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河川流域の生活文化(平成6年度)

(4)野村のシルク作りを支えて~伝統とルネサンス

 ア シルクの里の特色

 平成6年7月、肱川上流の野村ダム、朝霧湖近くに、野村町シルク博物館がオープンした(口絵参照)。
 展示ホールには、野村町における養蚕・製糸業の歴史資料や各種道具類が、わかりやすく展示されている。展示資料の初めには、野村町の養蚕・製糸業の特色と役割について、次のように述べている。
 「野村町の養蚕は、明治初期に始まっている。傾斜地に広がる畑地に適し収益性の高い養蚕は急速に普及し、大正初期には1,138戸が養蚕を行い、春から秋にかけて米と養蚕を、冬の農閑期には野村町特産の和紙『泉貨紙』をつくり生計をたてていた。
 このころ生産した繭は馬車、人力、或いは肱川を筏(いかだ)で宇和町や大洲の繭市場へ売りにいっていたが、繭仲買人に買い叩かれることが多く、養蚕農家の収入は非常に不安定であった。このような養蚕農家の窮状を見かねた有志の呼びかけにより、昭和6年(1931年)には繭市場、乾繭、倉庫業務を行うため東宇和郡購買販売組合を創設し、昭和8年には製糸工場を建て『野村の繭から野村の糸を』という悲願を達成し、養蚕農家の経営は飛躍的に発展した。恵まれた風土のなかで飼育された繭から、町を東西に貫流する肱川の清らかな水と高度な製糸技術から生産された生糸は野村生糸『カメリア』(椿)の商標で販売され、国の内外で高い評価を得て、野村町の産業経済の発展に大きく貢献してきた。」

 イ 野村地方の先人たちの歩み

 次の年表は、明治時代から昭和初期の組合製糸の開始、戦後の最盛期から工場閉鎖に至るまでの野村地方を中心とした先人たちの主な事績を示したものである(野村町シルク博物館資料および⑮⑰などより作成)。この年表からも野村地方の蚕糸業に尽くした先覚者の苦労と努力の跡がうかがわれる(図表2-2-19参照)。

  〇明治4年(1871年)
    このころ野村地方に桑苗を植える者が出て、養蚕が始められたという。
  〇明治14年(1881年)
    卯之町の清水長十郎が、養蚕伝習所を設置し、宇和島から小川信賢・同ヤス子を教師に迎え、養蚕と製糸法(座繰)を
   伝習させる。
  〇明治26年(1893年)
    このころから専業養蚕農家、兼業農家が増加した。
    野村町の緒方久治、土居農右衛門、春野万八、高原庄助らが大規模な養蚕を始めた。
  〇明治37年(1904年)
    東宇和郡に共同養蚕組合が結成され、養蚕技術の短期講習会や巡回指導が実施されるようになる。
  〇明治41年(1908年)
    東宇和郡立宇和農蚕学校(宇和高等学校の前身)が設立され、養蚕技術者、営農指導者などの養成を目的とした専門教
   育を行う。
  〇大正元年(1912年)
    野村地方の器械製糸工場6工場で操業する。
  〇大正6年(1917年)
    野村町役場、農会の共催で桑苗育成講習会を開き、指導者の育成を兼ねる。
  〇大正10年(1921年)
    東宇和郡購買販売利用組合を設立する。
  〇昭和元年(1926年)
    組合員511名、生繭33,975貫(127,406kg)となる。
  〇昭和7年(1932年)
    繭糸価の暴落と産業界の不況により製糸業者の倒産が相次ぐ。
  〇昭和8年(1933年)
    組合製糸工場を設立する。東宇和生糸販売購買利用組合と改組する。
  〇昭和9年(1934年)
    組合製糸工場操業開始する(152釜、多条繰糸機76台)。
  〇昭和15年(1940年)
    組合は、野村、佐竹蚕種製造所の営業権と付属施設を買収、蚕種の自給製造始まる。
  〇昭和21年(1946年)
    東宇和蚕糸協同組合を設立する。
  〇昭和25年(1950年)
    東宇和蚕糸農業協同組合に改組する。
  〇昭和38年(1963年)
    東宇和蚕糸型自動繰糸機(二宮政善工場長の発明)が始動する。設備釜数が3分の1ですみ、生産能率が増大する。
  〇昭和49年(1974年)
    愛媛蚕糸農業協同組合と改称する。
  〇昭和53年(1978年)
    糸価好況、工場生糸1kg15,000円を突破
  〇昭和61年(1986年)
    基準糸価、1kg10,000円を割る。
  〇昭和62年(1987年)
    県内3組合製糸と県養蚕農協連が合併する。
  〇昭和63年(1988年)
    合併後、愛媛県蚕糸農協連合会野村工場に改組する。
  〇平成6年(1994年)
    野村工場を閉鎖する。

