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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)坂石河港の昔と今

 肱川は前述したように河床勾配が緩やかな上に水量が豊富であり、愛媛県では最も可航河川としての条件にすぐれた川である。そのため舟運が盛んであったころは肱川が幹線交通だったから、その沿岸には多くの集落が成立し、河港は集落の玄関口であると同時にその地域の中心地であった。明治から大正にかけて肱川沿いには大小合わせて40あまりの河港が立地していた。
 おもな河港には、藩政時代旅人や物資の動きを監視するための番所があったが、明治に入ってからは廃止された。しかし、玄関口としての機能であるそれぞれの地域の農産物、加工特産物の移出や消費雑貨などの移入が大正時代まで続いたという。

 ア 川舟と筏流しの起点坂石

 肱川の上流の宇和川に、船戸川・黒瀬川の二つの支流が合流する坂石は、川舟と筏流しの起点として発展した肱川最上流の河港である。
 河港高丸(たかまる)(現野村町坂石)は、遊子谷、土居、惣川、小屋、予子林、土佐檮原(ゆすはら)など周辺部の物資の集散地として栄えていた。河港までの物資の運搬は、大正5年(1916年)に道路が開通するまで駄馬(だば)(荷をつけて運ばせる馬)と担夫(たんふ)(荷物をかつぐ人夫)であった。明治には倉庫・舟宿・旅館・医者・髪結い床・数軒の商店、問屋があった。藩政時代には番所も置かれていた。
 『横林村誌(⑦)』によると、高丸には半官半民の問屋があり、藩の年貢をはじめすべての貨物の運送店として、荷揚げ、積出し、旅客の往来まで取り扱っていた。
 昔は高丸ではなく、タカトマル(鷹宿)であったという。昭和26年(1951年)の坂石大火(被災世帯数は34世帯、被災者は139名に達し地域内の55世帯のうち大部分が焼けだされた。)で枯死したが、街には数百年を経たムクとエノキがあった。このムクの木に夕力が来て毎年巣をつくり雛(ひな)を育てていたのでこの名があると言われている。
 大正13年(1924年)宇和水電が発電所をつくったため水量が減り、その上に道路開通によって交通事情が変わり、川舟輸送、筏流しなどは次第に影をひそめた(写真3-1-9参照)。
 その後、近いということから硯(すずり)河港(肱川町鹿野川ダムのすぐ上流)に物資が集散されるようになった。硯にはかって黄金時代があった。川舟や筏が物流の中心であった時代、硯は河港として栄えた。硯には肱川をはさんで大洲藩大谷港と、宇和島藩予子林港の二つがあった。宇和島藩側の港には藩の番所がおかれ、蔵が4棟と旅館・船着場があった。これらのうち惣川、小屋などの物資は途中棟峠(むねんとう)を越えなければならなかった。棟峠もまた、硯河港に負けない黄金時代があった。この峠には現存するのは2世帯であるが、かっては小さな町であった。お堂やこんぴらさんの道標のある十字路を中心に時計屋・鍛冶屋・蓄音機屋・床屋・木賃宿・食堂・たばこ屋・まんじゅう屋などが軒を連ね、毎日100頭の牛や馬が行き交っていた。牛市も開かれ周辺の町村から150頭も集まった。また、映画も上映されることもあった。
 往時は坂石から肱川河口長浜までの道程約50km間に舟便・筏流しが盛んで交通の動脈となっていた。それでこの地区には第二次世界大戦前に筏師の組が三つもあり、100人程度の筏師がいた。
 坂石地区の北側に河成(こうなる)の集落がある。この集落は船戸川と黒瀬川との合流する小三角州である。地形上からつけられた名であろう。ここの集落は昭和元年(1926年)に上流の惣川から船戸川沿いに馬車道が開通してからのもので、昭和3年には土着の家が3戸あったのみ。
 『横林村誌(⑦)』によると、交通不便で赤木からおりて黒瀬川原エノ木下を過ぎ、冬は仮の土橋をかけ、夏の渇水時は徒歩し、増水時は渡し舟で往来していた。その後、奈良野・松尾・横林などから筏師や馬車ひきなどが集まり新しく集落が形成された。また、ここは惣川・城川方面への交通の要(かなめ)にあたるところから、村の重要機関がこの地に移ってきた。また、旅館を営むものも5軒あった。
 なお、この集落は昭和34年(1959年)に鹿野川ダムが完成すると水没し、新しく建設された県道沿いに従来の位置を保つたまま移動している。昭和に入って川舟は次第に衰退し、続いて筏流しもなくなり、その上に過疎化の進行によって後背地の衰退や、道路の整備によって、かっての繁栄にくらべて今はきわめて静かな湖畔の集落となったが、現在水辺空間の環境整備に重点をおいた計画が立てられている。

