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愛媛の景観(平成8年度)

(2)遊子を変えた婦人部の力

 ア 家計3費目集計活動

 脇坂ナカオさんは、大正3年(1914年)に遊子村水荷浦で生まれ、昭和7年に宇和島高等家政女学校(現宇和島南高校)を卒業して、遊子小学校の代用教員になった。
 昭和14年、隣の集落津野浦にある寺の住職と結婚し、昭和43年(1968年)に遊子中学校を退職するまで、37年間を遊子でくらし、遊子小学校・遊子中学校で郷里の子供たちを教え続けた。退職して1年後、懇請(こんせい)されて遊子婦人会長となり、さらに漁協婦人部長も引き受けた(⑭)。
 婦人部の活動拠点である遊子漁協は、水荷浦の湾奥にあり、すぐ上の魚見の丘から、水荷浦の集落と段畑(*15)が見える(写真1-2-29参照)。「脇坂先生が、最初にやったのは家計簿やけんね。」と**さんが切り出して、粘り強い「家計3費目集計活動」と、婦人部が敬愛する中野国子さん(*16)の「長期生活設計(ライフサイクル)」の話を聞くことができた。
 「家計簿の費目や記帳の仕方を習うてね。すっごくきれいな人で。」と**さんたちが褒める脇坂先生は、「こんなヒールなんか履いてね。白いブラウスでなあ。」と、教え子たちの鮮明な記憶の中にいる。
 「その時には、中野先生から長期生活設計のことも教えてもろとったから。」、「中野先生の、ライフサイクルの考え方が、みんなの中に入っとるからね。あの運動が生まれてきたんよ。やっぱり。」と、ぴったり呼吸が合う。
 **さんが総括的に話す。
 「生活設計というか、ライフサイクルの思いが頭にあるもんやけん、貯蓄推進運動なんかも出てきたのよね。家計簿やったて(だって)一つもつけんのですよ、初めはね。『報告してもらうようにせないけん。』とだれかが言う。ほおっとくと記帳せんからね。そこで、『まあ、そしたら。』と費目の選定も脇坂先生とわたしとでね、一応考えたんよ。社会性のある問題で、あまりプライバシーに触れんものはないかと。教育費に交際費、これをやらなんだら生活改善にならんじゃないかと。それから医療費、これは健康に関することでみんなの問題じゃと。まあ、いろいろあったけんど、三つの費目が決まったわけです。」
 婦人部の会合にいつも同席した**さんは、企画には必ずアイデアを出している。その上に、脇坂部長さんの後押しがまた強力である。「なんで報告せにゃいかんのぞ。」という質問に対しても、脇坂さんの説明を受けて、「あんたらな、家計簿つけるちゅうのは、あなたの歴史を記帳しとるんですよ。あんたの足跡を刻み込みよんじゃ。みんなつけっ放しじゃないか。それをみんなが集めて、トータルを出したら、生活実態が分かるじゃないか。」と押し切る。「無理やりでしたね。徹底するのに難儀しましたよ。」
 遊子の女性たちが、これだけは報告・集計して、生活改善の資料として役立てようとした「家計3費目集計活動」が、昭和53年(1978年)の第5回全国婦人水産業従事者グループ活動実績発表大会で報告され、水産庁長官賞を受賞した。「家計3費目集計活動」が軌道に乗った昭和48年からの、5年間の活動実績にすぎないが、女たちの提案によって変わっていく遊子の姿がよく示されている。『新しい出発』第2号(⑮)に、発表した全文があるので、以下にその一部を引用する。

 (ア)交際費と進水式の改善

 小矢野浦では、5年間だれ一人欠けることなく、3費目の集計活動が続けられており、発表資料も小矢野浦の集計に基づいて行われた。
 交際費の1家平均支出高が、24万2,350円、最高で48万8,280円(いずれも昭和51年)で、昭和48年に比べて212%と、1家平均で倍増した。水揚げ高も伸びていたが、冠婚葬祭の支出が目立った。
 婦人部としては、生活改善の一環として、漁船の進水式の改善を重点的に手がけた。遊子にはそれまで、お祝い事には主客の世帯主のほかに女子客があって、主客には宇和島から仕出し料理を取り寄せ、女子客は自分たちの手作り料理でお祝いをする風習があった。
 進水式には町からの仕出しをとらず、手作り料理に決めた。その結果、招待範囲も親子兄弟程度に少なくしたり、家に招待するのではなく、新造船の船着き場で仕事仲間が集まってお祝いするという例ができ、改善が進んできた。

