたしのところは兄弟がみな磯が好きで、小学校3年くらいから、よく兄たちに連れられて能島の磯に行きました。子供のころは、『用事がないのだったら、セトガイでもとってこい。』と親に言われて、それをとるのが日課でした。小学校6年生(昭和19年〔1944年〕)ころ、友達と能島に行く船を見つけて、『櫓を押すから乗せて。』と頼んで渡ったものでした。帰りは、度々、潮のとろみ(上げ潮の満ちて停止している状態)の時に、鯛崎島からヤスを腰にくくりつけて、泳いで帰ったこともありました。泳ぎ着くのは、ちょうど、『水場』と呼ばれる所で、そこにはかつて水軍が水をくんだという古井戸がありました。そこで、潮抜き(真水で体を洗う)をして帰ったものです。当時の能島の磯は、サザエもセトガイも豊富なものでした。魚がとれず荷(収穫)が少ない時には、今日はセトガイで荷をつくろうと言うくらい多かったものです。セトガイは動かないし、潜りさえすればとれていました。今は、1個とろうと思ってもなかなか見つかりません。
 環境の変化と言うのでしょうか、セトガイがいなくなって、かわりにアワビが多くなりました。魚もアコウなどは幻の魚になり、グレが多くなりました。わたしは、素潜りで魚を突くのを得意としているのですが、今は、『これは、ヤスで突いてとれるだろうか。』と、一瞬どきっとするような、大きなスズキなどはいなくなりました。まあ、大きくても3、4kg程度のものでしょうか。昭和55、6年(1980、81年)ですが、10kg近いスズキの大物を仕留めたこともありました。4、5匹突いて帰っていたら、船の上から漁師さんが、両手を肩幅ぐらいに広げて、『こんなんか。』(スズキの大きさはこのくらいか)と、言うので、両手をいっぱいに広げて、『こんなんだ。』と言うと、驚いた様子をしていました。
 今でも、一年のうち磯に行かないのは、冬の間の2、3か月でしょうか。わたしの体は、海の潮にいつも漬(つ)かっているのが健康法のようです。また、素足で磯を歩くのが、なんともそう快です。そのかわり、ウニ、カナコギ(ハオコゼ)、オコゼにやられ、手や足が傷だらけになり、生傷が絶えません。」

   b 能島の磯でみる夢

 「子供のころから能島の磯に行くうちに、能島に関する昔のものに興味をもつようになりました。魚をとりに潜っても、変わった物を見付けると『これはなんだろう、何に使っていたものだろうか、これは面白いものがあった。』などと、ヤスをそこにほっておいて見ることも再々でした。台風のあとには、古いものが何か出ていないかと思って、船でよく探しに行きました。
 今、桟橋をつけた所から南寄りには海の中にも磯にも、無数に柱の穴があります。干潮には姿をみせる直径1mもの柱の穴がこの磯にあります。それから、約10mほど沖の海底にも直径40cmほどの柱穴が二つあります。今もときどき古銭の出る北側の海底にも柱穴が無数にあるのです。1mおきぐらいの間隔で整然とあります。島の周囲の岩礁には柱穴が460個もあり、それらは桟橋や海城としての防御施設を築いた際の遺構とされているようです(写真3-3-8参照)。
 魚もとる、古い遺物にも興味がある。両道だからまことに忙しい。しかし、これが、生きがいで能島の磯という磯はすべて潜りました。今までに、いずれも大陸渡来のものといわれる青磁や素焼きのかけら、鏡や古銭を発見しましたが、それらが出た所はすべて異なっていました。これらの遺物は、能島が軍事的要塞であるだけでなく、日常的な生活の場でもあったことを示唆していると思われます。
 昭和45年(1970年)のころ、わたしは左官をしていました。仕事も昼ころまでに片付き、ちょうど、磯潮(いそじお)(潮がよく引いて磯遊びに好都合の潮)だったので能島に渡り、北側の海岸で、海辺の砂をかきのけていました。すると、模様から中国製とおぼしき鏡と明朝の洪武通宝(こうぶつうほう)(*8)と読める中国古銭を5、6枚拾いました。能島には女は住んでいなかったと聞いていたので、『鏡は女が持つものだろう、これはたいしたものだ。』と思いました。後になって松山市の市駅前の骨とう屋がどこで聞き付けたのか『それを売ってくれ。』と言ってきましたが、『宮窪に資料館ができたらそこに納める。』と言って断りました。昭和50年(1975年)に水軍資料館(*9)が完成し、今はそこに展示されています。
 後で、『村上景親(かげちか)(村上武吉(たけよし)の次子)が朝鮮から伴って帰ったという女性、それも、景親自身が描いたという彼女のあでやかな肖像(⑧)』を見て、鏡のかつての持ち主を想像してみたりもしました。
 昭和10年(1935年)ころより終戦時まで歌った宮窪小学校歌に、『昔能島の城の跡、村上氏の残したる、武勇の面影しのばずや、武勇の面影しのばずや。渦巻く潮(うしお)のこうの瀬に、艫綱(ともづな)(船尾の船をつなぎとめる綱)解ける八幡船(ばはんせん)、八重の潮路(はるかな潮路)を乗り越えて、外国(とつくに)の宝もたらしぬ。』とあります。よく歌ったものですが、少年のころから今も、能島の磯は水軍の活躍した遠くはるかな時代へと夢をかき立ててくれます。」

