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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

(2)地図から読み解く地域のすがた

 ア 扇状地の土地利用(西条市)

   ○ 扇状地の地形や土地利用は、どのようなものか読み取ろう。  

 扇状地(せんじょうち)とは、川が山地から平地へ流れ出るとき、水の流れる速さがゆっくりになり、土砂や石が堆積(たいせき)してできる傾斜した地形のことで、上空から眺(なが)めると扇(おうぎ)を開いたように見えることから、扇状地の名がある。山地からの出口で扇の要(かなめ)にあたる地域を扇頂(せんちょう)、扇状地の中央部を扇央(せんおう)、末端部を扇端(せんたん)という。
 愛媛県内では、西条(さいじょう)市丹原(たんばら)町にある関屋川(せきやがわ)扇状地が典型的である。
 地形図を見てみよう。図の西南部は等高線の幅が広いゆるやかな傾斜地となっていて、中央を関屋川が流れている。関屋川の上流には、関屋川のほかに田滝川(たたきがわ)があり、この二つの川によって扇状地が形成された。
 関屋川扇状地の土地利用の地図記号を調べてみよう。水が少ない扇央には田がない。かわりに果樹園が広がっている。果樹園では、愛宕柿(あたごがき)や柑橘(かんきつ)類が作られている。最近、梅やバラも栽培されるようになった。
 扇央の山際には田滝や関屋の集落があるが、扇央の中央には集落がない。それはなぜだろうか。扇央では、大雨のときを除けば、川の水が地中深く流れているので水の確保が難しく、住みにくいので集落が形成されなかったのである。『愛媛の祭り』の中で、田滝の**さん(大正12年生まれ)は、次のように話している。
 「井戸を掘っても水の出ないところで、水道ができるまでは村上(むらかみ)の水くみ場へ、順番を待って飲料水の谷水をくみに行っていました。それだけに雨がなければ、作物どころか命にかかわる大事になっていたようです。」
 扇端にある集落の名を、地形図を見て探してみよう。石経(いしきょう)、西長野(にしながの)、中長野(なかながの)、奥明(おくみょう)など、帯状に並んだ集落を見つけることができる。扇端では、地下水が地表に近い浅いところを流れているので、水が確保しやすく、住みやすいので集落が形成されやすい。
 ほかにも、大明神川(だいみょうじんがわ)とJR線路の交差する地点ではJR線路がトンネルになっていて、天井川になっていることや、「出作(しゅっさく)」「新出(しんで)」がついた地名から新田集落があることなど、地形図から様々なことを読み取ることができる。

 イ 製塩業から造船業へ(今治市)

   ○ 現在、造船所が多い波止浜は、どのように移り変わってきたか読み取ろう。  

 今治市の波止浜(はしはま)湾には、現在、6社の造船所が立ち並んでいる。『えひめ、昭和の街かど』の中で、波止浜の歴史に詳しい**さん(昭和48年生まれ)は、「波止浜湾には1万t級の船が浮かんでいて、『造船長屋』と呼ばれるほど造船所がひしめき合っています。このような風景は、全国を見渡しても他に見ることはできない光景だと思います。」と語っている。
 波止浜は、江戸時代から昭和30年代にかけて、製塩業で栄えた町であった。昭和23年(1948年)の地形図を見ると、町の南と東に塩田が広がっている。当時は、町の北側に製塩工場があって、塩田から濃い塩水をパイプで送って製塩していた。
 製塩業が盛んになるにつれて、塩や製塩に必要な燃料の輸送のための海運業も発展していった。また、伯方(はかた)島や大崎下(おおさきしも)島など、近隣でも海運が盛んで、船の需要があった。
 波止浜は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、日本一の急潮(きゅうちょう)とされる来島(くるしま)海峡に臨(のぞ)む天然の良港として、江戸時代には瀬戸内海を東西に行き来する船の潮待ち・風待ちの港として機能し、本州へ渡ったり、四国遍路の途中で大三島(おおみしま)へ渡ったりする南北航路の発着場にもなり、船の修繕も行われていた。
 明治前期の波止浜には、「大工作場」があり、そこで千石(せんごく)内外の船舶を建造していた。明治35年(1902年)、波止浜の富裕な人たちによって波止浜船渠(せんきょ)株式会社が設立され、波止浜湾の西岸にあった塩田を埋め立てて本格的なドックが造られた。当初は木造帆船(はんせん)を建造していたが、大正時代末期から鋼船(こうせん)の建造・修理を行うようになった。
 戦後、海運のスピード化、安全性や確実性が求められるようになり、鋼船の建造が増加していく。来島船渠株式会社では、499総tの鋼船を、規格統一と流れ作業によって複数同時に建造して船価を安くし、月賦(げっぷ)支払い方式で販売して、鋼船を買いたい中小船主の需要を満たし、業績を伸ばした。昭和34年(1959年)に塩田が廃止されてからは、波止浜は造船の町に変貌(へんぼう)していった。
 その後、同業他社との競争・協力が行われるとともに、造船所で建造される船は多様化し、大型化や新技術の導入も進んだ。設計、配管、塗装、部品メーカーなど関連産業も発展し、市内に海運会社が多いため、今治市は世界有数の海事産業集積地になっている。
 現在、波止浜湾の東側を通る「しまなみ海道」(西瀬戸自動車道)から、波止浜の造船所が立ち並ぶ景観を眺(なが)めることができる。

