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愛媛の景観(平成8年度)

(3)自動車時代の到来

 卯之町は東宇和郡で最も大きな町で、東宇和郡を管轄する官公庁が多い。これらの官公庁は、戦前には中町や県道沿いに多く立地していた。
 昭和36年(1961年)に、現在の県道の西側に、自動車交通の急激な発達に伴って新しい国道が開通したことから、官公庁や商店などの国道沿いへの進出が多くなった(図表3-1-10参照)。特に昭和45年(1970年)3月の法華津トンネル、同年10月の鳥坂トンネルの開通は、松山と宇和島への自動車交通を飛躍的に増加させ、国道沿いでの新しい市街地の形成を一層促進した。
 その後、大型店が進出し、宇和川の対岸には住宅地が造成され、また運動公園や体育館なども整備された。現在は、交通網の整備によって、周辺都市への商圏拡大の影響などが考えられるとともに、近隣都市への通勤者の住宅地が形成され、その結果集落が拡大している。

 ア 子供のころの思い出

 **さん(東宇和郡宇和町卯之町 大正12年生まれ 73歳)
 「わたしは中町の近くに生まれ、昭和12年(1937年)まで住んでいました。
 昭和の初期は中町通りがメインストリートで、料理屋、旅館、酒屋さんなどがあり、大変にぎやかな町並みでした。そのころわたしたち子供は、私塾として使われていた大師堂(現先哲記念館の上にある)の広場で、パン(めんこ、ぱんこ、ぱっちんこともいう)をしていました。パン遊びは円形に切り抜いた厚紙を巧みに地面に打ちつけ、風圧で相手のパンを打ち返したり、下側に食い込ませて相手のパンを取り上げる遊びで、当時は大流行していました。また、食料不足の時代でしたからイモ掘り、クリ拾いに行っていました。
 わたしの父は昭和12年に製材工場と清涼飲料水の工場を始めるために、土地と宇和川の豊かな水を求めて、国道沿いの下之町(現卯之町4丁目)に移りました。当時下之町は、住居は少なく、田畑ばかりでした。ここの人たちは、農家が多く、各戸で牛馬を飼い、駄賃稼ぎをしている人もありました。また、ここはまだ道路も整備されておらず、そのため土ぼこりがよくたって困ったのを覚えております。
 昭和30年(1955年)ころまでの農耕や運搬には、牛馬がなくてはならないものでした。そのため農家では牛を肥育するのが普通で、農耕に使用し、牛が肥えると売って家計の足しにしていました。牛馬が農耕に必要な春と、肥育して売りころになった秋とには、それにあわせて牛馬市がたっていました。県下はもとより遠くは中国、九州方面からも牛馬が連れてこられて、盛んに売買が行われていました。当日は市場付近の道側、空地には農具類や日用品が売られ、のぞきなどの興業物、飲食店も出張してきて大変なにぎわいでした。当時、確か5銭であった小刀〝肥後守〟を買うのが子供としては最高の喜びでした。
 わたしは昭和19年(1944年)1月に徴兵されて博多航空隊に入隊したのですが、その時はまだ卯之町-八幡浜間の国鉄は開通していないため、宇和島自動車のバスでカーブの多い山道をゆられながら八幡浜へ行き、そこの桟橋から小さい船で別府へ、そしてさらに汽車で博多へ行きました。この時、卯之町-八幡浜間のバスの所要時間が約1時間でしたが、船や汽車よりも疲れた記憶があります。昭和21年(1946年)6月に復員したときは、国鉄が開通していたので、約30分の汽車の旅で帰ってこれました。往きと帰りとでは雲泥(うんでい)の差がありました。
 わたしは国鉄が開通してからは、よく汽車(バスは道路が悪いため)を利用して宇和島へ映画を見に行っていました。卯之町にも『栄座』や『卯之町東映』のような映画館がありましたが、有名な洋画はここには来ないか、来たとしても時期が大変遅れていました。それに宇和島の方がいろいろな遊びがありましたし、昭和45年(1970年)に法華津トンネル・鳥坂トンネルができてからは、宇和島よりも自家用車で松山の方へ買物に行くようになりました(所要時間約2時間余り)。
 今、四国横断自動車道も計画され、その準備も着々と進められております。これが完成した暁には、諸車の通行は一層激しくなると思いますが、せめて、この田舎びたふるさとのよさである、地域の人々の心の美しさだけはいつまでも持ち続けたいものです。」

