データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛の景観(平成8年度)

(1)篤山の旧邸を訪ねて

 ア 書斎は今も

 **さん(周桑郡小松町新屋敷 明治41年生まれ 88歳)
 近藤篤山(とくざん)(1766~1846年)は尾藤二州(びとうじしゅう)(伊予川之江生まれの儒学者。寛政の三博士の一人。)に学んだ儒学者で、享和2年(1802年)小松藩主に迎えられ、藩校養正(ようせい)館で子弟の教育に当たるとともに私塾を開いて多くの英才を育てた。
 篤山の旧邸は昭和24年(1949年)県の史跡に指定され、彼の書斎も往時のままに残されている。篤山旧邸の通りは左右に土塀(篤山旧邸と本善寺の土塀)が続き、藩政時代のおもかげが残っている(図表3-2-8、写真3-2-16、3-2-17参照)。
 「昔は邸内の左側に藩内有志のための『挹蒼亭(ゆうそうてい)』と他藩の人たちのための『緑竹舎(りょくちくしゃ)』という私塾がありました。篤山の名声は他藩にも知れ渡っていました。昔、捕縛された盗賊が『小松藩には近藤篤山という徳の高い方がおられるので、小松領内だけには足を入れないようにしようと仲間内で申し合わせていた。』と語ったという逸話が残っていることからもうかがわれます。この私塾の建物は大正の末まで残っていました。
 わたしは、教職を退いてから庭の手入れと建物の管理をしながら毎日を送ってきました。もう30年になります。庭は『五友園(ごゆうえん)』と言い、篤山の短歌『園の竹 蓮蘭菊(はすらんきく)に梅の花 五つの友の主は崧(やままつ)』がその名の由来です。『崧』は篤山の本名『春崧(はるたか)』の『崧』です。庭には藩主が時折来られて眺められたという鶴亀の石(写真3-2-18参照)があります。また歌の中の五つの植物には入っていないが、『篤山椿(つばき)』も篤山が住んでいたころからあった椿だと思います。植物学者の八木繁一先生が『篤山椿』と命名されました。庭は広く、わたしも年を取り、手入れが難しくなってきました。建物も昔のままで篤山の生活がしのばれます。平成元年、邸内に新居を建てましたが、それまでは古い家(篤山旧邸)の方に住んでいました。篤山の居宅に住めるのはありがたいことでしたが、生活するのには不便でした。その上、維持管理も困難になり、建て替えも考えたのですが史跡ですからそうもいかず、やむを得ず建物(門、塀を含む)だけを町へ寄付して後世に残してもらうことにしました。子供のころその古い家の中で両親の前では必ず正座をし、食事のときにももちろん正座、箱膳(ぜん)(ふたを膳に使用し、箱の中に各自の食器を入れる箱型の膳)の前でだまって食べていたことなど多少窮屈に感じていた生活も今では懐かしい思い出になっています。」

