データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)今治地方のタオル

 今治市は高縄半島(たかなわはんとう)の北東部に位置し、古くから海の要衝である来島海峡に臨む今治港を中心に発展した商工、港湾都市で、タオル、造船の町としても有名である。西瀬戸自動車道の全通まであと3年(平成10年完成予定)。新しい時代の幕開けを告げる来島大橋建設の槌音(つちおと)も高い。
 タオルは、明治初期にイギリスから輸入され、「西洋手拭(てぬぐ)い」と呼ばれ高級品扱いされていた。タオルと呼ばれるようになったのは、大正初期のことで、日常必需品として、「日本手拭い」にとって変わったのは戦後の高度経済成長期である。今日では、ファッション、インテリア用品など幅広くわたしたちの生活を演出してくれている。
 平成6年に産地100周年を迎えた今治タオルは、昭和35年(1960年)から生産額で大阪を抜き、以来日本一の座を占め続けている。
 今治タオルの産地では、タオル製造業者は、今治市に70%(越智郡を入れると80%)が集中している。生産は早くから分業体制が確立され、タオル製造以外に関連加工業者が多数存在している。それぞれに固有の技術をもって相互に連携し、全国シェアの60%を占めている。今治市内でみると、従業員も、タオル製造が4,100人、関連の加工業者を入れると、6,600人となる。これに内職を加え、さらにその家族を合わせると実に今治市の人口の約2割がタオルにかかわっていることになる。
 工業出荷額においても、タオル及び関連加工業は今治全体の約半分を占め、地域経済にとって重要な地位を占めている。昭和33年(1958年)からのタオルの生産量の推移は図表2-1-10のとおりである。
 日本へのタオルの輸入としては、明治5年(1872年)大阪税関の輸入品目の中に「浴巾(よくきん)手拭い2ダース、7円60銭」と記録が残っているのが、公式のものとしては最初である(⑨)。当時、イギリスから輸入された綿タオルはその暖かさと柔らかい肌ざわりのためか、首巻きにも使用されたという。
 日本におけるタオル製造のはじめは、明治13年(1880年)ころ、大阪の井上コマが竹織(たけおり)のタオルを作ったのが最初である。明治21年(1888年)大阪の機業家(きぎょうか)、中井茂右衛門によって浴巾手巾(しゅきん)織機(打出機)が考案され、日本のタオル界に画期的な変革をもたらした。
 今治のタオルの歴史をひもといてみると江戸時代半ばころ今治地方で、白木綿(綿織物)が生産されるようになった。明治に入ると白木綿がしだいに衰退していったため、明治19年(1886年)に綿ネル製織(*18)を開始した。
 今治タオルは、明治27年(1894年)、今治の機業家阿部平助が今治市内で、綿ネル織機を改造した4台の織機で創業したことに始まる。綿業地今治にタオルの種子をまいた功績をたたえるとともに、その創業の苦心を心の糧とすべく、今治市の旭町のタオル会館前に彼の胸像が建てられている(写真2-1-6参照)。
 当産地が躍進の道を歩む原動力となったのが中興の祖といわれる麓常三郎(ふもとつねさぶろう)と、中村忠左衛門(なかむらちゅうざえもん)の二人である。麓常三郎は白木綿の手織機を改良し、タオルを同時に二列製織できる二挺式(にちょうしき)バッタンと呼ばれる高性能のタオル織機をつくり、生産性と品質を大幅に向上させた。中村忠左衛門は、従来の原糸をそのまま織って晒(さら)すのに対して、先に原糸を晒し、一部色糸にして縞模様を織り出す先晒縞タオルを発明した。タオルは、白いものであるというところに縞模様が出てきたので人気の的となった。
 さらに、大正14年(1925年)に今治市の愛媛県立工業講習所(後の染織試験場)の菅原利鑅(すがわらとしはる)技師(在職大正11年〔1922年〕~昭和21年〔1946年〕)がジャカード機(複雑な紋様を織りだす機械)を力(りき)織機に取り付けて製織に成功、これが今治地方における紋織(もんおり)タオルの初めであり、全国一のタオル産地への端緒となった。菅原は山形県の出身であるが、退任後も今治市にとどまり、タオル業界の指導と技術者の養成に努めた。
 戦時体制下には、設備、原糸の質および量の統制がしかれ、タオル織機の供出、転廃業、企業合同が断行された。昭和20年(1945年)8月5日の今治市の空襲により、9企業275織機を残すのみの壊滅的状態となったが、戦後その廃虚から当産地は復興し、全国一の座へ挑戦する。戦後の復興時に織機の更新が進んだ。また、原糸の割当て制もあり、輸出に活路を見いだそうとして製品の高級化を目指したが、それが高級ジャカードタオルの産地となった理由の一つである。
 昭和29年(1954年)から中小繊維事業者保護と市況の維持を目的として、織機の登録(*19)制が実施された。そして、高度経済成長期(昭和30年代前半~40年代後半)の都市化の進展や、生活の洋風化により、タオルは日本手拭いに完全にとってかわった。この時期に、ヒット商品といわれるタオルケットが誕生し、その需要の急伸が、高級品に力を注ぐ当産地に有利に働き、今治をタオル生産全国一の座に押し上げたといえよう。この時期はまた、発展途上国の台頭により国内市場への依存度が高まるとともに、高度経済成長期の需要の増大にともない無登録の織機が増え、市況の安定のため過剰になった織機の処理の問題がおこった。
 オイルショック(昭和48年〔1973年〕)以降、安定成長期に移り、市場は成熟段階に入り、消費者ニーズも多様化してきた。規制緩和の流れにより、平成5年には織機の登録制度の廃止が決定されたり、円高などを背景とする輸入タオルが増加(国内シェアは30%を超える)した。こうした内外の環境変化に対して、平成6年に産地100周年を迎えた四国タオル工業組合では、「生かせ100年、めざせ1,000年」のスローガンのもと、産地の現状をふまえて、将来の構想を描く、「産地ビジョン」を策定するなど、産地100年の伝統を生かした、タオル新時代に向けての取り組みが進められている。


*18:綿のよこ糸に、大き目の糸や、よりのあまい糸を織りこんでそれをけばだたせる。
*19:中小繊維事業者保護と市況の維持を目的として繊維産業の設備の新増設、新規参入を禁止する制度。

図表2-1-10 タオルの生産量の推移

図表2-1-10 タオルの生産量の推移

45年から54年は検査量より推計、他は綿糸使用量より算出『愛媛県染織試験場記念誌(⑧)』および、四国タオル工業組合提供資料より作成。

写真2-1-6 阿部平助胸像

写真2-1-6 阿部平助胸像

タオル会館前。平成7年12月撮影