 イ 農家から「うどん店」へ

 **さん(東宇和郡宇和町卯之町 昭和5年生まれ 66歳)
 「わたしが生まれ育った下之町は、人情味のあつい平和な地域で、商家が1、2軒ある以外はほとんどが農業で生計を立てていました。ですからここは、夏祭り(7月10日)の子供だけの練りに特色がある王子神社と縁起の地蔵さんに対して、信仰心が強く、今でもその余韻が残っています。とくに王子神社では、夏の午後になると大人は、三々五々境内のお籠堂(こもりどう)に集まって、神社裏の田から吹いてくる田んぼ風をさかなにして世間話をしたり、また、宮司さんからは人間の道を話してもらったりしていました。王子神社はこの地区の情報交換の場となっていました。一方子供たちは、木登りやセミとりをしたり、王子神社前の小川でシジミをとってみんなで食べたりしていました。
 この下之町のはずれにある地蔵さん(写真3-1-36参照)を、火除け縁起地蔵さんと呼んでいます。これは卯之町を松葉町と呼んでいたころ、この下之町界わいはしばしば火災に見舞われたので、だれというともなくここに地蔵さんが置かれ、災難逃避の祈願が行われるようになったのです。この地蔵さんが祀(まつ)られてから、人の心も落ち着き、何度も苦しめられた火災もなく、幸せな日々を送れるようになったといいます。このように下之町は、信仰心が厚い地域なんですよ。なお、この地蔵さんは町の方を向いて立っています。最近はこの王子神社のお籠堂に集まることも少なくなり、次第によき人間関係が失われつつあることが残念でたまりません。人情豊かな地域だったのに、これも時代の流れのせいかなあと思います。
 わたしの家は農家でしたので、子供のころから両親に連れられて、農作業を手伝っていましたが、わたしはめん類が好きで、いつかはめん類関係の店を持ちたいと考えていました。それで農閑期には、香川県・長崎県・長野県などあちこちに研究に行きました。そして昭和47、8年(1972、3年)ころ、養鶏場の建設や宇和運動公園の建設のため土地を譲ってくれとの話が持ち上がったのを機に、昭和50年、自分は農業をやめ、残った田畑は他人に貸して、子供の時から興味があった「うどん店」を始めたのです。
 最初は、国道と県道宇和-野村線の交差点沿いの場所に小さな店で始めたのです。その後、昭和56年(1981年)現在の地(卯之町4丁目)に150坪(約500m²)の店を新しく建てました。お陰様でみなさんに可愛がっていただきまして何とか頑張っています。
 実は、やめていた自作農を最近また始めたのですよ。それは一昨年(平成6年)ころから、米の値段が上がってきたからです。店は娘夫婦が中心になってやってくれますので、わたしは午前中は店の手伝いをして、午後は無農薬に近い有機栽培で、お客さんにおいしい安心米を作って提供しております。
 ここのお客は、地元の人や団体バスのお客さんも多く利用していただきますが、お遍路さんが多いのです。お遍路さんたちは、朝、足摺(あしずり)(高知県)を出発し、参拝された後、車でこちらに来られますと、宇和町がちょうどお昼どきになるということで、ありがたいことにここに寄ってもらいます。今ではこれが定着してお遍路さんの客が多くなりました。お遍路さんは九州・中国・関東からも来られまして、その中には著名人の方もおられ、室内に展示しています色紙を見てわたしも書きましょうと快く書いてもらっています。今では店に展示しきれないので応接室に山のように積んであります。その応接室にはびょうぶ6枚に書かれた左氏珠山の書も置いてあります。
 最近では、平成6年に愛媛県歴史文化博物館が開館し、今年(平成8年)は中町に宇和町先哲記念館が落成しまして、見学に来られた方たちも寄っていただいております。
 わたしが生まれ育った下之町は、国道開通によって官公庁を始め商店、住居が建ち並び、近くには大型スーパーが進出するということで、昔の面影はほとんど姿を消してしまいました。」

