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愛媛の景観(平成8年度)

(2)庵を訪ねて②

 イ 庚申庵(こうしんあん)

 (ア)風早一茶の道

 **さん(北条市辻 大正15年生まれ 70歳)
 俳人小林一茶(1763~1827年)が伊予を訪れたのは寛政7年(1795年)のことである。風早(北条市)の地を踏んだのは同年1月13日(旧暦)、松山入りは同月15日であった。その足跡は図表3-2-13のとおりである(一茶は翌8年の秋から9年春にかけて再度来遊している。)。
 北条市には、一茶の歩いたと考えられる道を取り込んで「健康づくり一茶の道」という健康増進のために歩くコースが設けられている。
 北条市立ふるさと館の館長で、風早の歴史、文化に詳しい**さんに話をうかがった。
 「昭和39年(1964年)、地元の有志によって一茶の句碑が建てられました(図表3-2-13中の写真参照)。そのきっかけは愛媛大学の和田茂樹先生が門田家(門田兎文邸)に残る一茶関係の資料を調査されたことです。これが契機となって、有名な小林一茶がこの風早の地(北条市)を訪れたのだから、その歩いた道を市民も歩き、四季折々の景色を眺め、一茶の句も鑑賞し、また俳句を詠んでみるのもいいのではないかということになって『一茶の道』が設けられました。同時に歩くことは健康増進にもつながるという話になり、『健康づくり一茶の道』が生まれたのです。
 この一茶の道に含まれている鎌大師(北条市下難波(しもなんば))の境内には芭蕉塚(*15)(藤花塚)があります。この塚は寛政5年(1793年)に建てられたものです。その2年後に一茶がこの地を訪れているのですからおそらく立ち寄ったであろうと想像しています。」
 芭蕉塚建立からも推測できるが、古来、風早地方は俳諧の盛んな土地柄である。この土地に平成7年「風早一茶の会(*16)」が誕生した。
 「わたしたちの『風早一茶の会』が生まれるもとになったのは『小林一茶供養会』です。最明寺の壇家が中心になって結成された会です。最明寺は一茶が訪ねて来た寺なのだから一茶の顕彰をしなくてはならない。そこでまず、一茶の命日すなわち11月19日(一茶忌)に供養をし、その折、一茶の句の朗詠、一茶に関する勉強(例えば講演会など)、俳句愛好者からの献句や地元の北条市立難波(なんば)小学校の児童の俳句の披露(自分たちの校区に一茶が来たのだということを心に刻んでもらうため)などの記念行事も行おうではないかということになり、平成3年11月19日第1回の『小林一茶供養会』が行われました。平成6年の第4回の供養会では最明寺境内に建てた一茶の像(写真3-2-31参照)の除幕式も併せて行っています。
 平成7年、いよいよ機が熟してきたと思いましたので、会則を準備し、和田茂樹先生に記念講演を依頼し、講演の後、「風早一茶の会」の発会式を行いました。しかし、会ができてから活動するのではなく、実践の中で気運を盛り上げて発会にもっていこうと考えていましたので、前年に県内の句碑巡りを実施しております。平成7年には栗田樗堂(ちょどう)の終焉(しゅうえん)の地、安芸(あき)の国(現在の広島県)の大崎下島(しもじま)に船を借り切って行きました。この島には樗堂の墓もあります。樗堂の作品(掛軸)を個人でたくさん持っておられる方もあり、見せてもらいました。帰りには船内で句会も開きました。平成8年は、4月8日、香川県の句碑巡りに出かけました。金刀比羅宮(ことひらぐう)にも詣(もう)で、一茶の「おんひらひら蝶も金毘羅参哉」の句碑を見たり、観音寺市へ行き、一茶の訪れた専念寺に立ち寄り、「元日やさらに旅宿とおもほへず」という一茶の句碑にも出会い、帰りには東予市の実報寺の桜を鑑賞し、一茶をしのびました(小林一茶の寛政7年紀行の中に『実報寺の桜見にまかる』と記されている。)。」