 (イ)医療費と公休日・健康体操

 同じく小矢野浦では、4月~7月の漁繁期には出費が少なく、8月以降に通院やマッサージ通いで出費が多くなっていた。ハマチ稚魚の採捕から育苗期、真珠の施術(せじゅつ)期(玉入れなど)の長時間労働や姿勢の長時間維持から蓄積された疲労が、8月以降にどっと出ることを示すものであった。
 1家平均の支出額は10万2,899円、最高は46万4,420円で、昭和48年に比べて、昭和51年は193%に増加した。
 自然条件が相手の漁業では、労働の偏りを平均化することができないので、婦人部は月1度の公休日を提唱した。これについては、運動が地域全体に広がり、村議会で可決された。発表の時点では、第1日曜日と20日の月2回、公休日が実施されている。
 残りの28日間をどうするかを役員会で話し合い、ラジオ体操を生活の中に取り入れることを考えた。船の上でも、小割いかだの上でも簡単にできる体操をと小学校や公民館に相談した。自治会でこれを取り上げ、昭和51年の9月に健康体操が考案された。なかなかの好評で、現在も続けられている。

 (ウ)教育費と貯金

 同じく小矢野浦でみると、昭和51年の平均支出額は24万4,712円で、絶対額では一番高く、最高は59万3,657円であった。高校生になると、下宿させての進学になるため、1か月平均4万1,492円となり、さらに大学進学となれば負担増となる。
 婦人部では、子弟の教育費が増加する傾向にあることを考え、ライフサイクルを企画し、それに備えた貯蓄をしようと、3か年契約のジャンボ積立貯金を勧めることにした。
 1か月の掛金を金額別にみると、昭和52年8月現在では次のようになっている。
 5千円までが164口、5千円~1万円が37口、1万円~5万円が31口、5万円~10万円が74口、合計306口を、婦人部が毎月集金に回っている。昭和60年の脇坂さんの体験発表までには、貯金額が2億4千万円に達していた。

 イ 輪の広がりと政策決定への参加

 遊子漁協婦人部がこれまで積み重ねてきた体験発表や実績報告は、極めて先駆的で時代を先取りし、しかも一貫して長期展望に立ち、遊子の将来を見据えている。役員が交替しても発表者が変わっても、終始一貫している。しかも、これらが単に、過去の優れたリーダーたちの実績にとどまることなく、営々と引き継がれて、一層発展していくことがすばらしい。
 昭和57年(1982年)の、登記華恵部長さんの体験発表「新しい出発(たびたち)とグループ活動」には、漁協婦人部自らが、機関紙『新しい出発』に触発されて変身していく様子が、簡潔に述べられている。輪の広がり、グループの結成は、目を見張るばかりである。
 若妻会(結婚して、子供が小学校入学までのお嫁さんの会、59人)が昭和52年に結成された後、2年後の昭和54年には、婦人部の籍をお嫁さんと交替した59歳までのお姑さん(60歳で老人クラブ入会) 138人で、ひまわり会が結成されている。『新しい出発』第2号、「姑から嫁へ」が発行された翌年のことである。
 若妻会の、物おじしない行動力・発言力・率直な物の考え方・素直な気持ちに加えて、戦後の苦しい時代を乗り切ってきた知恵ざかりの40代・50代でひまわり会を組織し、それぞれにふさわしい活動を重ねて、遊子の婦人部を支える両輪ができた。このことが刺激となって、もう一代先輩の55人が、豊富な経験を生かした学習会の取り組みに工夫を凝らしているところだと報告している。
 さらに遊子では、女たちの会合のことや活動の中身が地域の話題になる中で、男子の組合員OBが刺激され、55~65歳の人たちで「漁協友の会」が昭和55年(1980年)に結成されている。
 こうして、遊子の人々の心は、海に向かって一つになっていった。
 遊子漁協婦人部の歴史で、今一つ見逃せないのが、最近ようやく言われはじめた「女性の政策決定への参加」である。昭和53年ころから、行政推進懇談会や漁協組合長・婦人部合同役員会、婦人会・農協・漁協婦人部合同役員会などが目立って登場してくる。これらの会合については、まだ発表を見ないが、婦人部の活動を推進していく中から自然に発生したものと思われる。活動の成果が一つの自信となって新たなエネルギーを生み、政策決定に参加する道が開かれたことを物語るものである。
 力強い石けん運動を展開しながら、徹底した家計簿記帳活動を進め、短期間で立派な花を咲かせる遊子の婦人部を、夫たちも見直さざるを得なくなってくる。また、「家計3費目集計活動」の成果が公表されてからは、近郷近在の団体や企業が婦人部の活動成果を見逃がすはずはなく、外部から遊子を訪ねる人が増えている。遊子の女たちは、その忙しさを逆手にとって、自らにプレッシャーをかけて研さんを重ね、婦人部を一回りも二回りも大きくしていった。