 ウ 宇和に文化の殿堂が落成

 **さん (東宇和郡宇和町卯之町 昭和4年生まれ 67歳)
 愛媛の歴史や民俗をわかりやすく紹介するとともに、南予地方の生涯学習活動を推進する拠点施設として、平成6年11月卯之町4丁目の緑に囲まれた丘の上に「愛媛県歴史文化博物館」が開館した。
 同博物館は地上3階建てで、約17,000m²のスペースは、展示部門と生涯学習部門及び収蔵部門の三つのゾーンに分かれている。歴史展示では、竪穴式住居や昭和初期の大街道商店街などの原寸大の復元模型などを通じて、民俗展示では、くらし、祭り、四国遍路などの展示を通じて、愛媛の歴史や民俗を楽しみながら学習できるよう工夫されている。また、生涯学習ゾーンでは、講演会や各種講座などが開催され、施設の利用も受け付けている。
 同博物館は、平成8年7月16日、開館1年8か月で30万人を突破。これまでの開館日数は502日で、1か月平均約15,000人、一日平均約600人の入館者があった。東宇和郡の黒田さんは、愛媛新聞(平成8年7月19日付け)の門欄で「歴博(愛媛県歴史文化博物館の略称)で催される講座を聞くことによって、学ぶ楽しさを覚え、わたしにとって今では「歴博」はなくてはならない存在になってしまった。」と述べている。

 (ア)「県歴史文化博物館」を利用して

 生涯学習の場として、いろいろな機会に歴博を利用している**さんに話を聞いた。
 「宇和町にも県の肝いりで現代的な建築の威容を誇る『愛媛県歴史文化博物館』が完成したことは喜ばしい限りです。辺境な南予の一角にこのような施設ができたことは、文化施設の一極集中を避ける意味合いも大きいとは思いますが、本町が往時交通の要衝であり、また、『文化の里』を自任し標榜(ひょうぼう)する町であることもその一因かと、地元の住民として信じております。
 当初『物珍しさで一度は来るが、再度の来館はないのではないか』と今となっては要らぬ心配をする向きもありましたが、入館者もすでに30万人を超えたとのことで、今では当館の活動が着実に根を下ろし、その存在意義を広く県民にアピールしていることは疑う余地がありません。
 設立以来まだ日が浅く一度に多くは望めませんが、図書室の充実、学習講座の拡張、パソコンでのアクセス、さらに地元の『文化の里』と連携したイベントや、『文化の里』に通じる裏山の道の整備など、利用者が何度も足を運ぶような魅力ある博物館になるよう一層の発展を期待しております。」

 (イ)「愛媛学わくわく講座」に参加して

 「当館で『愛媛学わくわく講座』(平成7年からコミュニティカレッジの一つとして実施されている。)が開講されると聞いたとき、ためらうこともなく夫婦揃って受講の申し込みをしました。それは講座の内容から想像される興味と、いつまでも学習意欲を失わず『生涯学習者』でありたいという欲求があったからだと思います。
 今回(平成7年度)のテーマは『河川とその流域に生きた人々の生活と文化』でありましたが、この講義を通して、河川が文明の母であることを改めて認識するとともに、そこに生きた人々の忍耐心や生活の知恵といったものに、深い感銘を覚えました。亡母が生前によく聞かせてくれた『その昔自分の家がろうそくの原料である櫨(はぜ)の実の集荷場で、それをまとめて製蠟所のある町まで運んでいたこと、出水の度に橋が流失して、川向かいの田んぼを見回る必要があるときには、上流から下流に向けて濁流を泳いで渡ったこと』などの話や、自分自身幼時に肱川下流でいかだ流しや白い帆をかけた小舟を見たことなど、聞いているうちに思い出しました。講義はときには視聴覚器具を利用したり、また、ユーモアを交えた語り口で笑いを誘ったりで、講師の方々のうんちくを傾けた興味あるもので、とくにご自身の足で調査研究された成果の発表だけに説得力がありました。わたしは肱川の水運や物産の集積などに関心がありまして、今少し専門的なお話を期待していたのですが、本講座の性格や受講者の構成から、それは別の機会に求めるべきものと思いました。
 今回の講座は全部で10回でしたが、わたし自身は仕事の都合もあって6回しか受講できず、申し訳なく、また、残念に思いました。ともあれ、これを機会に、地域の将来を展望することのできる視野に立って『生涯学習者』であり続けたいと思っています。」

図表3-1-10 主な官公庁の移動

図表3-1-10 主な官公庁の移動

聞き取りにより作成。

写真3-1-36 集落の幸せを守る「火除け地蔵」さん

写真3-1-36 集落の幸せを守る「火除け地蔵」さん

平成8年11月撮影