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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)百八灯

 ア 表川と吉久

 **さん(温泉郡川内町南方 大正6年生まれ 77歳)
 **さん(温泉郡川内町南方 大正14年生まれ 69歳)
 表川(おもてがわ)は川内町を流れる宝泉川、渋谷川、井内川、本谷川などの支流を合わせて重信川に合流する河川である。上流には、明治28年(1895年)夏目漱石も訪れた白猪(しらい)の滝、唐岬(からかい)の滝がある。この表川が重信川と合流する地に位置するのが川内町吉久である。吉久の戌亥(いぬい)泉(お吉泉)は、国指定天然記念物「オキチモズク」の自生地として有名である(ただし、現在は確認されていない。)。吉久の表川辺りの以前の様子について**夫妻は次のように語っている。
 「表川には表川橋付近からずっと上流にかけてヨシが生えていて、キジやウズラなどがおり、猟場になっていました。また土手にはホラ貝を持った石鎚参りの行者がよく歩いていました。戦後は見かけませんが、昭和19年(1944年)の記憶があります。」金毘羅(こんぴら)街道には重信川の南、拝志を通って川上で合流するルートがあった。重信町拝志小学校の西、享保の大飢饉(享保17年〔1732年〕)による死没者五十回忌の供養塔の横に「従金毘羅大門二十八里」の道標が建っている。この道を歩いて来た行者たちは、表川を渡った地点から分かりやすい近道として、表川の土手を利用していたのであろう。「吉井神社の近く(写真3-3-18参照)に『行泉(ぎょういずみ)』という2坪(約6.6m²)ぐらいの泉があり、行者たちがよく休憩していました。涼しい場所でした。」この泉は今はないが、近くにもう一つ泉があり、現在利用されている。この吉井神社には、重信町見奈良奉納の石燈籠が建てられている。**さんの話では、見奈良は水利関係で吉久に世話になっているので奉納したのだろうということであった。確かに前述の戌亥泉(お吉泉)の水も重信川の河床の埋樋(まいひ)導水によって、見奈良のかんがい用水となっている。
 重信川と表川とに挟まれた吉久は、度々水害に見舞われた。壊滅的な被害を受けたこともあった。記録によれば、文政9年(1826年)耕地の7割が流出したという(**さんの話)。『川内町新誌(⑫)』の「自然災害年表」に昭和20年(1945年)、村内表川決壊、橋梁流失、道向、吉久水田流失という町の記録が載っている。一方、『日本地名大辞典』の吉久の項には昭和25年の荒田2町7段(約2.7ha)(川内町誌)、他の地域に比して荒田の比率が異常に高い(⑬)と記述されている。恐らく、昭和20年の水害と関係があるのだろう。

 **さん(温泉郡川内町吉久 明治44年生まれ 83歳)
 「昭和23年(1948年)、シベリアから復員したが、たんぼは石ころだらけの河原のようになっていました。田を元通りにするのは大変な作業です。大きな石一つ取り除くだけでも苦労しました。復旧には4年も5年も、いやもっとかかります。とにかく水害には悩まされました。表川が増水し、土手が決壊しそうになると、全員が集まり、応急処置を施します。危険箇所に近い上流のマツの木を切り倒し、綱をつけて濁流に投げ込みます。するとそのマツの木が堰(せき)のような働きをして水流の方向を変えて決壊を防いでくれるのです。これを『キリツケ』と言いましたが、そんなことまでしました。」

 イ 夜空を焦がす

 (ア)盆の火祭り

 盆と正月(小正月を含む)との対応、行事の類似については、先に述べたところであり、盆の火祭りが小正月の火祭り(左義長、トンド)に対応していると言えるのだが、『愛媛県史民俗下』では「左義長が現在も盛大な火祭りとなっているのは、越智郡・周桑郡・新居浜市大島などで、いわゆる芸予諸島と高縄半島地域である。この火祭りは高縄半島部では盆の火祭りと地域的に重なっていて、たいへん注目されるのである。(⑧)」と両者の地域的重なりを指摘している。この盆の火祭りとはセンドマンド(千燈万燈)・マンド・サイトなどと呼ばれている行事で、盆飯が南予の民俗的特色であるのに対して東予の民俗的特色と言えよう。この行事は迎え火送り火が子供の行事となって大規模化した火祭りである。同じような子供主体の盆の火祭りが川内町吉久でも行われている。その行事を百八灯という。表川の土手に小屋を設け、「サイト(柴灯)」と呼ばれる松明(たいまつ)を用意し、8月24日、並べたサイトに点火し、子供たちは一斉に「たーろ(太郎)も来い。じーろ(次郎)も来い。」と叫びながらサイトを継ぎ足していく。最後に中心の小屋に点火し、一層夜空を焦がして火の祭典はフィナーレを迎える。この行事は、水の犠牲者の霊を慰めるとともに、先祖や無縁仏の霊を供養したのが始まりと言われている。してみると、「太郎も来い。次郎も来い。」(みんな来いという意味)とは精霊にも呼びかけているのであろうか。度々はんらんを繰り返した表川の土手で行われる百八灯には、水の犠牲者の冥(めい)福を祈る心が込められているのは間違いないであろう。この吉久の百八灯は昭和30年代中ごろからしばらく途絶えていたが、昭和49年(1974年)に復活して現在に至っている。松山市平井町の畑中地区でも昭和58年(1983年)、約40年ぶりに108本のろうそくをともして祖先の霊をまつる行事を復活させた。なお、上浮穴郡小田町寺村の「山の神の火祭り」(平成5年度報告書『県境山間部の生活文化』参照)も実は百八灯であって、昔は旧暦7月20日に行われていたという。

