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愛媛の景観(平成8年度)

(2)宇和海の小島に生きる

 宇和海は、狭義には佐田岬半島から由良(ゆら)半島までの海域を指すようであるが、一般的には、宿毛(すくも)湾も含めた広い海域とされている。海岸は沈降性のリアス式海岸で天然の良港が多く、真珠やハマチなどの養殖漁場が形成されてきた。この海域に浮かぶ大島(八幡浜市)、九島、嘉(か)島、戸島(宇和島市)、御五神(おいつかみ)島、竹ヶ島(津島町)などの島の中から、戸数が変わらない竹ヶ島に焦点を当てて、島のくらしぶりを、来島海峡の馬島・小島と比較してみることにした。

 ア 変わらない島の戸数

 竹ヶ島は、津島町(北宇和郡)の地方(じかた)から西方5kmの沖に浮かぶ島で、面積が37ha、島の最高点が172mと高く、周囲は険しい海食崖(かいしょくがい)(*8)に囲まれている。島の北東部に砂嘴(さし)(*9)の発達する小平坦地があり、ここに集落がある。
 島の開発は元禄13年(1700年)(⑨)で、来島漁民が小島へ入島したのと同じ年に当たる。宇和島藩屈指の大庄屋で、下灘(しもなだ)浦のうち串灘(由良半島の北側)一円を領有することを藩主から認められた赤松家の所領であった(⑩)。
 竹ヶ島の草分け住民の由来は明らかでなく、島民の伝承では淡路島の漁民の移住によるとも、旧家の清家の家は日振(ひぶり)島より来島したとも言われている。いずれにしても、宇和島藩の収入源として保護奨励された、イワシ網漁の漁場に浮かぶ小島として、網元たちに注目されたことは容易に想像できる。
 集落の戸数は、明治中期26戸、大正年間28戸、昭和28年25戸、同48年26戸(すべて教員世帯を除く)となっており、明治・大正・昭和にわたって変化がない。昭和35年(1960年)以降の高度経済成長期にも戸数がほとんど減少しない、離島としては特異な存在であった(⑩)。

 (ア)うすでイワノリをひく

 **さん(北宇和郡津島町竹ヶ島 大正8年生まれ 77歳)
 **さん(北宇和郡津島町竹ヶ島 大正15年生まれ 70歳)
 「ここはイワノリがよう付きよりました。旧のお正月から春先までず一っと、女の人が採りに行きよったんです。イワノリは大きいでしょ。それを、貝殼とかブリキのへら(*10)で、こさぐ(岩からはぎとる)んです。」と**さんが、採藻の一つを話してくれた。
 イワノリ(メノリ、黒ノリともいう)は、テングサとともに、竹ヶ島の女性が取り組んだ、伝統的な磯付漁業の採藻品目であった。
 『過疎地域の変貌と山村の動向(⑪)』によると、竹ヶ島の磯は、3か所に区分され、集落を三つに分けた磯組(鼻前、中前、奥前)が、割り当てられた磯で採藻し、利用区は毎年交替して、3年で一回りした。
 輪番で選出される各磯組の世話人の協議によって採藻の日時が決められ、各戸から婦人一人ずつが出て採取したメノリは各戸に平等に配分する。分配されたメノリは各戸で製品にされ島内で販売される。販売代金は婦人の臨時収入であり、晴れ着などをつくる人もいた。1960年代になって、メノリの付着が悪くなったというが、昭和43年(1968年) で1戸平均3万円の収益があった(⑪)。
 **さんに続けて聞く。
 「大きいかごヘイワノリを入れるんですが、そこでは砂落としが十分できませんけん、家へ持ち帰って塩水で、何回も何回も砂を落とすんです。ノリが大きいので、包丁で叩(たた)いておいて、水に漬け、塩をしておきます。そうして、粘うなったのを、米や麦をひくように、うすでひくんです。朝の早うから。ほたら(そうすると)、きれいに細こうなってなーし(なぁ)。」
 「女の人はようやるもんよと思いよりました。」と**さんが補足する。その**さんにも、ノリの天日干しを手伝わされた思い出があった。うすでひいたノリの粘い液に、水を適当に加えて、杓子(しゃくし)でこもに張っていく。「昼までに乾かさんと、ええ品物にならんとね。朝もまだ暗いうちから、こもをボンボンボンボン(干し場へ)広げていった記憶があらい。」と**さんが言えば、**さんが「お天気のええ日に早く干さんと乾かんもんですけん、朝も疾(と)うからやるんです。」と言う。
 朝が早いのはまだしも、**さんがつらかったのは水くみだった。庵寺(あんでら)(かつては小学校の教室として使われたお堂、今は無人)の近くにある共同井戸で、つるべでくんで担うのは女の仕事であった。「わたしら嫁に来たらなーし、おいもを蒸す(釜の)下を焚(た)きつけとっては、水をくみに行くんです。食べる水もお風呂の水も。」
 海水の淡水化装置も17、8年前に導入されたが故障が多かったと**さんは言う。しかし、山財(さんざい)ダム(昭和56年完成)のお蔭で、きれいな水が海底送水管で送られるようになって、水の問題は解消した。

