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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(3)祭りを彩る

 ア 牛鬼パレード

 牛鬼は「おしょうにん」(「うしょうにん」「ぶうやれ」ともいう。)ともいわれ、愛媛県南予地方の祭礼に登場する練り物である。牛鬼の起源については、加藤清正が朝鮮出兵の際、これを使って敵を威圧したのが最初だともいい、喜多郡の大洲太郎が牛鬼をつくって猛獣を防いだ(伝説)のが最初であるともいわれ、定説はない。また、『枕草子』の「名おそろしきもの」の段に出てくる牛鬼が引き合いに出されることもあるが、この牛鬼は牛頭(ごず)(仏教で説かれている地獄で亡者を責めさいなむ鬼)のことだというから、祭りの牛鬼と結びつけるのは無理であろう。祭礼に登場する牛鬼は、神輿の先駆けを務め、門ごとに頭を突っ込み悪魔払いをしていく練り物であるから、むしろ獅子などと同じ系統のものだと考えるのが妥当だと思われる。その分布は、「南予一円のみならず、上浮穴郡の小田町、越智郡の菊間町などにもみられる。(⑳)」というが、やはり牛鬼は南予文化圏の代表的な民俗遺産であるといえよう。
 牛鬼は「一般に秋祭りの練り物であるが、宇和島市では夏の和霊大祭にも登場する。(⑳)」特に和霊大祭に併せて行われる宇和島まつりでは、子供牛鬼パレード、親牛鬼パレードが企画され、たくさんの牛鬼が市内を練り歩く。今年(平成7年)は、市役所牛鬼保存会、丸穂(まるお)牛鬼保存会をはじめ各企業・団体、周辺の町などから計14頭の親牛鬼がパレードに参加した。子供たちの吹く竹法螺(たけぼら)(法螺貝のような低い音の出る竹筒)の音の響く中、シュロで覆った牛鬼、布(赤、赤紫、金色)で覆った牛鬼が大きな口を開き、首を振りながら勇壮な練りを繰り広げ、和霊祭りの気分を盛り上げていた。宇和島では、牛鬼と鹿踊り(南予地方の民俗芸能)が出なければ祭りじゃないと言う人もいるぐらい、牛鬼は鹿(しか)踊りとともに祭りの花形なのである。