 イ 小松の教育

 (ア)篤山と学校教育

 **さん(周桑郡小松町新屋敷 大正10年生まれ 75歳)
 **さんは『小松町誌』の教育編第一章小松藩政時代の教育と第二章学校教育の執筆を担当した。
 「近藤篤山の墓誌を揮亳(きごう)(書画をかくこと)したのは、篤山の教えを受けた一柳亀峰(ひとつやなぎきほう)という人です。その息子一柳蝦介(かすけ)は『養正学舎(*8)』という学校を設立しています。また亀峰の孫の一柳春二(はるじ)(1866~1945年)は近藤春静(しゅんせい)(篤山の孫)とともに『小松私学校養正館(*9)』を設立しています。この『小松私学校養正館』の教育内容はたいへん高度であったようです。こうして養正館精神(篤山の教育精神)は明治の世にも受け継がれました。春二は小松最後の儒学者であるといわれている人です。
 春二は後に池原利三郎(*10)(1828~1918年)と力を合わせ小松町立実用女学校(明治40年〔1907年〕創立。県立小松高等学校家政科の前身。)の設立に尽力、初代校長に就任しています。また私立子安中学校(昭和16年〔1941年〕創立。県立小松高等学校普通科の前身。創立者は香園寺住職山岡瑞園(ずいえん)。)の設立に際しても力を尽くしました。」
 小松実用女学校では昭和12年(1937年)篤山の座像(*11)(写真3-2-19参照)が据えられ、皆礼をして登下校していたという。小松小学校にも昭和41年(1966年)、母をいたわる篤山の像(写真3-2-19参照)が建立された。子安中学校では昭和19年(1944年)「近藤篤山先生遺徳顕彰会」が設立され、「篤山賞(*12)」が制定された。また小松高等学校では教育の目標の中で篤山精神が生きている。小松高等学校の『創立八十周年記念誌』には「『篤山先生の心を心として』と事ある毎(ごと)に言われる篤山精神は、小松高等学校の教育目標として、言葉を変えながらも教室に掲げ続けられている。(⑪)……(中略)……特に『積微・力行』の篤山精神は昭和38年(1963年)に努力目標として掲げられて以来今日まで、一日もその旗印がおろされたことはないのである。」と書かれている。ちなみに小松高等学校が建つ格蔵山(かくぞうやま)を「養正が丘」と呼び、同窓会名を「養正会」と言う。
 『小松町誌(⑫)』の中では、「篤山の教えは多くの人を感化し、今までの歴史や伝統の中にその精神が受け継がれ、今に小松町の気風の形成に影響を残している。」と書かれている。

 (イ)愛媛近代女子教育発祥の地

 **さん(周桑郡小松町新屋敷 大正12年生まれ 73歳)
 「愛媛県(旧伊予国)で女子のみの寺子に学問や技芸を教授する寺子屋を最初に開いた女性師匠は、小松藩士丹(たん)初之進信積の妻、美園(みえ)(熊本藩士の娘、1825~1875年)であった。美園は安政5年(1858年)に丹家自宅において開塾した(図表3-2-8参照)。34歳であった。ちなみに二番目は万延元年(1860年)に当時の和気郡三津藤井町(松山市三津2丁目)において商家の主婦、石崎カナが開いた寺子屋で美園の寺子屋より2年遅い。また藩士の妻が夫の生存中に妻の名で開いた例は他にない。篤山の教えを受けた夫信積の理解と小松藩の学風に負うところが大きかったと思われる。(⑫)」
 **さんは丹美園の玄孫(げんそん)(孫の孫、やしゃご)にあたる人である。
 「丹美園の写真は残念ながらありませんが、わたしの父が祖母から聞かされていた話によると藩の御殿では袴(はかま)を着け、髪型はおすべらかし(婦人の髪型の一つ)、たいへんきれいな人だったということです。御殿で奥女中たちを指導し、自宅では藩士や庶民の娘さんたちに手習いをはじめ、女の子に必要な知識、技能、礼儀作法などを教えていたのでしょう。
 わたしも子孫としてこの小松に住むからには、美園の精神を受け継いで何かしなければならないと考え、茶道を教えることにしました。昭和43年(1968年)小松中学校に茶道クラブをつくりました。それから早28年経(た)ちます。近ごろは男子も10名余り茶道クラブに入っています。毎年西条市で学校茶道の茶会が開かれますが、そのとき男の子を代表として出すのは小松中学校だけです。『すばらしい。男子も出ている。』と言われますが、堂々とお点前(てまえ)をやります。現在わたしの娘も公民館で小松の小学生に茶道を教えていますが、その子供たちの中で中学校に入学してからも茶道を続ける者もいます。その子らが町の文化行事の際には喜んで助手を務めてくれるのでわたしも助かっています。
 ささやかですが、茶道を通して子供たちの情操を育て、日本の総合文化である茶道を身につけてもらい、小松町を心豊かな町にしたいと念じています。これが丹美園と一筋の糸で結ばれているわたしの使命だと思っています。わたしの住んでいるこの家も主人がお茶の道場として建ててくれたものですから、言ってみれば、美園の跡を継いで塾をつくったようなものです。これからも命ある限り茶道を通して丹美園の精神を伝えていく覚悟です。」
 昭和62年(1987年)、小松高等学校創立80周年記念事業期成会は女子教育の発展に貢献した丹美園の事蹟を顕彰するとともに、小松高等学校女子教育80周年を記念して「愛媛近代女子教育発祥之地」の碑を建立した(図表3-2-8、写真3-2-20参照)。
 「わたしの主人はもともと歴史に興味があり、定年を迎え小松に帰ってきてから小松藩の史料など調べ始め、丹美園の記念碑をどうしても丹家屋敷跡に建てたいと考え、石まで探したりしていましたが、個人が建ててもあまり意味がないということで、どうしたものかと思っていました。ちょうどそこへ、小松高等学校から80周年の記念事業の一つとして碑を建てたいという話があり、『ああ、やっと時が来た。』と大変うれしく思いました。」と**さんは語っている。

