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愛媛の景観(平成8年度)

(2)ハマユウの咲く島

 **さん(八幡浜市大島 大正13年生まれ 72歳)
 **さん(八幡浜市大島 昭和3年生まれ 68歳)
 **さん(八幡浜市大島 昭和2年生まれ 69歳)

 ア 魚で沸く浜

 八幡浜市大島は、八幡浜市の西南西約12kmの宇和海に浮かぶ大小5つの島からなる。中世には、宇和海の海賊から「伊予の官道」を守っていた坂出城(さかでじょう)という海城があったという伝承もあるが、江戸時代には宇和島藩に所属し、記録上の入植は寛文9年(1669年)となっている。この大島のハマユウが咲く美しい海岸でくりひろげられたドラマをかいま見ることにする。

 (ア)イワシをとって

 「江戸時代以前から、宇和海は、イワシ類の産地であることは知られている。この大島周辺に回遊してくるイワシの魚種は変化しており、天保から明治の中期にかけて(19世紀後半)は、マイワシが主であったが、それ以降は、カタクチイワシが主になってきた。昭和初期のころの漁法は2そう引きというて、昼間に魚の群れを見て、それを2そうの船で網を引いてやりよったが、やがて四ツ張網(よつばりあみ)で夜間操業するようになったんです。」と、元網元の**さんは、語った。
 続いて、大島の歴史に詳しい**さんに、豊漁の時代の様子を聞いた。
 「イワシは、いわゆる寄魚(よりうお)であるため、船が動力化されていなかった昭和初期までは、湾内や入り江に回遊してくる群れを陸上から望見してから、網や船を用意して漁獲にとりかかり、2そうの網船による引き網でとりました。高い山に立って魚群を監視している魚見(うおみ)という指揮者の合図で、網声という掛け声とともに綱を引っ張っていました。まず、魚群を網で囲み、綱を引く間は『ホオエー、ホオエー。』と綱を手早く引き、大引網を手に取ってからは、『エーヘントオノー、オーホーヤー、エーヘンヤー、エーヘン。』と掛け声を合わせ、長手網(袖網)を手に持ってからは、『ヤーレーノセ、ヤーレーノセ。』と掛け声が変わり、袋網が来てからは、『ヤンエー、ヤンエー、ヤンエー、ヤンエー。』と掛け声を出します。大漁の時は、勝ちどきを上げるために音頭取りがいて、『ヨーイトコ、ヒヤヨー。』と音頭を取れば、網子全員が同じく唱和、これを3回繰り返して、大漁を祝ったもんです。」
 昭和24年(1949年)の漁業制度改革によって、特別漁業権が消滅した。すなわち、網元が漁業権を持ち、数多くの網子を使ってとっていた従来の形から、漁業権が個人ではなく組織に免許されることになり、統制(とうせい)(度)時代となっていくのである。統制時代には四ツ張網になり、1統は網船2そうと手船1そう、他の2そうからなり、漁師が25人から40人乗り込み、各船の集魚灯で集めた魚を、夜明け前に中央の手船の1灯周辺に集め、前夜海底に敷いた網を四方から揚げて漁獲した。昭和30年(1955年)には大島には四ツ張網が9統あり、八幡浜市周辺には総計63統あった(③)。それが夜ずっと集魚灯をつけて操業していたので、付近は宇和海の銀座といわれていた。
 「夜明け前に網を上げて、カタクチイワシがびっちりとれて、午後までぼんぼんとって帰っていたので、学校に遅れることもよくありました。」と前大島公民館長であった**さんは子供のころの一家総出の作業の思い出を語った。沖でとれたイワシは、浜で待っている女子衆が釜でさっとゆでて、簀台(すのこだい)や筵(むしろ)に広げて、3日間ぐらい天日干(てんぴぼ)しして、主に煮干し(イリコ)にしていた。家で食べるぐらいの量は、から干し(めざし)にして食べていた。しかし、「秋のただれ」といって天候不順で天日干しできないときには肥料にしたりもした。また、まだ電気がなかった時代にはイワシから魚油をしぼりとって、植物のトウ(籐)の芯(しん)を使って、「とうすみ」といって家の明かりに利用していた。
 なお、大島が電化されたのは昭和31年(1956年)であり、それまではバッテリーを使っており、家庭用のもので2週間おきに八幡浜市内に充電に送っていた。また、上水道は、昭和57年(1982年)に通ったが、それまでは井戸水の出るところにもらい水をしたり、給水船で1回60tずつ1日2往復して運んでいた。地大島は井戸水が出ないために、人家のない島である。

