データベース『えひめの記憶』

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愛媛の景観(平成8年度)

(1)峠ごえの交流

 ア 鳥坂峠と鳥坂番所跡

 鳥坂峠は、鳥坂村(現東宇和郡宇和町大字久保)と大洲市との境にある、標高430mの峠である。大洲市柚木(ゆのき)から嵩富(かさとみ)川沿いに南下して、札掛(ふだかけ)から峠路となり、峠を越えて南側の鳥坂から卯之町へ下る(図表3-1-6参照)。
 峠は、戦国期には、大津(大洲)地方を領した宇都宮豊綱と宇和地方を領した西園寺実光との境界であり、度々国境紛争があったと『大洲旧記』鳥坂村の項に記されている(⑦)。
 宇和島藩領東多田村(現宇和町大字東多田)にあった口留(くちどめ)(境目)番所(諸藩が隣藩と通ずる交通上の要所に置いた番所)は、現在は跡形もない。大洲藩領の口留番所は、当初峠に設けられて通行人を取り締まっていたが、天保年間(1830~44年)に鳥坂下り口の現在の地(宇和町大字久保)に下ろされ、現在も往時の建物を留めている。
 鳥坂番所跡は、六代当主住友康秀の奥さんの話によると、元来茅葺(かやぶ)きであったものを四代当主住友八十七の時に瓦葺(かわらぶ)きに改造した。昭和33年(1958年)に正信(まさのぶ)と鳥坂が大洲市から宇和町に編入されるに伴い、大洲市史跡から宇和町史跡になった。それに合わせて、玄関の畳敷と板間を土間に改めるなど部分的にはかなり変更された。しかし、瓦葺平屋建一棟(約200坪)を中心にした玄関、座敷、襖(ふすま)や、欄間(らんま)の一部等の間取りは創建当時のもので旧態をうかがうことができる。
 同家の系図等から判断すると、当家の役所勤務は天保年間ころから明治元年(1868年)まで約30年間継続されたと考えられる。
 峠には、大正9年(1920年)に松山-宇和島間の県道が開通し、昭和28年(1953年)、それが国道56号に昇格し、松山と南予を結ぶ幹線道路として盛んに利用された。しかし昭和45年(1970年)峠の下に鳥坂トンネルが完成し、現在の国道56号ができると(図表3-1-6参照)、利用者のほとんどはこの新国道を通るようになった。旧国道は、現在林道となり、また峠ごえの旧道は人通りがほとんどなくなり雑草が生い茂っている状態である。

