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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)ウと寝食を共にする二代目う匠

 ア ニ代目う匠のウとの生活

 平成6年9月28日に大洲市中村の二代目う匠**さん宅を訪問した。ちょうど9月20日の今年度のう飼いが終了し27日には大洲市殿町の肱川の河原で、ウの労をねぎらう感謝祭が、大洲市観光協会や関係者によって行われた翌日である。普通は人には見せないというウの飼育小屋に案内された。小屋は四つに仕切られ、その中に4羽ずつウが体を休めていた。小屋の中は大変清潔に水洗いされている。**さんに聞き取りするのをはばかるほど、ウの世話をしている。糞の除去から、う飼いが終わったあとのウの状態を一羽一羽観察しながら適切な措置をしている。親身になって世話をする**さんの腕には、ウにかまれたり、くちばしでつつかれて、年中生傷が絶えないとのことである。
 父親の**さんが昭和32年(1957年)に初代う匠として、大洲の肱川でう飼いを始めた時、**さんは大阪で働いていた。父親を助けるため、初めの数年間は、う飼いの期間だけ大阪から帰って手伝っていたが、その後大阪を引き揚げ大洲に帰って本格的なう匠としての生活が始まった。初代う匠の**さんが84歳で引退され、二代目う匠を引き継いだのが昭和63年である。
 「ウという鳥の性質や習性を知らない人は、う飼いのシーズン中はう匠も忙しかろうが、あとは暇だろう、楽だろう。」という人がいる。「とんでもないことで、シーズン後のウの飼育管理と訓練のほうが大変である。むしろシーズン中のう船の上で働くほうが身も心も安らぐ。」といえるほど、毎日がウと共にある生活である。ウは猛きん類で特にう飼いに使うウミウはウの中でも独立自尊の強い鳥である。飼育小屋には、上から下に3本の止まり木がある。一つの小屋で飼われているウには、当然強いものと弱いものがいて、ボスが一番上の止まり木にとまり、弱いものほど下になる。ウには歴然とした序列があり、当然のことながら、下のウは上のウの糞をもろにかぶることになる。下のウは水漕の洗い場で汚れを落とすが、これには**さんの手を煩わさなければならない。新しく補充した時などは、ボスの地位争いが起こることもしばしばである。
 闘争心、独立心の強いウも病気には弱く、一晩のうちに死ぬことがある。特に冬の期間に死ぬ率が高いという。時には一晩中、ウの体を抱いて温めてやることもあるとのことで、文字どおりう匠とウが一体となった生活である。
 毎年6月1日がう飼いの開始日である。それまでに訓練をして、6月1日までにならす必要がある。現在13羽を飼育しているが、新しく補充する場合、野性のウが捕獲されて送られてくるので、これを飼いならし、う匠の手綱さばきに従わせる訓練が必要となる。大洲で補充するウは、昔は長良川や飛騨や三次などのウを業者を通じて購入していたが、現在はすべて茨城県から愛媛県を通して購入している。1羽が7万円で、それに航空運賃5,000円が必要である。
 新しく入ってきたウは、野性的で独立心がおう盛であり、最初の間は人間が与えた餌(魚)は絶対に口にしない。いくら空腹になっても食べようとしない。その時先輩のウが学習係となる。小屋の中で餌を与えると、先輩のウはわれ先に餌を食べる。新入りは最初の間は先輩の様子を見ているが、決して食べようとしない。しかし、最後には空腹に耐えかねて、餌を食べるようになる。
 アユを取るのは、先輩より新入りのほうがよく取る。先輩は、う飼いが済めば餌をもらえることを知っているので、とかくさぼろうとするが、新入りは餌をもらうことを知らないから、アユを目がけて勢いよく突進する。う飼いの場合は、新入りが師匠格になって先輩に競争心を起こさせる。お互いのウが学習し合って、う飼いを成り立たせている。
 手しおに掛けて訓練したウが死ぬことほど、う匠にとって悲しくせつないことはない。如法寺河原にう塚を作って、丁重にその霊をまつり、感謝と冥(めい)福を祈っている。ウは病気以外で事故死する場合もある。台風のあとなどで、肱川の水量が多く流れが速い時など、上流から流れてきた木の株や枝に、突進して行ったウの手綱が引っ掛かって、溺死することもある。アユは川底の木の株や枝のあるところに多くおり、元気なウはそのアユをとるために突進するので、よく活躍するウほど、事故に遭いやすい。今年のように晴天続きで台風が来なかった年は1羽の犠牲もなかった。
 ウをあやつる手綱の長さは4mから5.5mである。これはたいまつの明かりが水中にとどく範囲であり、同時に、ウが水中で事故にあった時、船頭が手綱を伝って助けに行く、人間の潜れる限界の長さでもある。船頭は手綱を切り、ウを逃がしてやるが、5分以内に逃がせば助かるという。う飼いを始めた当初は、手綱を切って逃がしたウを探しに河口の長浜あたりまで行ったこともあった。ウは、う船を係留する場所で餌をもらうことを知っているので、逃げたウは、う匠や船頭の心配をよそに先回りして係留地にあがり、う匠を見て、「ガア、ガオ」と鳴き声をあげてくる。木の枝などにウが引っかかっている場合は、助けにいった船頭は、ウの綱を切り抱いてあがる。ウは溺れてぐったりしているが、5分以内であれば、う匠の口うつしの人工呼吸でそせいさせることができる(写真1-2-20参照)。

