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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)西条の秋祭り

 ア 西条市民と秋祭り

 西条祭りは石岡神社(10月14・15日)、伊曽乃神社(10月15・16日)、飯積神社(10月16・17日)の秋祭りの総称で、この期間中市内に繰り出すだんじり、みこしだんじり、太鼓台の総数百数十台、その数の多さに圧倒される。中でも伊曽乃神社の祭礼は西条祭りの花形である。15日早朝の宮出し、16日の統一行動(決められた順番に行列を組み、昔ながらのコースを巡行する。)の途中で見せる御殿前の華麗な練り、そしてフィナーレを飾る宮入りで祭りは最高潮、市民はもちろん、観光客もすべてを忘れて、優雅でしかも豪華けんらんな祭りに酔いしれる。

 (ア)血が騒ぐ

 西条祭振興会長の**さんは、「わたしの住んでいる神拝(かんばい)だけで23台のだんじりがあります。昔は伊曽乃神社関係で30台ぐらいだったのですが、ここ15年ぐらいの間に3倍近くの台数になりました。だんじり1台2,000万円はかかります。それを各町内でつくろうというのですから、俗に言う『お祭りバカ(ダンジリバカ)』なのでしょう。しかしみんな『お祭りバカ』であることを誇りにしています。よその町にできると、『負けたらいくまいがや。』と言ってすぐつくる。すると『あそことあそこができたのにあし(わたし)とこできんじゃのいうことないぞえ、会長さん。』という具合です。現在、担ぎ手の心配はいらないが、以前は氷見(ひみ)(西条市内)まで担ぎ手を雇いに行っていました。」と語る。『西条市生活文化誌』にもかき夫不足で休台や建てておくだけのものもあり、かき夫を氷見、小松(小松町)、神戸(かんべ)(西条市内)などから日給で雇っていた(㉓)という記述がある。また昭和50年代に入ってだんじりが増加することについて、経済力、職人、住民の競争に加え台車の発達によるところが大きい(㉓)と述べている。
 また**さんは「盆、正月には帰らなくて、祭りには必ず帰ってくる人も多くいます。祭りのポスターを早く送ってくれと言ってくる。ポスターを見ながら祭りまで後何日と指折り数えているのでしょう。帰れない人はそれを見て頭の中で想像するのでしょう。」と語っている。
 だんじり研究家**さんは「だんじりの担ぎ手は青年ですが、年配の者も担ぎます。青年団といっても40歳ぐらいまで青年団員、わたしも35歳ですが、まだ青年団員、ですから当然わたしも担ぎます。2日間担ぐのですが、今でも祭り全体を見たいと思っています(担ぐとなかなかそうはいきません。幕の中に入ると柱しか見えませんから。)。しかし、中にいても血は騒ぎます。だんじりは担ぎたい、でも祭りは見たいという気持ちです。お宮入りの場所では、ふだん行っても場面を想像して楽しくなります。」と話している。
 「宮入りに加茂川の堤に屋台を並べ、川を渡る御神輿を見送るのは藩政時代から行われており、御神輿が静かに御神体を清めて神社へ帰るだけだったのが、現在では御神輿と共に神戸の屋台10余台が水の中に入り、他の全屋台70台が堤に整列するようになった。」と『西条市生活文化誌(㉓)』に書かれている。宮入りについては**さんは次のように語っている。
 「御神輿が川を渡るときだけは担ぎ手は神戸の人です。お旅所で交替する。川底の石に苔(こけ)がついていて危険だからです。馬で一銭橋を渡る宮司さんの御幣(ごへい)の合図で御神輿の宮入りとなりました(今は馬には乗らずメロディー橋を渡る。)。神戸のだんじりもお見送りをしていたのですが、やがて川の中に入って練り始め(いわゆる川入り)、これが観光の目玉になり、その上河原も整備され、観客がぐっと増えました。」だんじりが水の中で練り始めたのは宮入りの形態の一つの変化であろう。しかし、もう一つ大きく変わったものがあった。
 「宮入りに、かっては背景として加茂川堤のマツがあり、川には木造の一銭橋が架けられていた。昭和44年(1969年)にマツは伐採、昭和58年(1983年)に一銭橋は、伊曽乃橋(メロディー橋)と架け替えられた。(㉓)」のである。