 イ 親子二代 牛鬼の頭づくり

 **さん(宇和島市大宮町 昭和33年生まれ 37歳)
 **さんは、「宮川はりこ店」の店主、父の跡を継いで郷土玩(がん)具を製作している。特に牛鬼の頭づくりに関しては、『愛媛県の諸職(㉑)』に「牛鬼頭の製作者としては第一人者で、父親から技術を継承し、その後創意工夫を重ねて今日に至っている。現在、市内でも趣味で牛鬼頭を作っている人はいるが正統な技術を継承しているプロは**さんだけである。」と記されている人である(写真3-2-23参照)。
 「わたしは小学校5、6年生のころから父の手伝いをしていました。当時気乗りはしていなかったが、文集で『わたしは大きくなったら父の仕事を継ぎます。』と書いたらしい(あまり記憶にはないのですが。)。それならばということで本格的に見習いをさせられました。しかし、仕事は教えてくれず、そばにいて仕事を見ながらの雑用です。高校生になるころ父の跡を継ぐことを決心し、定時制に通いながら父と仕事を始めようとしたのです。ところが、高校(定時制)に入学して2週間目に父が倒れて入院してしまいましたので、わたし一人で仕事をすることになったのです。教えてもらうことはまず無理でした。それでも入院中の父からたった一つだけ教えてもらったことがありました。色の塗っていない鹿踊り用の鹿の頭を持って病室の父の前で塗ったのですが、どなられる、たたかれる、その時はもう親と子ではなく、師匠と弟子の関係でした。塗り、特に塗った後の毛の描き方が悪いといってしかられました。もっと丸みをつけて描くようにと教えられました。くやし涙を流しながら取り組んだことを覚えています。あとは刷毛(はけ)の使い方を口頭で教えてもらったぐらいです。父はよく『仕事は盗め。』と言っていました。父が倒れてからは、看病しながら、定時制へ通いながら、仕事をする生活でした。父の死は覚悟していましたが、ちょうどわたしが満20歳になる直前に死にました。こんな言い方はよくないのですが、父が倒れたおかげで普通の人より早く一人前の仕事ができるようになったのではないかと思っています。父も草葉の陰でそう思ってくれていると信じています。『若いときの苦労は……』と言いますが、父のおかげでそれをさせてもらったようなものです。
 父の死後ずっと一人で仕事をしてきました。もちろん結婚後は2人3脚です。近ごろ、和紙のはり方では、家内の方が上手になりました。牛鬼や鹿の頭だけでなく、お面やだるまなどもつくります。父の残してくれた型を使います。しかし、お客の注文によって型づくりから始めるときもあります。例えば鹿の頭は地方によって特色があるので、新たに型をつくることがよくあります。牛鬼の頭の場合も同じようなことがありますが、牛鬼の場合は大体お宅の型でよいでしょうと言ってくれます。あとは、角を少し大きくするとか、肉を厚くするとかで済みます。しかし、ちょっと修正するだけで形相が変わります。牛鬼の型には1号から5号まであります。1号が一番大きくて55~60cmぐらい、ただし、耳をつけたり、角を入れたりするとメートル級になります。わたしのつくる牛鬼の頭には、お祭り用と飾り用(魔よけとして玄関先などに飾る)とがあります。宇和島ではほとんどの町内が牛鬼を持っていますが、現在はプラスチックとか段ボールでつくった牛鬼の頭が増えてきました。わたしのところは、昔から和紙ばかりでつくります。父の名前をとって『善男(よしお)ばり』と言っています。このはり方は父が独自に編み出したものです。刷毛を使わずに手を使います。和紙は良質の手すきの泉貨紙を使い、ひげには馬の毛を使います。また牛鬼の頭の中に入れる木の枠もつくらなければなりません。その枠に角の入る穴、お祭り用のものには首の入る穴もつくります。ですから大工仕事のようなこともするのです。祭り用の牛鬼の頭の注文は南予全域はもちろん高知県(県境あたり)からもあります。しかし注文は少なくなりました。わたしのところは注文生産です。小さい民芸品などは別ですが。注文があってからやり始めるのです。品物は出来上がった時点から古くなる一方です。古い品物はお渡ししたくない、最高の状態のときにお渡ししたいと考えているからです。『つくって飾っておきなはいや。すぐにお金になりましょうが。』と言われることもあります。確かにそうは思いますが、やはりわたしにはつくり置きができません。
 自分のつくった牛鬼の頭は見れば分かります。父のつくったものと私のものとではすぐ区別がつきます。やはり父の方がうまい。形も同じ、塗り方も同じ、それなのにどこが違うのか、やっと分かりました。それははり方の違いなのです。父のつくったものは、つるっとした何とも言えない立体感があり、くぼみなどもきれいに出ています。直線や曲線もはっきりしています。ちょっとした違いなのですが、遠くから見てあれは父のだなと思うと、やはり父のつくったものなのです。父の牛鬼の頭の迫力を100とすれば、私のはまだ70というところでしょうか。死ぬまで勉強だと思っています。死ぬまで努力しても父に追い付けないかもしれません。しかし、父独特の牛鬼の顔があるとしたら、わたしはわたし独自の牛鬼の顔をつくり出せばよいと思っています。また父のこしらえた牛鬼の頭よりも大きい頭をつくりたいとも思っています。鹿の頭については客の注文もあって新しい型をつくりましたが、牛鬼やお面なども父の型にばかり頼らず、自分独自の型をつくってみたいと考えています。
 わたしのつくった品物は大阪や東京へもかなり送られています。先般、津島町の人から依頼された牛鬼の頭も東京の方へ送られるとのことです。15、6年前にはわたしのところでつくった牛鬼の頭が海を越えてハワイへ渡りました。そのとき『あんたもつくった本人やけん、ハワイへ行って一緒に騒がんかな。』と言われましたが、よう行きませんでした。実際練り歩いたそうです。故郷を遠く離れている人にとって、牛鬼はふるさとの懐かしい思い出につながるものであり、昔をしのぶよすがになっているのでしょう。」