 ウ いのちなる海

 海によって生かされる。海にしか生きるところがない遊子の人々が、イワシ巻網漁から魚類養殖・真珠養殖の養殖漁業へ転換して、海を畑と見るようになった。モジャコ(ハマチの稚魚)を採捕する海域を除けば、目の前の海が生産の場になって、漁家のくらしは人間性を取り戻し、豊かにもなった。昔と違って、後継者の嫁も地域外から来てくれる村になった。
 しかし、遊子の人々は海の恐ろしさを知っている。昭和31年(1956年)ころからのイワシ網の倒産、昭和48年のハマチ大量死を身をもって体験した。
 山-川(里)-海と結ばれる水の循環系の中で、山が海岸へ迫るリアス式海岸にあっては、海は即、里であり、台所は海に直結する。
 海は生命(いのち)である。海は水をつくり、大自然のすべてを潤す(写真1-2-30参照)。今を生きる人々ばかりでなく、限りなく続くであろう子々孫々に至るまで、いのちなる海を汚してはならない。
 この思いが、遊子の女たちを、他にさきがけて立ち上がらせた。そして、遊子の人々は老いも若きも、今は心を一つにして海に向かっている。
 一方、漁協では、昭和53年(1978年)に「むらの憲法」を制定した。
 その第4条には、共有財産である海の生産力を保持する義務、清らかで豊かな海を子々孫々に伝える義務がうたわれ、第21条では、地域での連帯と協同の生き方を、自発的な協同活動を通して学ぶことを強調する。
 婦人部をはじめ、漁協が足並みをそろえて海を守り海を育てる営みも、行き着くところは人である。自然に対する感謝と祈り、そのことを、海が教えているように思われる(写真1-2-31参照)。


*15:水荷浦の段畑については、第4章で詳述されている。
*16:県の水産課に所属し、生活改善指導普及員として農漁村に出張、漁協婦人部の結成や生活改善の指導で活躍した。遊子
  を第2のふるさととしている。

写真1-2-29 遊子の段畑風景(水荷浦)

写真1-2-29 遊子の段畑風景(水荷浦)

ここで作られる早出し馬鈴薯(ばれいしょ)は10㎏当たり5,000円(平成8年)で取り引きされた。平成8年7月撮影

写真1-2-30 いのちなる海

写真1-2-30 いのちなる海

**さんの詩「いのちなる海」は、大いなる自然に生かされるよろこびと海への感謝、生きものたちへの祈りをうたいあげている(魚見の丘)。平成8年7月撮影

写真1-2-31 遊子の魚貝藻類供養塔

写真1-2-31 遊子の魚貝藻類供養塔

近代的なモニュメントは、海の宝石・真珠をたなごころにいただいた人間の合掌する姿を表現する。平成8年7月撮影