 (イ)吉久の百八灯

 **さん(温泉郡川内町南方 昭和3年生まれ 66歳)
 **さんは、吉久の百八灯の行事の復活に尽力した人である。まず以前の百八灯について次のように語っている。
 「子供たちは夏休みになると、まず表川の土手のマツの木の下に自分たちで小屋掛けをします。彼等は毎日手伝いの合間にその小屋に集まり、勉強もしながら上級生の指揮の下でまず材料集めです。108か所で継ぎ足しながら火を燃やすのですから、千束ぐらいの松明(サイト〔柴灯〕)が必要です。その材料を集め、束(長さ1m・周り20cmぐらい)を作るのが子供たちの仕事です。かまや縄を持って、川を上り、山に入り、タケや木を切って、それを束ねて縄をつけて川に流します。子供たちは、その縄を持ったまま泳いだり歩いたりして、百八灯の行われる場所まで運び、乾かした後、束を作ります。地域の人たちは使い古した夕ケなど(これも材料になる。)を束ねて置いておくだけ、後は一切口出し手出しをしません。当日が近づくと子供たちがそれを集めて回ります。百八灯は完全に子供たちだけで運営されました。上条、下条、畑川、三つの組に分かれて火を燃やしたので、当日は他の組に負けまいと競争です。『お前、声が小さいぞ。』『もっと火をたけ。』上級生がげきを飛ばします。子供らは一生懸命でした。」百八灯の行事を通して、子供たちは、いろいろなことを体験し、さまざまなことを学んだ。
 自然の中で、遊びを通して先輩や友人から学ぶことの大切さを痛感していた**さんは、一時途絶えていた百八灯の行事を復活させようと考えた。
 「地域の大人に相談すると、『ほうよなあ、もう農薬もできたけんなあ(火はウンカを焼き殺すが、同時に誘うことにもなり、それがやめる原因の一つであった。)。あれはええ。わしら上級生から時にはひどいことやられ、つらかったこともあるが楽しかった。やりましょや。』ということになりました。昭和49年(1974年)、わたしが教育委員会に入った翌年のことです。さて復活してみると子供たちはかまが使えない。束も作れない。2~3年やっても思うようにいきません。そこで、子供をあくまでも主役にはするが、この地域の年中行事にしようということになりました。大人が手伝うという形の百八灯に変わりました(写真3-3-19、3-3-20参照)。大人が手伝いますから準備は簡単にできます。昔の子供たちは、小屋掛けが楽しみであり、小屋の生活を喜んでいたのですが、今は小屋掛けはしません。」しかし、効果があったと**さんは言う。子供に地域における居場所を与え、役割を持たせ、主体性を尊重してやることによって、子供も認められたということで責任をもって一生懸命やってくれます。また、続けているうちにかつて参加した連中の中で、みんなに会うのを楽しみにわざわざ百八灯の日に帰省する者が出てきました。大阪から帰省したある若者は、『わしはのう、大阪へ行って本当に苦労した。辞めていのか(帰ろうか)と思ったが、ひょっと百八灯のことを思い出した。ほうじゃ、一緒に百八灯をした連中がどないしよるか心配してくれとるんじゃけん、負けたらいけん。わしゃ踏ん張ったぜ。』と話していました。」
 ところで吉久の百八灯の行事には、人々のどんな願いが込められているのだろう。「神仏の加護によって度重なる災害から守ってもらおうという切なる願いが込められていたのではないかと思います。昔は表川(写真3-3-21参照)には上流に一つしか永久橋がなく、あとは『ナゲワタシ』という簡単な橋(流れ橋)だったので、その橋から落ちたり、『ナゲワタシ』が渡れないとき、浅瀬を渡って流されたりしました。もちろん洪水による犠牲者もいたでしょう。いやな話ですが、表川の水死体は必ず重信川との合流地点(吉久の堤防あたり)に流れつくのです。ですから、水死した人の霊を慰めるという意味もあったことは確かでしょうが、その死者の霊を弔うことを通して水害から守ってもらおう、そういう願いがあったものと思われます。さらに、わたしは、この百八灯という火祭りは宗教的な色彩を帯びているが、稲作にも関係があるのではないかと考えているのです。集まってくる害虫を焼き殺すのも目的ではなかったかと思うのです(かつて、寄って来た虫を殺し、周りの稲にはあまり被害を与えないような小高い場所で火をたいていたことがありました。)。百八灯の歴史については、百八灯の復活を考えていたころ、90歳余りの老人に聞いたが『いや、わしゃ知らんけど、わしのおじいさえやったと言いよったけんのお。』という答えでした。そうすると『小田の山の神の火祭り』と歴史的にはあまり違わないぐらい古い伝統を持っている行事だと思います。」
 今の子供に地域の一員としての自覚を持たせてやりたい、もっと自然に親しませ、その中で子供たちが互いに学び合う、そういう機会を与えてやりたいという願いを込めて、今年(平成6年)も**さんは百八灯の行事を見守っていた。

写真3-3-18 吉井神社付近

写真3-3-18 吉井神社付近

右側:吉井神社の森、左側:工事中の松山自動車道。平成6年9月撮影

写真3-3-19 百八灯の行われる表川の土手

写真3-3-19 百八灯の行われる表川の土手

平成6年6月撮影

写真3-3-20 炎の祭典吉久の百八灯

写真3-3-20 炎の祭典吉久の百八灯

平成6年8月撮影

写真3-3-21 昔より水量の減った表川

写真3-3-21 昔より水量の減った表川

平成6年6月撮影