 (ウ)小松実用女学校

 **さん(周桑郡小松町新屋敷 大正10年生まれ 75歳)
 **さん(周桑郡小松町新屋敷 大正11年生まれ 74歳)
 **さん(周桑郡小松町新屋敷 昭和4年生まれ 67歳)
 小松実用女学校について**さんは次のように語っている。
 「設立に尽力した池原利三郎は東京の女学校に勤めていた娘の縫を呼び戻し、無報酬で小松実用女学校に勤めさせています。私財もかなり投入したようです。一柳春二は明治26年(1893年)にそれまでの6年間の勤務に見合う退職金130円(当時月給12円)を前借りして小松村(現小松町)に寄付し、学校経営資金に充てたが、この資金が後の小松実用女学校設立の際にも役立てられました。この度町誌を書くに当たっていろいろ調べ、これらの人々の教育に寄せる並々ならぬ熱意に触れ、胸が熱くなりました。小松実用女学校は教育内容や設備等の関係で高等女学校にはなれませんでしたが、明治40年(1907年)創立以来戦後の学制改革が行われるまで、良妻賢母を育てる地元の女学校として大きな役割を果たしてきました。
 一柳春二は小松実用女学校でも近藤篤山の精神を受け継いで教えようとしました。例えば、篤山の婦女子への教訓『四如(しじょ)の喩(たとえ)』を校訓としてかかげました。当時の生徒たちは、皆それを暗記させられたということです。この『四如の喩』は丹美園の女子教育の理念でもありましたので、美園の寺子屋が直接小松実用女学校に発展したのではないのですが、女子教育の理念は引き継がれたと考えてよいと思います。」
 **さんと**さんは小松実用女学校の卒業生である。**さんは女学校時代の思い出を次のように語っている。
 「わたしは昭和9年(1934年)入学、昭和11年に卒業しました(小松実用女学校は2年制の女学校であった)。当時の正式名称は『小松町外一町(ほかいっちょう)組合立実用女学校』(大正12年〔1923年〕からこの名称となる。)で、『外一町』とは氷見(ひみ)町(現西条市)のことです。学校備付けの雨傘にも外一町と書いてあり、西条の友達などはそれを嫌がり、雨が降ってきたときには『外一町と書いてない傘を捜して』とよく言っていました。
 実用女学校ですから裁縫の授業が多く、特にわたしらの時代は和裁が主で、道行き(和服用のコート)から袴(はかま)まで縫いました。授業中のおしゃべりは禁じられていましたので、ただ黙々と一心不乱で縫っていました。
 時の校長は一柳春二先生でした。小柄な方でしたが、毅然(きぜん)としておられました。春二先生には大変かわいがっていただきました。教えていただいたのは修身と国語ですが、先生の教えで今でも強く印象に残っているのは、取り越し苦労をするなということです。努力は大切だが、人生にはいくら努力してもなるようにしかならないこともあるのだから、あれこれ考えてむだな心配をすることだけはよしなさいとよく言っておられました。実はもう一つ忘れられないことがあります。兄が出征するとき、授業中でしたが見送りに行かせてもらいました。帰校後も悲しくて涙が止まりません。すると春二先生が『泣きたければ泣きなさい。悲しいときは泣けばよい。』とおっしゃいました。この人間の真情を大切にされる先生の優しいお言葉は今でも心に強く残っています。」
 **さんは次のように語っている。
 「わたしが小学生のころ、小松実用女学校長の一柳春二先生は毎週1回小学校に来られて講話をなさっておられました。その折、近藤篤山先生の教え、例えば『四如の喩』とか、また『子曰(のたまわ)く…』という孔子の教えなどについてよく話しておられました。わたしたち小学生にとってはむずかしいお話でしたが、今でも先生のお言葉が心の片隅に残っています。『身のはたらきは水をつかふ如くおしげなくさっぱりと(四如の喩の一節)』などその当時覚えたのですが、今でも忘れていません。骨惜しみせず、何事も進んでやらなければならないと自分自身に言い聞かせています。
 わたしは昭和21年(1946年)に小松実用女学校の2年に編入させてもらい、翌年卒業しました。太平洋戦争中には、『日本が負けたら女学校などあるものか』とよく聞かされていましたが、戦後も女学校が存続していましたので、進学を決心したのです。たった1年間でしたが、充実した貴重な1年でした。戦争中は農業実習とか、戦死者の遺族の家での勤労奉仕とか、とにかく勉強どころではない状態でしたから、平和な世の中で勉強ができる、それが何よりうれしいことでした。学ぶことがこんなに楽しいものかと思いました。戦後ですから英語の授業もありました。しかし**さんのころのような和裁の授業はありませんでした。余談になるかもしれませんが、小学生のころ、女学校の横を通ると、たいへん静かで、物差しやはさみを置く音だけが聞こえていたのを思い出します。戦前の卒業生の方々は、皆プロ並みの和裁の腕を持っておられます。
 読書会も楽しい思い出です。戦後のことですから、書物が手に入りにくく、先生に読んでいただいて、みんなが感想を述べ合うような会でした。自由な雰囲気の中で自分の思ったことが言える。それは戦時中にはなかったことでした。ああ本当に勉強しているのだなあと実感できるひと時でした。」