 (イ)庚申庵(こうしんあん)への道

   a 樗堂ゆかりの地

 風早の地を後にした小林一茶は粟井坂(北条市と松山市との境)を越えて松山の城下へ向かった。**さんに案内されて訪れたその旧粟井坂からは一茶も眺めたであろう瀬戸内の海が見渡される(写真3-2-32参照)。そこには北条市の文化向上に尽力した林関四郎さんの建てた「こ乃道を 小林一茶も 学信(がくしん)(*17)も 中江藤樹も 蔵沢(ぞうたく)(*18)も おへんろさんも 其他みんなの人が通った道ぞなもし」と刻まれた碑があり(写真3-2-33参照)、昔をしのばせてくれる。
 松山にやって来た一茶は栗田樗堂の二畳庵を訪ねた。彼の松山滞在は20日間ほどであったが、その間、「前後の事情よりすれば、寄るべのない旅の身の彼は恐らく樗堂の二畳庵に起臥(きが)したことと考えられる。(⑱)」二畳庵については、阿沼美神社(あぬみじんじゃ)(松山市味酒(みさけ)町)に「浮雲やまた降雪の少しつつ」という樗堂の句碑(写真3-2-34参照)があるが、「この碑のあるあたりが、その二畳庵の跡といわれている。」と『俳句の里 松山(⑲)』に記されている。
 栗田樗堂(1749~1814年)は、近世伊予第一の俳人といわれ、全国にも名が通っていた。家業は酒造業、町方大年寄役(町の運営に携わる最上位の町役人)も務めた。墓は終焉の地(広島県豊田郡豊(ゆたか)町〔大崎下島〕)と松山市萱(かや)町の得法(とくほう)寺にある。この樗堂の出た廉屋(かどや)栗田家(松山市松前(まさき)町)は松山きっての造り酒屋で、昭和10年(1935年)ころまで酒造りをしていたという。銘柄は「全世界長」、「白玉」、「呉竹」、他の酒よりも値がよかったという話である。
 栗田家の広大な屋敷は今はなく、辺りの様子も一変している(写真3-2-36参照)。わずかに屋敷跡の一角にある栗田邸とその邸内の「一日も捨てる日もなし梅の花」という樗堂の句碑のみが昔をしのぶよすがとなっている。