 ウ 野村シルク一筋に65年

 **さん(東宇和郡野村町大字阿下 大正元年生まれ 82歳)

 (ア)蚕種業の営み

 **さんの父親は、野村町で麴(こうじ)屋を営んでいたが、昭和の初めころ野村町内にあった多くの蚕種業者が経済不況のため倒産したので、昭和2年(1927年)、蚕種製造所を設立して蚕種業を始めた。
 **さんは、昭和4年(1929年)、宇和農業学校を卒業後、家業の蚕種業に従事したが、昭和5年に父親が野村町長に就任したので、**さん一人で蚕種業を営むこととなった。
 **さんは、蚕種業の営みについて、「繭から出てくる蛾(が)をオスとメスに選り別けて、中国種、欧州種、日本種を雑種に交配するために、人手で仕分けの作業をします。交尾した蛾をはなしては種を取る作業をするのです。時期は、春蚕、初秋蚕、晩秋蚕のときですが、春蚕が主でした(晩秋は、めったにしか取らない。)。したがって、従業員は、その時期々々の季節雇いで、嫁入り前の若い女性が多かったですね。わたしの家だけでなく、分場という名称で各農家に委託し蚕を飼ってもらって蚕種を集めました。単純種は飼いにくいのですが、交配種は飼いやすいので農家に依頼し、こちらが繭を引き取るやり方でした。それぞれ分場という看板を掛けてもらったものです。」
 「若いころは、宇和農業学校の先生(長野県出身)から蚕種の技術指導を受けました。卒業後も、組合製糸時代にかけて指導をいただいた養蚕の恩人です。」と、蚕種業の自営時代を振り返っている。
 **さんは、昭和初期の忘れることのできない記噫として、「昭和5年(1930年)、浜口内閣の金解禁による経済不況の時ですが、100匁(375g)1円20銭の繭が1割の16銭に暴落したことです。昭和7年にかけて野村地方の製糸工場(足踏みと動力座繰器)も6工場が全部倒産しました。日本経済の連鎖的な大打撃を目のあたりにしましたよ。当時、父は野村町長で、わたしは蚕種業と産業組合(農協の前身)の青年部長をしていましたが、それはひどいものでした。」と、身近に起こった昭和恐慌の思い出を語っている。

 (イ)組合製糸へ~蚕種の統一

 昭和9年(1934年)、野村町長を務めていた父親が、病気のため現職中に49歳で死去された。
 その年には、野村地方の蚕糸業の不況を打開するため東宇和生糸販売購買利用組合(東宇和蚕糸農業協同組合の前身)(以下、組合と略称する)の製糸工場が建設され、多条繰糸機76台で操業が開始された。
 昭和15年(1940年)には、組合が蚕種の自給製造を計画し、**さんが経営する蚕種製造所の営業権と付属施設一切を買収した。**さんは組合の役員(常務、のち専務)を務め、昭和55年(1980年)、68歳で退職するまで40年間にわたり組合製糸を支えてきたのである。
 当時の事情について、**さんは、「野村で組合製糸を始めたが、使用の繭がまちまちであったので、蚕種の統一が必要となりました。良い繭を造るためには蚕種製造も自給しなければならない、ということで、わたしは組合に入り、役員になったわけです。それから蚕種製造を一緒にやって農家に配り、統一した繭を作るようになったのです。当時、蚕種の製造は、宇和町の伊予蚕種・東洋蚕種、川之石町(保内町)の日進館でやっていましたので、これらから、まちまちに繭が入っていました。繭の系統が違うと良い糸ができませんので、蚕種を統一して揃(そろ)うた良い糸ができるようになったのです。
 野村の糸が日本有数の品質となったことは、やはり、肱川筋の水質が良いことと、繭の品種が統一されたことです。」と、組合蚕糸における蚕種向上の意義を語っている。