 イ う匠の手綱さばきの妙

 う飼いの観光客は、午後6時に柚木の「うかいプラザ」(平成6年5月完成)か、下流の臥龍苑の柚木河原から遊覧船(屋形船、8人乗りと12人乗りがある)に乗り込む。旅館や料理店から料理や酒が船に積み込まれ、遊覧船は岸に近いところに船を浮かべて、料理を食べ酒をくみ、夜のとばりが降りるのを待つ。日没後遊覧船にはぼんぼりに明かりがともされ、船頭がろを漕いで川の流れと共に下流に下っていく。午後8時前になると、う匠装束に身をかためたう匠と船頭の乗るう飼い船が竹かごにウを入れ、船首にタイマツのかがり火とバッテリーの前照灯をつけて上がってくる。それから段々と下流で待つ遊覧船のほうに下ってくる。船は、川の両側で待機している遊覧船の中に入り、う飼いの様子がよく分かるように下っていく。観客が手をたたき、船べりをたたくと、ウは勢いよく水中に潜りアユをくわえてあがってくる。これがう匠の手綱さばきの妙であり腕の見せ場でもある。
 大洲のう飼いの中で、7月21日の柚木の水天宮のまつり、8月2日、3日の花火大会などの紋日(もんび)になると、70隻近い遊覧船が川一杯になる。この時は3隻のう飼い船が全部出動する。長良川では遊覧船は川岸に係留して見物するが、大洲は川に浮かぶ遊覧船の間をう飼い船が下っていくため、船頭のろさばきも重要である。遊覧船の中に入るとう匠としては、見物人にユーモアを交えた話術でサービスもする。う飼いの距離は全長約2.5kmであるが、肱川は蛇行(曲流)しているので、船が進むにつれて風景も変わってくる。そのことが一層大洲のう飼いを趣きのあるものにしている。
 1日のう飼いが終わると、う匠の顔や首すじはタイマツの炎のすすで真っ黒になる。船首での手綱さばきであるので、炎や火の粉をもろに受ける。そのためう飼い中は度々頭から水をかぶる。終わった時は衣装は水にぬれている。元気なウもさすがに疲れている。ウの体をふき餌を与え、うかごに入れて家の小屋に移すまでう匠としての仕事は続く。今年のように期間中1日の休みしかなかったことは、う匠にとっても大変な労働であった。
 二代目う匠として**さんのモットーは、お客の立場になってう飼いをすることである。昼間暑い中をわざわざ見物にくるお客に感謝し、少しでも喜んでもらう、満足して帰ってもらうことである。「30余年間、初代う匠とともに大洲のう飼いに従事してきたが、ウの飼育にしても技術にしても奥が深くて、まだまだ一人前のう匠になれません。」と謙そんされる。その話の間にも**さんの手は、ウの世話を止めなかった。

写真1-2-20 溺れかけたウに人工呼吸をほどこす、う匠**さん

写真1-2-20 溺れかけたウに人工呼吸をほどこす、う匠**さん

平成5年8月撮影