 イ 水軍への思い-押し船競争に託す夢-

 **さん(越智郡宮窪町宮窪 昭和22年生まれ 49歳)
 『宮窪町誌(⑤)』によると、平安中期、海賊が海路の要衝を押さえ通行料を取り立てていたころより、関船または早船(この中で小型のものを特に小早(こばや)という)と呼ばれる船があった。これらは、その駿足を利して水軍船隊のいわば、巡洋艦、駆逐艦の役割を果たしてきたと考えられる。また、『宮窪むかしむかし(⑨)』には、村上水軍の兵船は、早船で、自由のききやすい小船を用いることに、妙を得ていたと伝えられているとある。

 (ア)町おこしを目指して

 水軍ふるさと会の会員である**さんに、押し船競争復活への取り組みについて話してもらう。
 「押し船競争復活の原動力となった『水軍ふるさと会』は、昭和60年(1985年)に、職業も多様な30歳代を中心とした10人ほどのメンバーで、町おこしを目的にスタートしました。
 最初は、試行錯誤で一村一品運動にならい、愛媛県民文化祭に宮窪町の特産品を出品していました。しかし、伝統行事も地域の資産だととらえ、平成2年に愛媛県で開催された第5回国民文化祭への取り組みを機会に、宮窪町に伝わる水軍の和船文化としての、押し船競争を復活発展させることにより町おこしを試みることにしました。
 わたしたちは、一時廃(すた)れていた押し船競争の聞き取りを行いました。押し船競争の選手だったという65歳から90歳までの古老8人に集まってもらって話を聞きました。前期(*10)の体験者の一人は、「前期は五丁櫓でやっていた。瀬戸の急潮を制するのは五丁櫓でないと無理であった。五丁の櫓は少しずつ大きさが違う。とも櫓が一番大きく、はぐちが一番小さい。取付け角度も場所によって少しずつ違う。』などと、五丁櫓の図面を書いて説明をしてくれました。
 押し船競争は、前期には弁天祭りの日(旧暦6月24日)に行われ、信仰的なものが強かったように思われます。浜地区が南と北に分かれて競争し、競争の結果北地区が勝てば豊作、南地区が勝てば豊漁ということを占ったようです。選手たちには、各地区からの炊き出しや差し入れもあり、練習に専念したと聞いています。
 後期は、5月の節句に、押し船競争と相撲もやって楽しんでいたようです。押し船競争は、チョンコ船で三丁櫓でやっていたときや、一般の漁船を借り受けて実施したときもあったようです。」