*8:明治13年(1880年)設立、明治18年(1885年)閉鎖。
*9:明治21年(1888年)設立、明治24年(1891年)閉鎖。
*10:近藤南海(篤山の長男)の門下。第2代小松村長として後の小松町発展の基礎を確立した。
*11:青野和吉製作。瓦の製法で焼かれた像。現在小松町中央公民館(小松実用女学校跡)の玄関横に設置されている。
*12:人物、学力共に優秀な者に与えられる賞。現在でも小松高等学校並びに小松中学校で授与している。

図表3-2-8 近藤篤山旧邸付近の略図

図表3-2-8 近藤篤山旧邸付近の略図

実地調査により作成。

写真3-2-16 近藤篤山旧邸の土塀

写真3-2-16 近藤篤山旧邸の土塀

図表3-2-8中のa地点より写す。平成8年6月撮影

写真3-2-17 本善寺の土塀

写真3-2-17 本善寺の土塀

図表3-2-8中のb地点より写す。平成8年6月撮影

写真3-2-18 藩主も眺めた鶴亀の石

写真3-2-18 藩主も眺めた鶴亀の石

五友園内。左・・・亀、右・・・鶴。平成8年7月撮影

写真3-2-19 篤山の像

写真3-2-19 篤山の像

小松実用女学校にあった坐像。現在小松町中央公民館にある。小松小学校の母をいたわる像。平成8年6月撮影

写真3-2-20 愛媛近代女子教育発祥之地の記念碑

写真3-2-20 愛媛近代女子教育発祥之地の記念碑

平成8年6月撮影