 (イ) 段畑耕作と一本釣り・建網

 **さん(北宇和郡津島町竹ヶ島 大正8年生まれ 77歳)
 **さん(北宇和郡津島町竹ヶ島 昭和21年生まれ 50歳)
 竹ヶ島はもともと半農半漁の島であり、昭和28年(1953年)ころには、漁業と農業の収人は相半ばしていた(⑪)。
 耕地は南予特有の段畑であり、172mの山頂近くまで開墾した。農家ごとの耕地は数か所に分散しており、漁村として開けた竹ヶ島の集落が、自給食糧確保のために、集落背後の山林を長年月にわたって開墾していったことがうかがわれると同時に、このような耕地の利用形態は、耕地の肥よく度に差異のあるところでは、農民間の不平等を防ぎ共同体を維持するうえで現実的な意義を有していた(⑪)ものと考えられる。
 段畑耕作は主として主婦の仕事であったが、磯組のような集落ぐるみの共同作業はなく、ただ畑仕事が遅延したときに、親せきの者に手伝ってもらう程度であった。畑作の伝統的な作物はサツマイモと冬作のムギで、昭和30年(1955年)ころまではほとんど米は消費されなかった。
 そのころの半農半漁のくらしを、**さん・**さん親子に語ってもらう。
 「山林になったところへ入ってみますと、段畑の跡が残っているから分かるんですが、すでに見捨てられたところ、植林したところも含めて11町(1町は1ha)余りでしょうかね。実際は9町9反が耕作反別じゃろうと思うんです。
 半農半漁いうてもね、農家の収入のほうが多いかったです。畑を大部持っとる者は7反(70a)もその上も、少ない人は1反か1反半。だから畑が少ない者は、どうしても沖でもうけるしか仕方がなかったんです。子供らでもよく使いましたねー。今になってみるとそう思います。」
 息子の**さんが話す。「わたしらも、小学校の4、5年ころから夜、漁に連れていかれよったです。別につろうもなかったけん、それが当たり前やったけんな。」と言いながらも、「おやじに怒られながら、逃げ回ったりした。学校からもんて『これは逃げないけん』と思うても、おやじに先回りされて、連れていかれた。」と本音も出る。
 網(建網)の入れ方も習ったという**さんであるが、10歳ほどの子供の手も必要な網漁であった。**さんは、「当時は下灘漁協自体があまり漁業が発達せず、戦後になってやっと漁業の技術や漁法を習いましてねー。サワラ漁なんかをやりだしてやっと豊かになったんです。それまでは貧しかったけれど、周りが(周囲の人もみんな)そうですから、貧しいとも思わずにね。沿岸の漁村もみな同じじゃったですよ。」
 大正7年(1918年)に、旧庄屋の赤松家から島(宅地と耕地)を1万円で地元が買い取った。竹ヶ島の住民は、これを機に自立していくのであるが、そのころの1万円は大変な負担で、「そんな金を出さないかんのじゃったら、どこかへ引っ越そうか。」と、土佐(高知県)の方まで見に行った人もあったと、**さんは聞いている。貧しい時代は、自立後もかなり続いたようである。

 イ 真珠養殖で変わった竹ヶ島

**さん(北宇和郡津島町竹ヶ島 昭和17年生まれ 54歳)
**さん(北宇和郡津島町竹ヶ島 大正8年生まれ 77歳)
**さん(北宇和郡津島町竹ヶ島 昭和21年生まれ 50歳)
**さん(北宇和郡津島町竹ヶ島 大正15年生まれ 70歳)
**さん(北宇和郡津島町竹ヶ島 昭和35年生まれ 36歳)