 (イ)古老の語る押し船競争の思い出

 **さんに押し船競争の思い出をうかがう。
 「昭和14、5年(1939、40年)のことですが、5月の節句の日に、浜地区の若者が北と南に分かれて押し船競争が行われていました。若者たちが櫓漕ぎでその早さを競うのです。船や櫓は、一般家庭のものを借り受けて行いました。青年たちは押し船競争の日が近づくと、『船はどこそこの船が早そうだ、櫓はあそこのものがしなやかでよさそうだ。』と評判の良い家のものに目ぼしをつけておいて、『押し船競争用に船や櫓を貸してもらえんだろうか。』と頼んで回るのです。若者たちに頼まれると、だれでも『ほんなら(そういうことなら)、使わんかい。』と気前よく貸してくれていました。櫓は、魚の尾びれのようにしなやかでねばりがあるのがスピードが出るのです。競争の後では、若者が力まかせに櫓を漕ぐと、櫓のワがたれてしまう(櫓にねばり、しなやかさがなくなる)と愚痴(ぐち)が出たりしていました。競争は、浜地区の沖の、ブイをつけた区間で行われ、海岸の砂浜では、むしろを敷いて大人は腕組みをしたり、子供はわいわい言いながら見物していました。東洋丸や福勢丸(今治、尾道間の客船)が寄港して、桟橋もないころで、艀(はしけ)(陸と停泊中の本船との間を、乗客や貨物を乗せて運ぶ小船)に客を乗せていると、『客船と並べて競争してみい。』と大人たちはけしかけたりもしました。若者たちは客船の走りだすのを待って力漕しましたが、客船に行き脚(スピード)がつくと競争もそれまででした。いかにも、のどかな漁村の一こまでした。」

 (ウ)早船の復元

 **さんに早船の復元について語ってもらう。
 「明治のころ、網による漁獲がはやったが、釣った魚に比べて網でとった魚は弱っているので、生きの良いうちに早く市場に運ぶため船脚の早い船が必要になりました。そこで宮窪に伝わる早船を改良した生船(なまぶね)(生魚を積んで運ぶ荷船)を造って使用したようです。これが通称チョンコ船(船の安定が悪く、船がコロコロするのでこう呼ばれた。)で、この船で競争したようです。この船の図面が残されており、これを元に第5回国民文化祭に向けて早船の復元を試みることになり、伯方島で木造和船一筋の船大工渡辺忠一さんに建造を依頼しました。元東京大学教授で、日本海事史学会副会長の小佐田哲男さんの指導を得て、『小早』と呼ばれる早船の復元に成功したのです。
 平成2年8月4日、その船の進水式が行われ、船名を『能島』と命名しました。浜地区の青年たちが赤ふんどしを締め、櫓を漕ぎ伯方島から宮窪に回漕しました。宮窪の浜地区の海岸には、有線放送の知らせを聞いて、400年ぶりに帰って来た水軍船を一目見ようと、たくさんの人々が集まりました。もちまきなども行われ、大変盛り上がりました。
 続いて、「武吉」「景親」と第2船、第3船も作られました。
 今は亡くなりましたが、前期の体験者のおじいさんは、この船を見て『おお、この船じゃ、この船なんじゃ。こりゃええ船じゃ。』と船をなで回して、大変感激してくれました。」

 (エ)押し船競争の復活

 押し船競争の復活に取り組んできた**さんに話してもらう。
 「第5回国民文化祭が愛媛県で開催されていたさなかの平成2年10月21日には、宮窪瀬戸で、海のフェスティバル、水軍レース、水軍パレードが実施されました。漁業関係者と協力して長らく廃(すた)れていた押し船競争を復活させるとともに、水軍旗を立てた63隻の漁船で、村上水軍の軍船編成による戦法披露(*11)を行いましたが、大変な好評でした。
 復元船は水軍が最も活用した『小早』と呼ばれる早船で、国民文化祭には水軍レースに登場して、見事にその真価を発揮しました。村上水軍の強さは早い船にあったのです。また、『櫓』は当時の大発明で、櫓を操る早船は瀬戸内海の急潮を制するものだったと言われます。
 翌年(平成3年)には、国民文化祭で復活した水軍レースを受け継ぎ、第1回能島水軍レースを宮窪町単独で、水軍ふるさと会が企画運営してスタートすることができました。平成5年には、村上水軍の共通の歴史遺産をもつ3町(宮窪町、吉海(よしうみ)町、伯方(はかた)町)の共催に発展し、今年(平成8年)は、65チーム、785名が参加して伯方町枝越(えだごえ)港の会場で行われました(写真3-3-10参照)。昨年から、来島水軍が移封(いほう)(国替え)された大分県玖珠(くす)町のチームが加わり、今年は、因島(いんのしま)市も初参加しました。かつて瀬戸内海に君臨した能島、来島(くるしま)、因島(いんとう)の三島村上(さんとうむらかみ)水軍の末裔(まつえい)(子孫)が、くしくも400年の時を経て集うことになり、県境を越えた連携も実現しました。このほかに高松市、宇和島市の遊子(ゆす)からの参加など島外からの出場チームも一段と多くなりました。若さで挑戦する平均年齢14歳の地元中学生チーム、昔鍛えた老練の技が光る平均年齢63歳の遊子漁協友の会チームのほか、コスチュームも鮮やかな女子チームも会場に花を添えてくれました。アトラクションの水軍太鼓も大会の勇ましい雰囲気を盛り上げ、まさに、老若男女が水しぶきをあげて、水軍の根拠地で戦国絵巻さながらの熱戦を繰り広げた1日でした。」