 (イ)海の小判

 イワシの漁期などを**さんに聞いた。
 「イワシは冬季を除いてとれていました。春はあまりとれなかったんですが、『春の彼岸ホータレ(ホータレイワシ)』といわれて、小イワシの漁はありました。しかし、『秋の社日(しゃにち)(秋分に一番近い戊(つちのえ)の日)の前後にはようとれる。』といって、一番とれていました。明治の中期までの最盛期には、夜、イワシの子がびっしりと、この浜へ寄せてきており、船端が波によって岸にあたってガチンと音をたてると、驚いたイワシの動きで、そこら中の夜光虫が一斉に発光し、山の峰々の松の木がぱーと明るく見えよったほどに、イワシが密集しておりました。まるで、海の小判のようでした。子イワシは夜になると、砂浜の所の浅瀬にびっしり寄ってしまう習性がありました。それを火も何も焚(た)かずに(集魚灯をつけずに)、二そう引きで引いてとる漁法の時が最盛期だったように思います。」
 次に、漁獲量について**さんに聞いた。「昭和24、5年(1949、50年)当時は、多くとれすぎて地元で加工しきれない時は、2tぐらいの船に、海水が入りそうになるまで積みこんで、1日12、3回を佐島(八幡浜市)の加工業者と八幡浜魚市場まで運んでいました。出来た煮干し(イリコ)は斗升(とます)で計り、袋入れしておりましたが、統制下でもあり、業者が貫目(かんめ)でいうようになり、800匁(め)(約3kg)くらいを紙袋に入れて出荷していました。また、豊漁続きのため、不眠不休の毎日でしたので、イワシを加工する人が重労働になってやる気をなくして、『イワシの目玉に灸(きゅう)をすえ。』いうて、ぼやくこともありました。また、イワシを追ってきて、ブリやタイがとれたりもしましたが、イルカやクジラには、集魚灯に寄っていたイワシを追い散らかされるということもありました。今でも、イルカやクジラは回遊してきていますよ。」
 このように栄えた大島のイワシ漁も、昭和40年(1965年)ころから人出不足と漁獲量の減少によって次第に衰え始め、今は1統も残っていない。
 「大島でイワシ漁をやめた後でも、よそでは20年くらいは漁のできていた場所があるんだから、ここらは魚群探知機なんかの設備投資に立ち遅れたんですね。それと、きんちゃく(巻き網)が主流になって、小さい魚から根こそぎとるんで魚も少なくなってきたんです。」と**さんは語った。その後、大島は、小型船による沿岸漁業と果樹生産を主産業とする典型的な半農半漁の島となったが、現在は、栽培漁業(フグ、ハマチ、タイ、カキ、アジ養殖)と柑橘(かんきつ)農業の島へと新たな展開を始めている。

 イ 僕らの浜

 昭和14、5年(1939、40年)ころの、大島の子どもたちは、家の手伝いや遊びなどに元気に浜をとび回っていた。

 (ア)亥(い)の子組(こぐみ)