 ウ 牛鬼に魅せられて

 **さんが本格的に版画に取り組むようになるきっかけは、長野県で行われた版画の講習会であった。
 「わたしは昭和20年(1945年)に復員し、昭和22年に教員になりました。昭和26年でしたか、長野県岡谷市で版画の講習会があり、泊まり込みで参加しました。平塚運一先生(日本の木版画界の草分け)や畔地梅太郎(あぜちうめたろう)先生(愛媛県三間町出身の版画家)など有名な版画家がそれぞれ一つの教室を担当し、好きな教室に来いというような講習会でした。わたしは主に平塚運一先生の教室に通い、版画の基礎的な技術を習いました。わたしが本格的に版画の道を志したのはこのころからです。しかし、そのころは、県展にまだ版画部門もなく、油絵をやりながら版画の勉強をするという状態でしたが、学校では版画教育に力を入れ、いつの間にか版画の先生といわれるようになりました。」
 その後**さんは、学校を辞めて版画の道一筋の生活に入る決心をするのだが、そのとき選んだ版画のテーマが牛鬼であり、そのテーマは小学校のころ先生から聞かされた牛鬼の物語と深くかかわっていたようだ。
 「版画で飯を食っていこうと思い定めたころ、ふるさとのものをテーマにしなくてはならないと考えていました。たまたま入院しなければならなくなり、スケッチブックを病室に持ち込んで牛鬼をいろいろ描いてみました。そのときわたしの頭の中にあったのは、小学校高学年のころ梅ケ成(うめがなる)(宇和島市街と滑床(なめとこ)渓谷を結ぶ峠)に遠足に行ったときに聞いた先生の話でした。『昔、鬼が城(宇和島市と北宇和郡津島町との境にある標高1,151mの山)に牛鬼が住んでいて、夜な夜な村人を食べていた。その牛鬼を桃太郎が退治した。牛鬼が住んでいたのでその山を鬼が城というのである。』という話です。話の好きな先生で、多分先生の創作だったのでしょう。鬼が城のすぐ下の梅ケ成で、鬼が城を眺めながらその話を聞きました。ですから実感があり、鬼が城の森の中の牛鬼という存在が頭にこびりつきました。この話が頭の中に残っていて、わたしも牛鬼の話を童話にしてみようという気持ちがありました。この入院中スケッチブックの中で生まれた牛鬼が牛鬼版画の基になったのです。25年ぐらい前のことです。この牛鬼を人間的に表現してみたらおもしろい版画になると思い、4、5点制作して東京の養清堂画廊(日本で一番古い版画の画廊)へ持って行って見せたところ、『売れます。売ってみましょう。』ということだったので思い切って退職したのです。
 牛鬼の童話については、二つの筋を考えています。それを版画の絵本にしようと思い、牛鬼を絵本の中のように人間的に動かしてみた。それがわたしの牛鬼の版画になったのです。この二つの童話をつくりたいために人間的に動く牛鬼がわたしの頭の中に出来上がったのです。童話の中に出てくる牛鬼は昔話的な古い時代の牛鬼ですが、それを現代にまでもってきて、現代の中で生かしてしまった。『牛鬼君』としていつの間にか自分のそばで生活させてしまった。それがわたしの牛鬼版画なのです。
 牛鬼の目には最初からこだわっていました。昔からの牛鬼の目にしてしまっては、ただ怖いだけになってしまいます。これを現代の絵の中に生かせるような目にするにはどうしたらよいか、そのときピカソの画集を見ました。その画集の絵の中の目をずっと見ていて、キュービズム(20世紀初頭、フランスに起こった絵画の一派)のいわゆるバランスを崩したどっちを向いているのか分からないような目の中に表情を盛り込むことができるものならと思っているうちに出来上がったのが、わたしの版画の牛鬼の目です。しかし、目だけでは顔の表情が出てこないのです。問題は口なのです。口の描き方ひとつで表情はどうにでもなる。表情を出す秘密は口にあるのです。ですから意味不明の顔にしたいときには口をのけるとよい。そうすると何を考えているのか分からないとぼけたような『牛鬼君』になってくれます。人間の顔を書く場合も同じです。怒った顔でも口ひとつで笑います。目とまゆをどんなに怒らせても口の描き方ひとつで笑います。
 牛鬼の起源について加藤清正の話に結びつける説などいろいろありますが、わたしはむしろ鬼が城の存在とか、闘牛のような闘争心の強い牛がこの地方にいたということなどからおじいさんやおばあさんの昔話の中で生まれてきたのではないかと思うのです。鬼が城という名の山が牛鬼と関係があるような気がしてなりません。これはあくまでも想像ですが。とにかく自然発生的に生まれたと考える方がむしろ説得力があるように思います。わたしも当然本物の牛鬼に興味があり、古い牛鬼の頭を見たことがありますが、今の牛鬼とはかなり違います。鹿と牛と馬とを掛け合わせたような顔で、比較的のっぺりとした感じで、多少怖い目つきをしているという程度のものでした。ああ違うなあと思いました。最初は現在の牛鬼ほど怖い顔ではなかったのではないかと思いました。牛鬼はその土地その土地の人が作ったものであり、その中には、何とも言えぬ、まだ牛鬼の形になっていない、いわば、未開の牛鬼とでも言うべきものもありました。」
 牛鬼は人々の想像から創造されたものであり、版画の中の牛鬼もまた**さんの想像の世界から生まれたものである。本物の牛鬼が昔から人々に愛されてきたように、版画の「牛鬼君」も人々にかわいがられるに違いない。**さんの牛鬼版画には夢がある。子供も大人も楽しめる牛鬼を主人公にした童話の絵本の完成が待たれる。

写真3-2-23 **さん製作の牛鬼の頭

写真3-2-23 **さん製作の牛鬼の頭

平成7年7月撮影