 (ウ)全国に良い繭を求めて

 **さんは、蚕種を良いものにするために、戦後、養蚕地帯の繭を求めて各地を回った。その間のことについて、「まず、昭和27年(1952年)から33年ころにかけて、岩手県宮古市に一人で長期出張し、現地の人を雇って繭を買い集め、風力乾燥機で繭を乾燥して持って帰りました。昭和30年から40年代にかけては、山梨県、群馬県、長野県など関東地方中心に回りましたが、一番よく大量にまとめて仕入れたのは秩父地方でした。苦労はありましたが、製糸には質の揃った良い繭を仕入れるのが大切ですから、やり甲斐がありました。」と、繭集めのため、全国各地を回った苦労を振り返っている。
 「また、『原料については**にやらせ』と言われてきましたが、品種の選定の目利(めき)きが大切です。わたしは、蚕種の製造から始まって、どういう繭は、どういうように解(と)けるか、ということは品種的にわかるから、原料繭に主力を置いてやってきました。だから全国を回るとともに、野村の組合員に良い繭を造る方法を指導してきました。」と、蚕糸に生き抜いたキャリアを語っている。

 (エ)今も繭の品種保存を

 昭和55年(1980年)、68歳を迎えた**さんは、40年にわたり勤めてきた蚕糸組合を退職した。その後も昭和63年まで繭を作ってきた。82歳の今日も、品種保存のため少量ではあるが、蚕を飼って繭を作っている。現在、飼っている品種は、黄色の繭の中国種(金黄)と、白色と黄緑色の日本種、淡いピンクの欧州種の4種類であり、大正時代からの旧蚕舎の一室で飼育している(写真2-2-38参照)。また、**さんが作った繭は、奥さんが繭団扇(まゆうちわ)や小さい飾り衝立(ついたて)に仕上てあげ、楽しい民芸的な雰囲気をかもしだしている。「野村の蚕糸(組合製糸)のことなら、『生き字引』そのものの**さんに聞くように」と、野村地方のみならず大洲地方の蚕糸関係者からも、信頼の厚い**さん65年の歩みと姿である。

 エ 野村シルクのルネサンスを

 (ア)野村町シルク博物館誕生~体験するミュージアム

 野村町シルク博物館は、野村町が観光、産業、生活文化の活性化の拠点として、約4億4千万円を投入して建設したもので、繭玉をイメージした屋根の外観が人目を引いている(口絵参照)。
 この博物館の特色は、「展示ホール」と「イベントホール」に大きく分かれ、別棟には、ろうけつ染めを来館者自らが体験する「染色体験室」が設けられていることである。
 「展示ホール」には、野村町を農業・経済両面から支えてきた養蚕、製糸業の歴史や養蚕の基本知識について、写真・図表・模型・実物の道具類が展示され、分かりやすく解説されている。また、野村町の「阿下歌舞伎(あげかぶき)」に使われた江戸時代からの豪華な衣装や、野村町名物の乙亥(おとい)大相撲の化粧回し、元横綱玉の海が締めた横綱、元関脇玉の富士の化粧回しなども展示されている(写真2-2-39参照)。
 「イベントホール」には、中国、インドネシアなどアジア11か国を中心に世界各国の民族衣装約70点が、大きいスケールで色鮮やかに展示されている。また、常設展示以外、積極的に「イベントホール」を開放して特別展を開いている。平成6年12月からは、野村学園(知的障害者更生施設)の卒業生、生徒による版画詩「どろんこのうた」の粘土板や版木など450点の展示会が開かれており、町内外から大きな反響を呼んでいる。
 同館の職員は、「この博物館は、展示中心の博物館で満足するだけでなく、様々なイベントによる体験的、行動的な博物館としての機能と役割をもたせたい。さらに、シルクを中心としたファッション文化情報の発進基地としたいものです。」と、地域を踏まえたシルクミュージアムの方向について語っている。