 イ 新鮮な川魚を求めて

 **さん(東宇和郡野村町坂石小字高丸 大正5年生まれ 78歳)
 「ここは昔より伊予長浜と土佐檮原との連絡地点で、肱川上流の港泊所として繁栄したところです。土佐藩士坂本龍馬もこの舟宿を使用したとの伝説(当地の菊池旅館の宿帳に宿泊した記録があり、そこの女主人〔叔母〕が自慢していたが、昭和26年〔1951年〕の大火災で残念にも焼失した。)もあり、終戦までは材木の集荷場として筏流しの名所でした。」と**さんは語る。
 「坂石の河港には奥から運ばれた木材が河原に積まれていて、筏師たちはそれを筏に組み、問屋や運送店と連絡を取って長浜へ流していました。
      下へ下へと筏を流す
          大洲を通れば二階から招く
                 流す筏に花が咲くヨーホーエ
      私ゃ肱川黒船頭
          長浜港に行くなれば
                 白いお手手で招き込むヨーホー工
と言う筏流しの歌を聞いたことがあります。」
 **さんは、叔父さんが問屋の責任者をしていた関係上、昭和7年(1932年)ころよりトラックで主に塩を、後には肥料など檮原へ運んでいたとか。このころから川舟は衰えの色が濃くなってきた。
 「わたしの家は、当地の古い旅館でした菊池旅館を受け継いで、冨乃家という名で昭和26年(1951年)ころから旅館を経営していました。
 当時は、大阪・松山方面から新鮮な川魚アユやウナギ、そしてスッポン料理、ナマズ料理を食べに、また、川漁を楽しみに大勢のお客さんが来てくれました。そのために夜もろくに寝ずに料理用の魚をとりに行っていた。」
 また、**さんはお客さんに夏には家族で大きなテントを持って来て、河原でテントを張って川魚をとったり、手料理したりしてはと勧めていたとか。道具を持ってくる人もあったが、持って来てない人には貸してあげ、また、魚のとり方や、料理の仕方など教えてあげていたそうである。
 「そのほかのお客といえば、ここは川舟や筏流しの起点でもあったので、木材業者の親方、買主、仲買人や商店の番頭さんが注文取りに来て泊まっていまして、繁盛していました。しかし、道路事情も変わり、新鮮な魚もとれなくなってお客も減少し旅館も20年前にやめました。
 現在の坂石は、木材、シイタケ、クリ、カキ、ユズの名産地。牛豚の飼養地でもあり、また、鹿野川湖の名物のヘラ鮒(ふな)の漁場でも有名です。」と語る。
 このヘラ鮒が全国に知られるようになったのは、料理研究家として著名な土居勝さんが、「四国のダムに巨ベラがいる。」と新聞に書いてからだという。最盛期には、日に200人を超える釣り客が全国から詰めかけ、肱川町や野村町坂石の旅館をにぎわしたそうである。そのにぎわいも今は昔。入り江の湖岸にはつながれたままのボートがまばら(写真3-1-12参照)。この原因を、肱川町で「ヘラ鮒釣情報センター」を開いておられる方は、「乱獲と夜釣りのせい」と述べている。また、「今の鹿野川湖は、マブナに占領されて、生態系が変わってしまいヘラ鮒の繁殖する余地がなくなっている。生態系を元に戻すには、最低限マブナと同じ数だけの純ベラの放流が必要。」という。