 (イ)祭りの伝統

 **さんも**さんも祭りの基本は行列にあると語っている。御神輿の先導やお供をしながら列を整えて巡行する、それが西条祭りの本来の姿なのである。
 **さんは言う。「よそから見に来る人は、お旅所、御殿前、加茂川原などだけが祭りの中心だと思っていることが多いでしょう。しかし、そこは本来単なる集合場所なのです。だんじりを担いで町並みを抜け、稲穂の中を行く行列が本当の西条祭りの姿なのです。」また**さんは「西条祭りは行列が基本です。並ぶ順番も道順も決まっています。道幅が広くなっても一列運行です。今度、西条市教育委員会から無形文化財に指定されましたが、その統一行動が無形文化財なのです。最近、よその祭りのまねをしたり、大さわぎをする若者がいるが、西条祭りに不釣合いのことはやめてくれと言いたい。祭りの伝統、格式を守っていきたいと考えています。もちろん、伝統を守りながら、新しい何かを取り入れるのはよいのですが。祭りは、神を敬い、神に感謝する行事です。それが観光化して現在の西条祭りになったのです。本来、だんじりも神に奉仕するものだということを考えてほしい。この本質を守ることによって、わざわざ観光ツアーを組んで来てくれる観光客にも伝統のあるすばらしい西条祭りを見せることができるのではないかと思っています。神に奉仕し、自分も楽しみ、観客にも満足させる、そういう方向にもって行きたいと考えています。」と語る。一方**さんには心配なこともある。「俗に『外人部隊』という同じ装束をしてよそからやって来る者がいます。そこで担ぎ手は町内のスタンプを押し、警察の印をもらった名票をつけます。その名票をつけていない者を見つけたら、すぐ連絡して排除してもらうように警察と話がついているのです。しかし、だんじりは、まだ暗い早朝から夜暗くなるまで運行する。おまけに名票も小さく目につきにくい。そこに付け込んで『外人部隊』がまぎれ込んでくる。彼等は後ろから突っ掛けたり、足を蹴ったりする。酒も入っているし、暗がりだから、とんでもないけんか口論となります。世話役も、だんじりのこと運行のことなどで手がいっぱい、そこまで目が届かない。分かっているが、実態がつかめないのです。先日も振興会の幹部会で話し合いましたが、統一行動を乱さないようにしようといろいろ取り決め事項について再検討をしているのです。」平成6年10月15日から18日にかけて愛媛新聞は連日西条祭りについての記事を載せていたが、19日付の『かき夫マナー改善傾向』と題する記事によれば「全体として平和運行が守られた形となった。」という。**さんも一安心というところであろう。