 イ 大洲市から見た交流

 **さん(大洲市長谷 昭和2年生まれ 69歳)
 **さん(大洲市北只 大正7年生まれ 78歳)
 街道の変遷の様子を**さんにうかがった。
 「鳥坂峠を通る道は、昭和の初めころまで大洲と宇和を結ぶただ一つの峠道で、たえず話し声がこだまして活気に満ちた旅路であったと思います。北只(きたただ)(大洲市)から下り口の鳥坂まで、二抱えから三抱え、なかには五抱えもありそうな松の並木が街道に沿って長々と続いていました。この松は『南久米村郷土誌(⑧)』によると、安永年間(1772~81年)、時の大洲城主加藤加賀守泰衡公時代にこれを初めて植え、明治維新に至るまで保護増植したものと記してあります。
 この老松は、すべてクロマツでひときわそびえる濃緑の並木は、遠く大洲からも見渡すことができました。旅の人に安らぎを与え土地の人々に親しまれたこの並木も、第二次世界大戦中(1939~45年)に強制伐採(造船用に使用のため)で憂き目を見る結果になり、かえすがえすも残念なことです。わたしが小学生ころ、曲がりくねった県道を牛車に木材を積んで長浜へ運んでいました。切られた松は大きくて長いためカーブをうまく回れず難儀していた姿をよく見かけました。また、戦時中切った後の松の根っ子は、松根油を取るのだということで掘られたと聞いています。当時をしのぶものとして南久米小学校横に5本ばかり残っていたのを市が消毒していましたが、戦後松食い虫にやられてしまい今は残っていません。曲がりくねった県道はトラック、バスが走ると砂ぼこりをあげていましたが、それに比べて鳥坂旧道の方は、道幅は狭く路面も悪く上り下りの坂もありましたが、車が走っていなかったのでのんびりと歩けました。峠には茶屋もあり、民家も1戸建っていたそうですが、今はなく石垣のみが昔日のままで残っています。戦前までは松並木道として、あるいは遍路道として懐古的な情緒が漂っていました。遍路道では、冬の季節を除いては毎日大勢のお遍路さんに出会いました。沿道の人たちは、年に一度お大師さまに捧げるという意味で、早春になると通り行くお遍路さんに、ぼたもちやまぜごはんのおむすびを接待していました。お遍路さんたちは鈴を鳴らして『南無大師遍照金剛』といってお礼を言っていました。
 今は大きな枯れ松の根がそこここに見受けられるだけで、人通りもほとんどありません。山仕事をする人が歩いているくらいで、時たまお遍路さんの姿を見ることがあります。」
 より詳しい峠越えの様子を**さんにうかがった。**さんは宇和へ行くときは札掛(大洲市)から峠を越えて歩いて行っていた。
 「父が住職をしていた関係で、10歳ころから大きな葬式の時は父に連れられて宇和の方へ行っていました。帰りは夜になるとちょうちんをつけて峠を歩いて帰っていました。大体1時間くらいかかっていたように記憶しています。その時分(大正末期から昭和初期)、定期バス(大洲に本社を置く予州自動車)が1日に2回松山方面へ走っていました。バスといっても今の乗用車くらいですので、定員は6名でした。利用者のほとんどは各官公庁職員、学生および京阪神から旅行にきた人たちで、地元の人はまだ徒歩で行き来することが多く、そのため満員で運行することはまれでした。
 昭和33年(1958年)南久米村の一部、正信および久保のうち急坂の区域が分離され宇和町に編入されたのですが、それまでは官公庁(役場など)の中心が南久米村にあったので、こちらから宇和へ行くよりも宇和の人たちが来ることの方が多かったように思います。
 今の鳥坂トンネルが抜けることが事前に分かっていたら、恐らく大洲市から分離させなかったと思います。昭和45年に鳥坂トンネルができて、峠道はほとんど通る人はなくなりました。今では自動車で15分(以前は40分)で大洲へ来ることができるようになりました。そのため急坂トンネル付近の宇和町の人たちは、宇和町の中心地に買物に出掛けるよりも大洲へ来る人が多いと聞いております。ただ南久米は素通りになりますが。」

 ウ 宇和から見た交流

 **さん(東宇和郡宇和町東多田 大正5年生まれ 80歳)

 (ア)峠道の思い出

 「明治2年(1869年)に番所が廃止され、往来が自由になって人や物の流れが多くなり、この鳥坂峠の往還道路も利用者が次第に多くなったと考えられます。
 明治35年(1902年)宇和-大洲間に県道が開通し、大正の終わりころには大正馬車、昭和の初めには6人乗りの小型自動車が走るようになりました。
 県道が開通し、自動車が通るようになるまでは、牛によって物を運んでいました。牛の背に鞍(くら)(人、荷物を乗せるもの)を置き、夜明け前に鳥坂を発ち、難所である鳥坂峠を越えて旅人や商人の荷物を大洲へ運んでいました。峠道のあちらこちらの谷間に山岸を深く掘った水たまりがありましたが、当時の牛馬の水飲み場で今もところどころその名残りをとどめています。また、大八車を牛が引っ張っていたころは、積荷は米を3俵(1俵は約60kg)くらい、道路がよくなり大型の荷馬車が通れるようになると、米を15俵くらい積んで八幡浜へ運んでいました。牛を売買する馬喰(ばくろう)さんもよくこの道を利用していましたし、わたしの父も、大洲に製糸工場ができたため、ここから繭(まゆ)を担いで峠の道を越えていました。峠は難所のために鳥坂の上り口に2階建ての長屋の宿がありました。峠には、飲食店や酒屋などもでき、昭和の初めころまでは巡査駐在所も置かれていました。」