 ウ 昔を偲(しの)んで懐かしく語る筏師

 **さん(東宇和郡野村町坂石小字坂石 大正4年生まれ 79歳)
 **さん(東宇和郡野村町坂石小字高丸 大正5年生まれ 78歳)
 「筏を組む作業も、筏を流す作業も共同でやるので組合がつくられていた。坂石では組合は株制度になっていて、株を持っていないと筏に乗る資格が与えてもらえなかった。それで筏の株をお年寄りから譲ってもらうためには、わたしらの時には15円くらい(当時の日役が平均90銭)必要でした。」と語る。『川の道(⑧)』によると、16、7歳で加入し、そのときは酒一升を買っていた。また一人前になった時も酒を買っていたと記している。
 「わたしらの時山村では、小学校をでた時地元では動く職もなく、不景気で上の学校にも行かず、都会へ出て行く器量もない。それで若い者はみんな喜んで筏師になっていた。筏師は、年から年中仕事があり、日当も長浜へ着けば材木問屋から確実に支払ってくれるという安心感があった。また、不景気で暗いニュースが新聞に毎日掲載されていた時代に働いただけ現金が入手できることは魅力であった。
 本川筋は小田川筋と違って、干ばつや仕事のできぬ日はほとんどなかったし、途中で二流れを一流れに合体する作業もいらなかったので、流し賃はいくらか安かったが、それでも他の仕事の2、3倍とよかった。手当は初入りで3分役、筏の技術を修得すると8分役、一人前になったとき一人役もらった。
 組合には、親方がいて山師や山地所有者との間の交渉に当たっていた。また、組合には決まった山師がいて、親方と木出しの場所や作業日程を指示し、それによって組合員は筏を組んでいた。筏の先頭は、ノリダナといってやや小さめで、さらに先端を細く、後方の棚ほど広くしていたが、これは筏を流しやすくするためです。筏は長さ2聞(約3.6m)の木材を末口を前にして、幅6~8尺(約1.9~2.6m)の船型に組んだものを一棚と呼び、全部で13~16棚つなぐ、これを一流れと言っていた。最前列の筏は生命線ですので実際に下へ筏を流していく筏師が直接つくっていました。それは実際に乗った者でなければ分からないことがあるから。
 筏は普通森山までは二人乗りで下り、後は水が多く流れもいいので一人。それで森山までの二人の時に、上乗(うわの)りといって2年くらいすると、今日はお前も乗っていくかと言って乗せてもらうことができました。これで自分も一人前と認められたのだと大変うれしかった。しかし、厳しい仕事で大変だった。
 前に岩があって当たりそうなとき、ミザワで避けることができないときは、綱で引っ張るために河原に飛び降りなければならない。筏は人間の走るくらいの速さで流れているので、転ばないように降りるのが大変。真横に降りては転ぶ。流れに合わせて前に飛ばなければいけないと理屈には分かっていても、なかなかできない。上手に飛び降りられるようになるのに3年くらいかかった。
 筏師は、ミザワで突っ張り、カジさえ取れば水が流してくれたと簡単に言うが、曲がりくねったところを曲がりに沿って流したり、瀬のきついところのミザワの突っ張り方や、瀬に乗り上げて2~3時間満潮を待ったり、橋にひっかかったりそれはのんきな仕事ではなかった。『瀬ありや沼あり』で筏師は川を良く熟知しておかなければならなかった。」
 道野尾(どうのお)(肱川町)の「辰の口権現」(写真3-1-13参照)、菅田の「冠岩」などの川中に突出した巨岩は難所とされ、これらの難所を通過するときは、川舟の船頭たちは積荷の一部の木ぎれやカズラのようなものを投げ供え、航路の安全を祈って通過していたとか。
 「筏師は、ワラジをはき、のちに地下足袋をはいたが、指の股が水虫にやられみんな石油を塗って治療していた。
 冬はつらいが、筏の3棚にむしろを延べ、その上に砂を敷いて火をたいていた。熟練者は沼の時に手足をあぶっていたが、末熟者にはその余裕はない、熟練者はミザワを上げ下げしても波が立たないが、未熟者は十分気をつけてやるのだが、波が立って足袋をぬらしてしまう。でも火にあたる暇などはない。
 坂石から長浜までは、普通3~4曰くらい。水勢のあるときは、多少危険ではあったが、早く川を下ることができたことから長浜まで一日で着くこともあった。でもなかには8日もかかった人もいた。帰りは歩いて一日、後には自転車で帰るようになり早い人は3時間くらいで帰っていた。
 昭和10年(1935年)ころ一人役は90銭くらい。長浜に遅く着いたときは泊まっていたが、できるだけ無理をしても自転車で帰っていた。それは三人役の特典があるからです。長浜までの流し賃として一人役、宿賃として一人役、自転車で帰ればその日に帰れるので翌日の仕事がもらえて一人役と合わせて三人役となります。しかし、長浜で泊まれば、長浜までの流し賃として一人役と宿賃(90銭)貰いますが、当時宿賃は70銭(8合飯〔夕食3合、朝食と弁当で5合〕、酒一合と魚一皿)であったので20銭戻りますが、帰りは翌日ですので仕事は貰えない。」と語る。
 肱川の筏流しは、明治20年(1887年)ころからで昭和初期が最盛期であった。そのときは、肱川橋の下を毎日平均して30流れほど下っていたといわれる。この筏流しも鹿野川ダム完成前28年(1953年)には姿を消した。このことについて『肱川の筏流し(⑩)』には、「戦後の異常な木材高騰から始まって、各地に林道の開発、トラック輸送の普及、さらに内山地方や大洲付近の製材所、竹工場の乱立等、森林資源の開発や流通事情が一変したため、昭和28年最後の筏師数名が陸に上がってからは、さすがに盛況であった『筏流し』も全く姿を消して跡形もなくなくなってしまった。」と記している。
 **さんたちは、「若者や子供たちに、肱川の風物詩であった『筏流し』をぜひ残しておきたい。できれば筏の模型をつくって公民館などに展示したい。」と語る。

写真3-1-9 今は静かな高丸集落

写真3-1-9 今は静かな高丸集落

平成6年7月撮影

写真3-1-12 引き上げられたままの貸しボート

写真3-1-12 引き上げられたままの貸しボート

平成6年10月撮影

写真3-1-13 航路の安全を祈って通過していた「辰の口権現」

写真3-1-13 航路の安全を祈って通過していた「辰の口権現」

平成6年7月撮影