 愛媛県下で広く行われている亥の子(旧暦の10月の最初の亥の日に行われる年中行事)は、大島でも昔から盛んに行われてきた。ただ、昭和10年代のころには、子供たちも多くて、全員が亥の子に参加することはできなかった。その様子を、当時亥の子組の頭をしていた**さんに聞いた。
 「わたしらが子供のころは、亥の子組というのがありまして、下から『しんなり・中頭(ちゅうがしら)・頭(かしら)・古頭(ふるがしら)』という、4つの階級からできていました(*4)。しんなりから始めて3年すんだら古頭になりよりました。年齢には関係なく組の階級が決まっていました。組には、だれでも入れるというものではなく、御祝儀の分配の関係もあって、2人の頭が許可しないと入れなかったんです。大島には、上組(かみぐみ)と下組(しもぐみ)の二つがありまして、一つの亥の子組には、亥の子石をつくのがよったり(4人)と、笹(ささ)持ちが1人と亥の子歌を歌うのがおって合計およそ10人ぐらいでした。もらったお金などは、2人の頭が相談して、配分していました。
 また、亥の子歌は、10の数え歌の『門回(かどまわ)り』とそれ以外のたくさんの亥の子歌を加えて歌っていました。例えば、網元の家では、『門回り』と『大漁』と『ご祝儀』を歌うとか、農家では、『門回り』と『めんたいなあ』と『ご祝儀』というふうでした。この亥の子歌は、毎年、新しく入ってきたしんなりに古頭が教えていました。また、亥の子歌をたくさん歌える組のほうが御祝儀が良かったので、上組のものが、下組の歌を盗み聞きに行ったりしてよくけんかが起こったりもしました。亥の子の日の2、3日前に、山にモウソウチクを切りに行き『塩に清める』といって、海に漬けておき、亥の子の日に取り出し、枝の一本一本に短冊をつけて、亥の子で回る家々に枝を切って渡していました。」
 亥の子歌は、現在も県下各地で歌い継がれており、数え歌の原形はほぼ同じであるが、家々の商売やご祝儀の高によっていろいろな歌を組み合わせる大島のものは、珍しい。
 「大晦日(おおみそか)の晩には、亥の子組の子供たちがお宮に集まって、亥の子でもらったお金の一部でお酒を買い、火鉢で暖をとりながら、初詣の人たちにお神酒(みき)としてふるまっていました。これは、今も続いています。」と**さん。
 大人からもらったお金を全て個人的に使ってしまうのでなく、地区の人々にも還元するということ(お接待の心)が、自然に子供の世界にも組み込まれていた。

 (イ)乗りぞめ

 漁師町では、正月の行事として広く行われているものに、船の『乗りぞめ』がある。
 「ここには、特別な風習があったんですよ。乗りぞめいいましてね、正月2日の朝暗いときに、たくさんある和船の持ち主たちがそれぞれの持ち船に、船霊様(ふなだまさま)という船の神様に酢のもの、お酒、餅(もち)、お金を持っていってですね、お供えをするんです。そして、持ち主が船霊様を手をたたいて拝んでしまうと、お供えしとるものを子供らが、自由に取っていいという習慣があったんです。そのために、子供らは正月の朝は、暗いうちに起きて、船霊様のお供えをいただくために、船から船へとび移っては、いただきよったですね。一つの船に、5、6人の子供らがたかって(集まって)、『次は、あの船じゃ、この船じゃ』といってやっていました。この風習は、戦前までありましたが、和船から動力船になったことや、船主自身そこまでする人がいなくなり、戦後なくなってしまいました。」と、昔の子供たちが、いきいきと活動していたことを**さんは語った。

 ウ 海の風俗史

 夏は、海の季節である。大島は、都市にも近く、透き通るような紺碧(こんぺき)の海を持つ格好の海水浴場である。昔の、海水浴の様子を、**さんに聞いた。
 「昭和32年(1957年)ころには、宇和島運輸の別府航路のあかつき丸、第十四宇和島丸、別府丸が、宇和島・別府・八幡浜さらに松山からの海水浴客を乗せて、大島の沖合に寄港していました。海水浴客は、大型船が直接接岸できないために漁協の船がでて、中漕(なかこ)ぎして地大島にある海水浴場にピストン輸送していました。一夏で、3万人くらい来ており、一番多いときに、4万8千人来ました。その時には、1日、1,000~1,600人くらい来ており、1,500人くらい来たら、浜が真っ黒になるほどのにぎわいでしたね。浜の家も、島の人が出したり、学校共済が『大島海の家』を設け大島中学校が管理していたこともあります。海水浴客は、町内会単位の団体客が多かったですね。宇和島市からは、朝日町、妙典寺前の町内会や八幡浜市からは、千丈(せんじょう)地区あたりから、70人くらいの団体を組んで毎年のように来ていました。
 戦後のベビーブームに生まれた子供たちが成長し、小学生の数が昭和30年代には急激に増加し、さらに経済が安定化してきたことを反映して、地区あげての海水浴が盛んになり、戦後の第一次観光ブームといえる時代がきました。海水浴客の1割近くは、地大島にある山王(さんおう)神社や竜王神社の神参りを兼ねていたようですね。漁師の船を2、3ばい特船にしたてて、本船から降りてきた観光客を10~20人乗せて大入(おおにゅう)の竜王さんへ、島観光を兼ねて、お宮参りに乗せていっていました。昭和30年代後半になると、陸地部にプールができ、佐島や鼠(ねずみ)島(八幡浜市)にも海水浴場ができ、さらに、松山の方では梅津寺が本格的にやりだし、宇和島方面では赤松海水浴場の開設に伴って、海水浴客は少なくなってきました。現在も夏は海水浴やキャンプ、釣りなどで八幡浜港からお客が来ますが、昔のようなことはないですよ。」と**さんは語った。昭和40年代に入ると子供の数も減り、地域とのかかわりも疎遠になってくる時代へと入っていき、また、交通の便利のいいところに大きな海水浴場もできて、客足も大島から遠ざかっていった。