*5:伊予水軍は、鎌倉時代から、南北朝、室町時代にかけて、瀬戸内海の制海権を握り国内外に活躍した。伊予水軍は村上氏
  を中心に、忽那氏、今岡氏、得居氏などが総称される。水軍は海賊衆、警固衆と呼ばれ瀬戸内海の要地を航行する船舶から
  関銭の徴収や警固料を取得した。伊予水軍の代表は三島村上氏(村上三家)である。村上三家は、15世紀のはじめ村上師
  清の後を継いだ、義顕が3子の長男雅房を能島に次男義豊を因島(因島市)に三男吉房を来島(今治市)にと、各城に配分
  分立させたのがおこりである。村上三家のうち最も実力を備えていたのは能島村上氏である。三家の中でも海賊大将の勇と
  いわれた能島村上武吉があげられる。弘治元年(1555年)の厳島合戦、天正4年(1576年)の石山本願寺合戦には毛利元
  就を支援し勝利をもたらした。豊臣秀吉の天正16年の海賊禁止令(1588年)によりとどめをさされた(④)。
*6:鯛崎島の真南約600mにある岩礁(水面下にかくれている岩)。この岩礁は東西91m、南北73m、水深満潮時3.3m、干
  潮時80cmである。
*7:能島水軍太鼓の保存とふるさと活性化を目指して昭和62年(1987年)能島水軍太鼓チームが結成され、続いて能島水軍
  太鼓保存会も結成された。昭和63年には愛媛県代表として「第3回国民文化祭ひょうご88」(神戸市)に出演した。その
  後も数々の行事に出演している。
*8:明の太祖が洪武年間(1369~98年)に発行した銅銭でわが国でも民間に通用した。
*9:能島城主、村上武吉の次子、影親の末孫15代、村上保一郎家(山口県大島郡東和町)に伝承された武具、甲胄類を始め
  とする500点余にのぼる資料が展示されている。
*10:宮窪町に伝わる押し船競争は、大きくわけて前後2期に分けられる。前期は、始まりは確かでないが、昭和2、3年
  (1927、28年)ころまで。また、後期は太平洋戦争前の3、4年間と昭和24~28年(1949~53年)ころまでにわけられ
  る(⑧)。
*11:日露戦争における日本海海戦(明治38年〔1905年〕)では、松山市出身の秋山真之は、東郷平八郎の参謀として、旗
  艦三笠の艦上に立って、能島流兵法を中軸とする伊予海賊古流の戦法を存分に活用して大勝を博したといわれる(⑧)。

写真3-3-5 能島と鯛崎島間の急潮

写真3-3-5 能島と鯛崎島間の急潮

能島南端より鯛崎島を望む。平成8年5月撮影

写真3-3-6 鯛崎島南部の石地蔵

写真3-3-6 鯛崎島南部の石地蔵

平成8年9月撮影

写真3-3-8 波に洗われている柱穴

写真3-3-8 波に洗われている柱穴

能島の北側の磯。平成8年9月撮影

写真3-3-10 枝越港での水軍レース

写真3-3-10 枝越港での水軍レース

平成8年7月撮影