 (イ)繭から絹織物作りまで~町おこしの織物館に

 **さん(東宇和郡野村町野村 昭和27年生まれ 42歳)
 野村町織物館(シルクウィービング)は、野村町シルク博物館の隣に建設され、平成6年6月、シルク博物館より一足先にオープンした(写真2-2-40参照)。織物館は、製織室・染色加工室・企画デザイン室からなり、新作の手織機8台をはじめ関係の器械、道具を備え、繭づくりから製糸・染色・織布までの一貫生産による手作りの絹織物の創作を目指している。
 指導者には、沖縄県石垣島で活躍していた絹染織作家の**さんが招かれ、町事業として現在8名の講習生が指導を受けている。
 **さんは、八重山(やえやま)織りの本場である石垣島と竹富(たけとみ)島において、17年間にわたり生糸作り、絹織物作りの修業と研究を積み重ねてきた絹染織作家である。
 **さんは、「衣食住の生産のうち、男はあまり衣の分野をやりません。わたしは、物事を『トータルでとらえること』に根本を置き、衣も『トータルに生産する』ことにしました。
 一般的には、養蚕なら養蚕だけ、製糸なら製糸だけ、織布なら織布だけと、技術や生産を別々の分野にとらえる傾向がありますが、わたしは、繭作りから始めて、繰り糸、染色、織布の仕上げまで全工程を一人でやることにしたのです。すなわち、『トータルなシルク作り』にこだわり、勉強をしてきました。東京生まれのわたしは、蚕や繭自体見たこともなかったのですよ。だから、すべて第一歩から始めました。結果的には、素人からスタートした方が、専門的なことにとらわれず、自分のペースでやれて良かったと思います。
 全工程を一人でやる人は日本でも少ないですから、全工程をやる人たちを育てることは、野村地方の養蚕農家とつながる活動ですし、地域に根をおろした大変やり甲斐のある仕事と思っています。」と、この道に入った動機と理念、野村町織物館における指導と活動の意義を語っている。
 目下、8名の講習生(女性7名、男性1名)が**さんの指導を受けているが、すでに一人で数反の絹織物を製作するまでになった講習生もいる。
 伝統ある県蚕糸連野村工場が閉鎖された今日、野村町に今までなかった先進的な絹織物技術が育ちつつある織物館の活動は、シルクの里における地域活性化の拠点として、地域内外から大きな期待が寄せられている。

図表2-2-19 野村町の養蚕業の変遷

図表2-2-19 野村町の養蚕業の変遷

東宇和地域農業改良普及センター資料より作成。

写真2-2-38 品種保存のため4種類の蚕を飼育中

写真2-2-38 品種保存のため4種類の蚕を飼育中

**さんの蚕室。平成6年6月撮影

写真2-2-39 野村町シルク博物館の展示ホール

写真2-2-39 野村町シルク博物館の展示ホール

左側、右側は蚕糸関係、正面奥は阿下歌舞伎関係、手前は元横綱玉の海が締めた横綱などを展示、中央柱は春蚕の繭を詰めたマユ・タワー。平成6年10月撮影

写真2-2-40 野村町織物館

写真2-2-40 野村町織物館

左側に野村町シルク博物館がある。右下に野村ダムと朝霧湖がある。平成6年10月撮影