 エ 竜神伝説の浜

 地大島の南端に大入池(竜王池)という、夫婦竜が住むといわれる殺生禁断(せっしょうきんだん)の2町歩(約2ha)の池があり、その海岸よりの所に、雨乞いと豊漁と航海の安全に霊験あらたかな竜王神社が建っている。その昔、五反田(ごたんだ)(八幡浜)の保安寺(ほあんじ)裏の小池に住む男の竜神が、娘に化身し漁師舟に乗って、地大島の大入池前の浜に降り立ち、そのまま池に住みついたという伝説がある。その浜が昭和10年代までの参拝客でにぎわっていた様子を、**さんに聞いた。
 「竜王神社の大祭は旧暦の6月15日ですが、戦前までは毎年盛大に奉納相撲大会が、竜王神社の境内の海岸に面した土俵で行われていました。選手は、伊方(いかた)・向灘(むかいなだ)・三崎(みさき)・三瓶(みかめ)・宇和島の九島・野村などから力自慢が4、50人くらい来ており、田舎相撲としては大きかったですね。昭和14年(1939年)ころで、優勝すると100円(当時としては破格の金額)くらいの賞金や賞品があったですね。観客は、神社の前の海岸にいっぱいで、伊方からも渡って来ようとする客がたくさんいました。神社の前の海岸の砂浜は、3段くらいに船を着けて大勢の観客でいっぱいでした。海岸には、りっぱな松がたくさん生えており、その松林の木陰に島外からきた商売人が出店をたくさん出していました。地元の者も、スイカを切って売ったり、モモを売ったりしていました。」
 神社の奉納相撲は、戦前には全県的に盛んで、セミプロ的な力士もたくさんいた。今でも、地大島にあるもう一つの神社山王神社のお祭り(旧暦6月19日)には、子供相撲が100年以上も続いて行われている。
 「伊方の方からだったら、旗立ててなあ、満艦飾(まんかんしょく)で来よりましたがなあ。しかし、終戦の年の台風で、何百年もたった大きな松が、全部ひっくりかえってしまいましてね、松林は荒れ果ててしまいました。昔の神域の荘厳さがなくなってしまって、人も来なくなってしまいました。今は、竜王さんのお祭りは、地元の人と周木(しゅうき)(西宇和郡三瓶町)の人が4、50人来て、お参りするくらいで、これといった行事はしなくなりました。ただ、毎年、野村ダムの管理事務所の人が4、5人来ては、御祈禱(きとう)していますよ。今年(平成8年)も、夏の日照りの時にお礼参りやいうて来られたときに、『松山やよそは、最近も水に困った年があったが、うちは、ここにお参りに来ているので大丈夫だった。』と言っていましたよ。また、トロール漁船が漁に出るときには、竜王神社の沖で船を止めて祈願してから出漁していますね。」と**さんは、いまだに根強い竜神信仰が残っている様子を語ってくれた。
 今では、昔の石積みの海岸も少なくなり、そこを住みかとしていたニホンカワウソも昭和30年(1955年)代まではよく確認されたが、昭和40年(1965年)に磯だて網にひっかかって生け捕りにされたのを最後に、姿が見られなくなった。ヤシの実やカイダコ(オウムガイ)の貝殼が打ち寄せられ、夜の岩場には大仏様のイボイボ頭のようにサザエがおり、コンブにアワビがのっているようなロマンに満ちた海岸線も、時代とともに姿を変えてきている。


*4:しんなりが4人くらいで石亥の子をつく。中頭は2、3人で亥の子歌を歌う。頭は2人で亥の子組の総指揮をとる。古頭
  は2、3人で笹持ちと会計と亥の子歌を歌う。

写真2-1-9 左右水浦(そうずうら)から三王島を観る

写真2-1-9 左右水浦(そうずうら)から三王島を観る

平成8年10月撮影