 (ア)小学校と自然環境

 竹ヶ島小学校の創立は明治11年(1878年)で、津島町の小学校の中でも歴史が古く、最初は「開進学校」の校名で、現在の庵寺で住職が教授した。いわゆる寺子屋である。昭和39年(1964年)に制定された校歌に、「竹は緑の若竹小竹」とうたわれている。この竹は、島全体に生えるメダケ(写真1-2-19参照)を指し、若竹のみずみずしい緑が、元気な竹ヶ島の子供を象徴しているものと思われる。
 島の名前になるほどの夕ケであるが、『竹ヶ島の自然(⑫)』には、次のような昭和52年(1977年)の記事がある。
 「竹ヶ島の由来は、島のいたるところにメダケがあることから名づけられています。昭和の初期には、このメダケが干物(ひもの)やメザシの串になったり、タバコのパイプにするため、大阪の商人が船で買い付けに来たということです。」とあり、メダケは活用されていた。
 **さんは、校長として竹ヶ島小学校へ赴任して今年で2年目を迎える。今年度は、全校生徒が8人になって、教頭さんが増員になったため、**さんの授業はなくなった。しかし、俳句教育は継続しているようで、教室にも廊下にも、児童の作品が見受けられる。「子供たちの感性はすばらしいですよ。一人一人の感動を、何とかして表現させてあげたいと思って、『こども俳句』に取り組んでいるんです。」と**さんは言う。
 「校長先生、ホタル見に行こう。」と誘われて、清流もなければニナもおらぬ竹ヶ島にホタルがいることに、**さんは大変驚いた。子供たちと一緒に出かけた**さんは、港をぐるりと回る舗装道路を、陸繋島(りくけいとう)の高島の方へ歩き、道越(みちごえ)の手前に出たところでホタルが乱舞するのを見た。そこにはダンチク(タケの1種、半島や島の海岸でよく見る)が密生し、海岸から山すそに向かって入り込んだ比較的平坦な草原がある。島のホタルに感動した**さんが、子供たちに俳句を作らせたことは言うまでもないが、理科を専攻した**さんは、「何でおるんやろ。生態を調べてみなければ。」と思っていた。いろいろ話しているうちに、陸産貝のカタツムリ(マイマイ)の幼虫を食べるヒメボタルであることが分かった。
 「こども俳句」を通して、竹ヶ島の児童はもちろんのこと、若い親たちも先生も、この島の海や空のすばらしさを、再発見しているようである。
 竹ヶ島には、ネコが多い。
 それはかつて、ドブネズミが南予一円に大発生したときに、竹ヶ島ヘネコとイタチが導入された(*11)ことによる。
 **さんの話。「イタチは水飲み場が必要で、コンクリートの小さい水たまりを何か所も作ったんですが、結局いなくなりました。ネコはね……、今はネズミと遊びよりますらい。」食べ物に困ることもなくなり、人間の保護下にある島の野良猫は、すでに野性を失っているという。

 (イ)移り変わる竹ヶ島の景観

 明治以来、戸数にほとんど変動をみない竹ヶ島であるが、イワシ漁が行われた半農半漁の時代から真珠養殖漁業の時代へ移るなかで、集落を包む竹ヶ島の景観は大きく変貌した。
 昭和初期の竹ヶ島集落は、強風に備えた家屋の低い屋根と周囲を取り巻く石垣が目を引く。大きな屋根が小学校(下灘第一尋常高等小学校の分教場)と思われる。学校の沿革をみると、前年の昭和7年に、初めてオルガンが購入されている。また、集落後背地の段畑がはっきり見える。
 昭和32年(1957年)は、家屋が全般に大型化して、小学校のグランドのほかは空き地が少なく、港湾が整備されている。現在は納屋として使用されている小型の養殖作業場はまだ見られない。防波堤の内側にも外側にも、自然の浜が残っている。
 現在、下灘漁業協同組合真珠協議会の理事をしている**さんが、竹ヶ島のくらしが豊かになったのは10年ほど前からだと、次のように話す。
 「最初、養殖は、母貝(アコヤガイ)の養殖から始めたんです。真珠養殖が入ったのは最近のことで、母貝と真珠養殖の比率は半々くらいでしょうか。真珠が入ってから経済状態が急によくなりました。
 母貝の生産は宇和海がほとんど引き受けており、昔の産地三重県からも注文があるんです。過密養殖が続いたためか、あちらのは特に品質がよくないようです。昭和40年(1965年)ころは、竜串(たつくし)(高知県土佐清水市)の方まで稚貝を買い付けに行っとったんです、貝が大きいので。隣の内海村も稚貝養殖を以前から手がけておりましたが、土佐の方が、水温が高いためか貝が大きかった。」
 竹ヶ島の自治会長をしている昭和35年生まれの**さんは、「うちらも、僕が20歳過ぎのころは母貝やりよったんです。」と言う。二人の話を重ね合わせると、竹ヶ島では、昭和38年の真珠養殖導入から約20年間は、母貝養殖が続いたようである。
 その間に、**さんの家も鉄筋2階建てに、**さんもというように、集落の家屋が建て替えられていく。旧作業場の前が埋め立てられて、近代的な作業場が16戸分建てられると、竹ヶ島の景観が一変するのである(写真1-2-22参照)。
 『竹ヶ島の自然(⑫)』は、母貝養殖にも触れて、竹ヶ島のアコヤガイを褒(ほ)めている。
 「アコヤガイは、高知県で採取された稚貝を6月に買い取り、45cm角のネットに貝を入れて海水中につるし、核入れができる約37gになるまで2年余りかけて養殖します。貝の表面にフジツボや海藻がついて成長をさまたげるので、年に7、8回、貝を圧力海水で掃除します。竹ヶ島のアコヤガイは、自然環境のよさから病害虫が少なく、高値で取り引きされ、主に三重県へ出荷されています。」