 イ だんじり人生

 (ア)少年のころからだんじり研究

 **さん(西条市大町 昭和34年生まれ 35歳)
 西条市立大町小学校教諭の**さんは、中学生のころからだんじりの研究を続けている。
 「小学校5年生のとき同じ組になった**君はわたしよりはるかにだんじりの知識があり、今の子供がJリーグについてあれこれと知識を競い合うように、だんじりについての知識を競い合いました。**君とは現在も交流があります。彼は新潟に住んでいるが、毎年祭りには帰って来ます。中学に入学して二人とも『郷土クラブ』に入りました。郷土研究の一つに祭りを調べることもあるのではないかと考え、神社・仏閣を調べる班に属し、『伊曽乃神社の祭り』を調べ始めました。2年目からは自分たちで『西条祭り研究班』をつくり、テープレコーダーを持って聞き取り調査をしました。『西条市誌』の編集者久門範政氏のお宅も訪ねました。土曜日の午後や日曜日に**君と二人で自転車に乗ってお年寄りの家を尋ね回りました。田畑で仕事をしている人に聞くと『どこやらのおじいさんが詳しいけん。』と言って連れて行ってくれる。こちらはまだ中学生なのに、お祭りのことと言うと、『まあ上がらんかい。』ということになり、いろいろ昔の話を聞かせてくれました。中学3年のとき、**君が入学して『郷土クラブ』に入った。また現在、市内の神拝(かんばい)小学校に勤めている**君もその時の1年生、彼らもまた今でもお祭り研究のグループの一員です。
 西条高校に入学すると『郷土クラブ』に代わるものとして『史学部』『地理部』がありました。そこで両部に属し、実際はだんじりの研究をしていました。この『史学部』は現在もだんじり研究を続けてくれていましてね、しかも生徒が自主的に活動しています。わたしのところに尋ねてくることもあり、『だんじり道楽』とかいう冊子を発行しています。
 高校1年の夏今までの研究をまとめました。『せっかくそれほど調べたのだったら、先生(「伊予民俗の会」主宰者)に頼んでみてやろう。』と父が言ってくれたからです。父としては、高校2年、3年になればまた受験勉強、今のうちにまとめさせ、もうこれでだんじり研究は卒業。そうさせたい思いがあったのかもしれません。とにかくわたしの研究が『伊予の民俗』に載ったのです。それからまた**君と一緒に親に隠れて研究を続けました。大学に合格したので、再び父に話したところ、それだけ書きためているならと『改訂版 伊曽乃祭礼楽車考』を出版することになりました。大学1年生のときです。」この出版のニュースを各新聞社が取り上げた。それらの記事の中で昭和54年(1979年)10月14日付の「愛媛新聞」には、郷土史家・久門範政さんの「これまでだれも手をつけなかった前人未踏の分野に根本的な研究を加える大仕事をしてくれた。大変うれしい。ダンジリばかとかダンジリ狂とか言われながら自ら足を運んでの研究に拍手を送りたい。伊曽乃神社で16年間も壊れたまま、修復されなかった一番ダンジリが、若い**君の熱意に動かされ、5年ほど前に復活したことも、個人的に大変うれしいことだった。」という話が載っている。この一番だんじりのことについて**さんは次のように語っている。
 「昭和48年(1973年)中学2年のとき、絵巻物(西条祭絵巻)を見ると、1番に行くのは中野村のだんじりです。しかし小さいころから知っているだんじりの行列はいつも2番のだんじりが先頭でした。不思議に思って久門範政先生に伺うと、1番だんじりは魚屋町とのけんかで壊れ、その後再建できないでいるが、1番というのは名誉のある番号だから欠番にしているのだということでした。また別の情報から、だんじりの残がいがあちこちにあることが分かり、伊曽乃神社の中の古茂理(こもり)神社にも残がいがあるらしいということで行ってみると確かにある。久門先生に伺うとそれが1番だんじりだということでした。そこで正式に見せてもらうことになり、世話人立会いで部品全部を並べてみたところ、これだったら修理して組み立てることができるという話になり、ついに17年ぶりに1番だんじりが復活しました。中野の人たちに思わぬ散財をさせてしまったようです。しかし、世話人たちの中では『1番だんじりがないのはわしも寂しかったんじや。』『金がなんぼ要ってもかまわん。』『田んぼ売ってもかまわんけん作ってくれ。』という声が聞かれたそうです。このだんじりが今でも現役で行列の先頭に立っています。だんじり新調ブームの中で、中野の人たちはこの修理した1番だんじりを大切に使っています。しかも、車をつけただんじりの多くなった現在でも、名誉あるだんじりだということで全行程昔どおり担いで回っています。」また、**さんが小学校の時見て以来、ずっと姿を見せなかった東光のだんじりも、**さんたちが調査し、村上文治(ふみはる)さんら地元の人々の熱意によって一時(昭和54年〔1979年〕ごろ)復活したこともあった。このだんじりは、嘉永6年(1853年)、魚屋町萬吉(**さん父子の先祖)の作である。現在、「西条市こどもの国」に展示されている。
 「祭りやだんじりなどは学問の対象外だとされていた時代もありました。祭といえば『酒を飲んで』『さわいで』『ぶつけて』という印象が強い。だから民俗学などでも、ほとんど都市祭礼の研究はありませんでした。また、喜多浜の藤田駿一氏の研究によると、中学校を卒業し、そのまま仕事に就く者は若衆組に入れるが、高校に進学した者は入れないということでした。だから祭りの仲間にも入れてくれないというわけです。とにかく高校(昔ならば旧制中学)に進学したら祭りに参加しないというのが以前は普通だったのではないかと思います。」このような社会の中で**さんはだんじりの研究を続けてきた。研究の成果については**さんの著書や論文に譲ることにするが、「わたしが研究を始めたころは、昔のことをよく知っている年寄りもおり、古いものもたくさんあり、研究しやすかった。だんじりの歴史といえば江戸、明治の歴史だと思っていましたが、現在は、今まで軽く考えていた大正史、昭和史が大事になってきました。大正、昭和(特に戦前)のことについて、今、年寄りに聞いておかなければ、またその時代のことが分からなくなってくるのではないでしょうか。」と**さんは語っている。

