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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

8 えひめの交通・運輸・通信-三坂峠と駄賃待ち-

 久万高原(くまこうげん)町と松山(まつやま)平野を結ぶ三坂峠(みさかとうげ)は、標高720mの峠で、江戸時代には土佐(とさ)街道、現在は国道33号が通っている。この峠を南へ進むと高知県に至る(図表3-3-1参照)。平野部と山間部の交流について、『県境山間部の生活文化』の中で、久万町(くまちょう)(現在は久万高原町)大字久万町(まち)の**さん(大正10年生まれ)は、口述と文献で次のように紹介する。
 「三坂峠から眺(なが)める国立公園瀬戸内海の島々と、松山城を中心とした松山平野の展望は、旅客の目を楽しませるのに十分である。
 松山の荏原(えばら)から久谷(くたに)を経て、三坂峠に至る道は往来する人々で賑(にぎ)わった。しかし、この道は山並みを横切らなければならないので難所も多い。特に、旧街道沿いの一番奥まった松山市窪野(くぼの)町桜(さくら)地区(標高300 m)から峠まで、急峻な坂道が2km続き、土佐街道最大の難所となっていた。城下町と久万地域とを結ぶ重要なルートでもあったため、荷駄(にだ)(馬で運ぶ荷物)の往来も多かった。同地区で遍路宿と飲食店を開いていた**さん(97歳)は、新聞紙上で『久万の牛市がある日なんぞは、そりゃ賑やかでのう。上る人も下る人も休んでくれてのう。国道が抜けてもしばらくは頑張ったけれども…。』と往時を懐かしんでいる。
 朝は、星をいただいてちょうちん片手に馬の背に荷物を積んで三坂峠を越え、松山城下、郡中等へと、すべての物資を輸送し、帰りは荷物を積んで日暮れて三坂峠にかかり、家路に着くのはまったくの夜中であったという。」
 旧久万町から南下して高知県へ至る土佐街道は、現在の国道33号のルート(仁淀(によど)川沿い)とは違い、久万町から谷間や尾根、峠を越え、旧美川(みかわ)村の七鳥(ななとり)から仕出(しで)、東川(ひがしがわ)から県境に至っていた(図表3-3-1参照)。山間部を往来する街道では、馬が交通機関として活躍していた。馬による物資運搬について、『えひめ、人とモノの流れ』の中で、**さん(昭和8年生まれ)は次のように話す。
 「この東川では、馬が交通運輸と深いかかわりがあるのです。この東川には、農家が130軒くらいありますが、そこに110頭くらいの馬がいたのです。この馬は農耕には使わず、運搬専門でした。山なので農耕に使うだけの広さがないのです。牛は脚が遅く遠くへは行けないので、農耕専門でした。
 戦前の話ですが、高知の池川(いけがわ)町の老舗(しにせ)の酒屋の酒米は、愛媛の米を持って行っていたのです。当時私の曾祖父(そうそふ)が年貢米のさばきを行っていたので、覚えているのです。馬を八頭連ねて、毎日高知へ酒米を運んでおりました。池川へ行って帰ると日が暮れるのです。馬に鈴を着けて、最初一頭だけ出るのです。しばらく経って、あとの七頭が出発するのです。先行した馬が対向してきた馬に出会ったら、相手に『後から七頭続けてくるから、ここで待っていてほしい。』と頼むのです。馬は総量120kgの物を振り分けに積んでいますから、かなりの幅がいるのです。今の軽四よりずっと大きいので、道のところどころに、馬のよけ場というものが、作られていたのです。
 馬による運搬に従事した人たちを、駄賃持ちというのです。あの三坂馬子歌(三坂越えの物資輸送の際、荷駄を追う馬子たちが歌ったもの)というのは、駄賃持ちを主人公にした歌なのです。私たちは人々の素朴な心象(しんしょう)を歌ったものとして、一種の郷愁に似たものを感じていますが、駄賃持ちの人々と、その帰りを待つ家族の気持ちを思うとき、厳しい生活感がにじみ出ているのを感じさせられるのです。駄賃持ちには自分で馬を飼って、餌(えさ)を与えながら、材木の運搬をした人が多かったのです。それが主なる収入源であったのです。そういう個人営業の人以外に、5頭も6頭も飼っていて、馬方を雇って、今でいう運送業をしていた人もおりました。」
 土佐街道は、松山と高知を結び、久万高原町の人々の交通、交流のための重要な生活の場であった。時代が変わり道筋も交通手段も変化したが、この道の大切な役割は今も変わらない。

図表3-3-1 土佐街道と国道33号

図表3-3-1 土佐街道と国道33号