 (ウ)今はない離島の意識

 対岸の集落小日提(こひさげ)から5km離れた宇和海の孤島竹ヶ島が、船でどのように地方(じがた)と結ばれていたかを聞く。
 「定期船のような、そんな船は昔からありません。以前はね、宇和島と御荘(みしょう)(南宇和郡)の間を、2はいの船が交互に運航されとったんです。こちらに(定期船が)必要なお客さんがあると、山の上へ旗を立てて、旗で合図をして入港してもらいよったんです。それ以外には、わたしらの時代からありませんし、昔もありません。」と最年長の**さんが説明する。
 急病人が出たときはどうしたのかを尋ねると、意外にも、「わたしら時代には、少々悪うても、今のようには病院へは行きませなんだぞ、なあ**さん。」と同意を求めて、「いよいよ悪うならなんだらなぁ。」と、病院通いはなかったと言う。島であるがために、医者が間に合わず死んだということは、物心ついてから知らぬと**さんは重ねて言う。
 **さんも、「お産もなーし、素人の産婆さんでハッハッハッハッ。」と笑って済ますと、**さんが、「素人いうても、最近の病院長よりは偉い。」と補う。**さんは続けて、「わたしも子供を6人産みましたが、5人はそのお婆さんに取り上げてもらいました。みんなそうでした。お正月にお祝い(餅)を一重(ひとかさね)お礼に上げてなーし。」と言う。島の人たちは随分と我慢をしたものである。もちろん、置き薬は、昔から富山県のものが入っている。
 今は、自家用船(写真1-2-23参照)がほとんどの家にあり、自家用車をとめている津島町の近家港まで15分で行くことができる。自治会長さんに頼めば、これらの自家用船を特船(チャーター船)として派遣してもらえる。しかし、住み込みや通いの技術者・作業員を雇ってサラリーマン同様の労働形態をとる真珠養殖業者にとっては、特船を割り当てられることをあまり喜ばない。
 自治会長をしている**さんは、「公休日(日曜日、次の週は月曜日と交互に休む。北灘漁協管内は一斉)に、津島町がチャーター便を出してくれます。朝8時に出発し、帰りは近家港15時出港の渡船なんですが、月曜日の場合は銀行や病院、役場などへ行けるわけです。お年寄りも結構乗船します。」という。
 今年(平成8年)の7月、診療船「済生丸」(160t)が松山・今治・西条の済生会病院から大勢の医師と看護婦を島に運び、今年度2回目(最終回)の巡回診療が行われた。当日は、朝の島内放送が流れ、やがて津島町役場から保健環境課の職員が到着して会場を設営し、午後の診療に備えた。診察・治療のほか、健康相談、栄養相談、生活相談なども行われ、島民のほとんどが公民館と小学校へ出向いた。
 自家用船や自家用車が普及した今、竹ヶ島の人々にはもはや離島の感覚はなく、宇和海の孤島とはいえなくなったものの、今でも済生丸の巡回診療を老人のみならず島の人々が心待ちにしているように思われる。


*8:潮流や波浪などの海水の運動により、浸食されてできたがけ。
*9:沿岸流によって運ばれた砂礫か、湾の一方の入口から、海中に細長く堆積して堤状をなすもの。
*10:竹・木・象牙・金属などを細長く平に削り、先端をやや尖らせた道具。
*11:昭和35年(1960年)から37年にかけて、毎年1千万円以上の県のネズミ駆除費が見込まれ、35、36年には60万匹から
  170万匹の推定殺鼠数があげられている。天敵としてヘビやネコ、イタチさらにフェレット(北欧系飼育白イタチ)などの
  導入も試みられた(⑬)。

写真1-2-19 メダケと段畑

写真1-2-19 メダケと段畑

集落後背地の、放棄された段畑はメダケの竹林の中に、わずかに石垣をとどめる。平成8年7月撮影

写真1-2-22 早朝から活気づく真珠養殖作業場

写真1-2-22 早朝から活気づく真珠養殖作業場

背後の山腹はかつての段畑、メダケが密生している。平成8年7月撮影

写真1-2-23 くらしと文化を運ぶ自家用船

写真1-2-23 くらしと文化を運ぶ自家用船

竹ヶ島と近家港を15分で結ぶ。自家用車は岸壁に駐車(近家港にて)。平成8年7月撮影