   b 戦災を免れた

 **さん(松山市味酒町 大正10年生まれ 75歳)
 寛政12年(1800年)、栗田樗堂は味酒の地(松山市味酒町2丁目)に「庚申庵」という庵(いおり)を結び、風雅な生活を楽しんだ。「庚申庵」と名付けたことについて、彼は『庚申庵記』の中で次のように書いている。「我が住む坤(ひつじさる)のかた、市塵(しじん)わづかに隔りて、平蕪(へいぶ)の地あり。味酒の郷と言ふ。寛政庚申(かのえさる)の年、いささか其地を求めて、かたばかりなる六畳の草屋をつくり、陸盧(りくろ)(中国の茶の先人。陸羽、盧同)が好事の茶を煮るために小庇(こびさし)(小さいひさしの間(ま))を付けたり。このほとり、もと青面金剛(庚申会(え)の本尊)の安置ありしとて、村老今も古庚申と呼びぬ。支幹(干支(えと))幸ひに応じければ、やがて庚申庵とぞ言ひ習ひける。(㉑)」つまり土地の古老が「古庚申」と呼んでいた地(近くに青面金剛をまつる祠(ほこら)があったらしい。)に庚申の年に建てたので「庚申庵」と名付けたというのである。
 昭和20年(1945年)7月20日の空襲で、松山の市街地は焼け野原と化したのであるが、この「庚申庵」一帯は焼失を免れた。今でも庵の近くには戦前の建物が残っている。戦前からこの地域に住んでいる古老の話によると、焼夷弾(しょういだん)は落ちてきたが、警防団が中心になって消し止めたのだという。「庚申庵」の池の水も消火に役立ったらしい。ともあれ、「庚申庵」は戦災を免れ、一部改修はあるものの、今日までほぼ原形をとどめ、樗堂時代の面影を残している。特に庭のフジは有名で、花の咲くころには多くの人が訪れる。
 **さんは、先代の遺志を継いで「庚申庵」の管理、保存に努めてきた。
 「わたしの父がこの屋敷を買いとったのですが、わたしの子供のころにはまだここが『庚申庵』だということは分かっていませんでした。父は別荘のようなものにするつもりだったようです。当時はまだ周囲は田んぼで何もなかったといいます。ここが栗田樗堂の『庚申庵』だと分かったのはずっと後のことで直筆の『庚申庵記』が見つかってからです。父と親交のあった影浦稚桃(ちとう)(郷土史研究家)さんらにこの家は『庚申庵記』に書かれている庵だから大切に保存した方がよいと言われ、そして、昭和24年(1949年)には、県指定の史跡となったのです。
 父が経営していた大丸百貨店(*19)の閉店後ここに移り住むようになりました。昭和6、7年(1931、32年)だったと思います。当時はこの庵に続いて木造3階建ての家もありましたが、わたしは実際に庵で寝起きをしていましたし、結婚後も生活していました。現在は庵の西側の住居に住んでいますが、『庚申庵』の方は傷みがひどく、解体修理をしなければならない状態になっています。」
 **さんは「庚申庵」の東側に土蔵風の「庚申庵コレクション」を建てた。
 「この建物は資料館です。玄関から部屋(展示室兼応接室)までの通路を川に見立てた造りにし、部屋は平野、そこに大きな石を置いて山に見たてました。その石に樗堂の『草の戸のふるき友也梅の花』という句を刻みました。樗堂は『塚じるし無益終には犬糞の掃き寄せ場となる』(庚申庵に掛けられていたという一幅の一節)と言っていますが、ここならば犬のふんの掃き寄せ場とはならないでしょう。『庚申庵記』もここに展示しております(写真3-2-37参照)。実は、建てたもののほとんど訪問者がなく、普段は閉めておりますが、要望があればいつでもお見せします。特に遠くから『庚申庵』を見学に来られた方などには見ていただいています。
 有名な俳人樗堂さんの庵だということで、わざわざ遠くから訪ねて来られるのに、案外地元では知られていない。俳句を愛好する人でも知らない方がいるようです。」と語っている**さんは、『庚申庵』の保存はもちろん、このように資料館まで建てて樗堂の顕彰にも努めている。


*15:松尾芭蕉100回忌に建てられた。「藤花塚」というのは芭蕉の句「草臥れて宿かるころや藤の花」に由来しているので
  あろう。
*16:「風早一茶の会」は俳人小林一茶の風早来遊を記念して、一茶が俳諧に残した多大な業蹟を顕彰するとともに、郷土文
  化の向上に寄与することを目的としている。
*17:江戸時代の名僧、越智郡立花村鳥生(現今治市)生まれ。
*18:吉田蔵沢、江戸時代の南画家、松山藩士。
*19:松山市本町にあったデパート。エレベーターもあり、松山名物の一つに数えられていたという。

図表3-2-13 北条と松山における一茶の足跡

図表3-2-13 北条と松山における一茶の足跡

「小林一茶寛政7年紀行(⑰)」を基に作成。

写真3-2-31 小林一茶の像

写真3-2-31 小林一茶の像

平成8年8月撮影

写真3-2-32 旧粟井坂から眺めた瀬戸内の海

写真3-2-32 旧粟井坂から眺めた瀬戸内の海

平成8年8月撮影

写真3-2-33 旧粟井坂の道の碑

写真3-2-33 旧粟井坂の道の碑

平成8年8月撮影

写真3-2-34 阿沼美神社境内の樗堂の句碑

写真3-2-34 阿沼美神社境内の樗堂の句碑

平成8年5月撮影

写真3-2-36 松山市松前町3丁目の通り

写真3-2-36 松山市松前町3丁目の通り

平成8年7月撮影

写真3-2-37 樗堂の「庚申庵記」

写真3-2-37 樗堂の「庚申庵記」

平成8年9月撮影