 (イ)峠を越えて大洲中学校へ

 「わたしが大洲中学校(現在の県立大洲高等学校)に入学したのは、昭和4年(1929年)4月のことで、入学式当日の朝まだ暗いうちに父に連れられて家を出ました。そのころバスが1日に1、2回往復していましたが、入学式に間に合うバスがありませんでした。その上に料金も高く到底それに乗って行くことなど考えられなかった時代です。
 その日は、父が柳行李(こうり)(柳を編んで作った衣類などを入れる用具)を背負って鳥坂峠を越える4里(約16km)の山道を歩いて行きました。峠を越えて歩いたのは初めてのことでした。そのころの峠の道は、急傾斜のところもありましたが、草も生えていなかったので高下駄で行きました。峠を越えるころにやっと夜も明けましたが、まだ朝霧が深く立ちこめていて大洲の方の山道は見えなかったです。
 入学式は9時ころ始まったと思いますが、そのころはまだ講堂といったものはなく、武道場で行われ、入学を許可されたものは100名余りでした。式場にはござが敷かれ、1段高いところに先生方の席が作られていました。わたしにとって正座することは珍しく、その上に長時間座ることは初めてのことで、式の途中『起立』の号令がかけられた時、足がしびれて立てなかったことが、今となってはかえって懐かしく思い出されます。
 式が終わって父が『もう帰る。』と別れを告げた時、緊張が解けたのか急に悲しくなって泣いてしまいました。子供のころどんなに腕白であっても、親と別れてくらす経験は初めてのことで、とても悲しかったです。
 わたしは、学校から南方へ200mくらい離れた小高い場所にあった『至誠寮』(2年生以上は校内にある『啓之(けいし)寮』)に入りました。入学した当時は、やはり自宅へ帰りたいものですから、土曜日ごとに友人と二人で歩いて自宅へ帰っていました。途中はなるべく県道を通らずに松並木の旧道(峠道)を歩き、茶屋で一休みしていました。いつころからか峠にあった茶屋は、北の上り口三本松(現大洲市)に下ろされ、昭和の初めころには別の茶屋が、札掛(大洲市)やへんろくよ(現在のゴルフ場入り口あたり)にもありました。必ずということはないですが、『これから峠や。ここでお茶を飲んで上がろうぜ。』と言って、三本松の茶屋で三角のようかんを食べお茶を飲んだものでした。当時ようかんは5銭だったと思います。そして、峠の中ほどに泉の出る所もあり、のどを潤したことや、部活動(テニス部に所属)をしていたので、暗くなってこの峠を越したこともあります。先輩たちとローソクの灯を頼りに峠を下ったこと、風に吹かれて何度もローソクの灯が消えたことなど強い印象が残っています。日曜日の午後、再び寮へ戻る時には母が峠の入り口まで見送ってくれたこともありました。祖父や叔父が亡くなった時はバスで帰りましたが、それ以外は歩いて越えました。一度だけ県道と近道を通って、自転車で自宅から寮へ戻ったことがあります。その時は、登り坂では自転車を担いでいきました。その週末の土曜日は、再び自転車で自宅まで帰りました。その時にかかった時間はよく覚えていませんが、2時間くらいだったように思います。
 昭和の初めのころ、峠に立つと、宇和や大洲の風景が一望でき感動したものですが、今は植林が進み全くそうした景観が見られなくなりました。当時、峠の北側の山は桑園になっていたので一望できたのだと思います。」

図表3-1-6 鳥坂峠の今昔

図表3-1-6 鳥坂峠の今昔

**さんより聞き取りして作成。