 (イ)親子でだんじりの製作

 **さん(西条市大師町 大正15年生まれ 68歳)
 **さん(西条市大師町 昭和36年生まれ 33歳)
 **さんは建築業を営んでいる。**さんがだんじりとかかわるようになったのは、昭和40年(1965年)ごろ、だんじりの屋根の修理をしたのが始まりだったという。現在父の**さんがだんじり全体を作り、長男の**さんが塗り物に従事し、次男の**さんが彫り物を担当、親子3人が力を合わせてだんじりを製作している。
 「母方の先祖が西条藩のお抱え大工でした。藩主が祭りに力を入れたらしく、だんじりも作っています。そのだんじりが今も残っています。」この先祖が魚屋町の萬吉であり、現在「西条市こどもの国」に展示されている東光だんじり(製作年代嘉永6年)、魚屋町だんじり(製作年代文久2年〔1862年〕)も彼の作である。「先祖はかなりいい大工だったらしく、城の腰板の張り替えのとき、下から目測で寸法を計ってぴったり一致したという逸話も残っています。わたしは母方の祖父に育てられ、大工の後を継ぐことになったのです。第二次世界大戦中は軍隊におりました(少年飛行兵)ので、復員後、21歳のときから修業しました。祖父は職人かたぎの厳しい人でした。今でしたら音楽を聴きながら作業したりしているが、鼻歌でも歌おうものなら、それこそ大事(おおごと)でした。修業の途中祖父が寝込み、それ以後2~3年よその手伝いに行きましたが、ぼつぼつ祖父のお得意さんから仕事の依頼があり、27~28歳のころ独立しました。」
 現在まで20台製作した**さんの仕事場には、製作順にだんじりの写真が掛かっている。「6台目を作るころまでは、作らせてもらいたいとこちらからお願いに行きましたが、おかげさまでその後は先方から依頼されるようになりました。今、西条にはだんじりが100台ぐらい、そのうち20台ですから1/5ぐらい作ったことになります。今年(平成6年)は祭りまでに2台完成しなければならず、その上大修理のだんじりもあり、手一杯、ほかの仕事ができない状態です。2台のうち1台は重くてもいいから重厚なものを、もう1台は500kg以内で作ってくれという注文です。数年前、高さ4m80cm、重量500kgのを作ってくれと言われ、製作してみるとちょうど500kgだったこともありました。JRの電化で高さが問題になったことがあり(平成元年、問題表面化)、5m40cmに制限されましたが、問題になったのは一部のだんじりで、大部分はタイヤを改造したぐらいで解決しました。わたしのところで作っているのは5mぐらいで全く問題はありませんでした。
 だんじりは彫りがメインです。そして西条のだんじりは、その彫りに物語性があります。一面一面独立したものでなく、各階四面又は全体八面の彫り物に関連性を持たせるのです。太平記や源平合戦で統一したり、武勇伝でまとめたり、先方の注文に応じます。その場面を決め、デザインから始めるのが次男の役なのです。」
 **さんは、子供のころからだんじりに興味があり、彫刻が大変好きだった。**さんは龍の彫刻を得意としている(写真3-3-38参照)。**さんの話を聞いてみよう。
 「家の職業を継ごうと思い、東予工業高校建築科に進学、大学も建築学科に進学する予定でした(すでに合格して入学金も納めていたとのこと。)。彫刻は趣味でと思っていたのですが、大学に入学する前に、だんじりの彫刻をしてみないかという話が舞い込み、大学進学を断念しました。」だんじりの彫り物は、源平合戦や太閤記など題材に統一性を持たせる銅板(どういた)の部分だけではない。屋根中央下部の懸魚(げぎょ)にも、隅障子(すましょうじ)にも、支輪(しりん)、斗供間(ときょうま)、乳隠(ちちかく)しにも彫刻が施されている。だんじりは全体が彫刻で飾られているといってよい。「彫刻の部分がわたしの担当、どこを何にするか、だんじりごとに彫り物を変えています。依頼者から太平記にしてほしいとか、源平合戦がよいとか要求があると、その中でどの場面を彫るか考えます。あらかじめ下絵を書き、見てもらいます。場面を考えるためには物語を読んで、その話全体を知っておく必要があります。題材として古いものでは日本神話、近代では例えば日清戦争、花鳥、十二支などもあります。錦絵が絵柄のモデルになります。だんじりについては先輩の彫り物が参考になり手本になります。わたしの家には先祖の書き残した下絵があり、それを見るといろいろ修正しながら考えた跡がありありとうかがわれます。これもわたしの大事な手本です。祭りが終わると全国の有名な彫刻を見て回っています。研究のため、秩父の夜祭り(埼玉県)、岸和田の祭り(大阪府)など見にも行きます。木は長持ちします。だんじりは木彫だからそれだけに歴史的に価値のあるものが残っているのです。彫る立場の人間として統一のとれた各だんじりの彫刻を見比べるのは楽しいことですし、自分たちの製作しただんじりを大の大人が子供のように喜々としてかついでくれる、これが最高の喜びです。」
 **さん親子が今年(平成6年)製作するだんじりがまた50年100年と担ぎ継がれていく。そこに西条祭りの新たな歴史がつくられるのである。

写真3-3-38 **さんの彫った龍

写真3-3-38 **さんの彫った龍

平成6年7月撮影