 ウ 臨海地域の変貌(松山市)

   ○ 海岸線や空港の移り変わりから、産業や交通の発展を読み取ろう 

 昭和20年代の地形図と現在の地形図とを比べると、松山の沿岸地域の景観は大きく変わっている。
 海岸の埋立てが進み、空港までの沿岸地域には、砂丘上の荒地だったところに大規模な石油化学工場が立ち並んでいることがわかる。
 松山空港は滑走路が大幅に延長され、幅も広がっている。防波堤や国際物流ターミナルなど港湾施設が整備され、松山港の範囲が拡大され、松山臨海地域が愛媛の空と海の物流拠点として発展を遂(と)げていることがわかる。
 昭和20年代には、南斎院(みなみさや)や高岡(たかおか)を通る旧道が松山空港と松山市街を結んでいた。その後、旧道の南に空港通りが造られ、現在は、弁天山(べんてんやま)のトンネルを通る新道が主流になっている。
 三津浜(みつはま)の町の東北に、破線でトラック(競走路)のようなものが描かれているが、これは競馬場である。
 三津浜競馬場は昭和4年(1929年)に開設された。最初は農家の娯楽として三津浜近辺の農耕馬が集まって競馬をしていたが、その後、軍隊の馬の鍛錬場となった。戦後、昭和23年に競馬法ができ、県の畜産課が主催して地方競馬が始められた。『えひめ、昭和の街かど』の中で、馬主として三津浜競馬にかかわった**さん(昭和6年生まれ)は、次のように語っている。
 「三津浜競馬場のトラックの中には、近隣の農家の田畑がありました。うちの畑は、ちょうど決勝点の前あたりにありました。畑では麦やイモを作っていました。戦後、トラックの中で2、3の農家がサトウキビを作っていましたが、サトウキビの背が高く、観客席から走る馬が見えなくなったため、県から切るよう指示されたことがありました。
 戦後松山に進駐軍がやってきた時、最初の野営地は三津浜競馬場でした。」
 現在の地形図からも、トラック状の街路から、三津浜競馬場の跡を読み取ることができる。

 エ 街道と鉄道路線の変化(内子町)

   ○ 内子周辺の街道の道筋、鉄道線路の変化を読み取ろう。     

 内子(うちこ)は、松山(まつやま)と大洲(おおず)そして八幡浜(やわたはま)を結ぶ街道の宿場町・市場町である。
 まず、内子の町の西側では、街道は山間を通っている。当時は、黒内坊(くろちぼ)から泉(いずみ)が峠(とう)を経て、西から内子の町へ入っていた。町に入ると二筋の通りがあるが、北側の道を通って役場の西の道を八日市(ようかいち)に入り、北へ抜けていた。この道は現在、上芳我邸(かみはがてい)などが残る重要伝統的建造物群保存地区になっている通りである。
 また、内子の町の北側では、松山へ向かう街道は、現在国道56号が通る中山川沿いではなく、山間部を通っている。小田へ向かう街道も、現在、中山川と小田川合流地点の付近から東へ入る道ではなく、水戸森峠(みともりとう)を越えていく道であった。
 次に、明治時代の末ごろに街道が付け替えられ、内子の町の南から街道が入っている。内子の古い町並みの南あるいは東を通り、松山へ向かう道は中山川沿いに、小田に向かう道は小田川沿いに変わった。
 さらに、国道がそれまでの道の南側に新設されている。この新設道路は昭和45年にできた。現代は、高速道路である松山自動車道が開通して、町の南にインターチェンジが設けられた。
 鉄道は、大正9年(1920年)に内子-大洲間に愛媛鉄道が開通し、港町の長浜と鉄道でつながった。当時の内子駅は、現在の内子小学校に近い位置にある。
 続いて、鉄道線路が移動している。国鉄(日本国有鉄道、JRの前身)最後の新設ローカル線となった内山線は、昭和61年(1986年)に開業した。新しい内子駅は高架駅となり五十崎(いかざき)駅も移転し、新しい五十崎駅あたりまでの旧内子線の線路は廃止され道路となった。旧内子駅の敷地は現在、内子町図書情報館・内子自治センター等に生まれ変わっている。
 このように、時代の変化と交通の発達によって、街道の道筋や鉄道線路が変わっていくことがあり、その変遷をたどることで新たな発見がある。

 オ 干拓や埋め立てによる海岸線の移動(宇和島市)

   ○ 埋立て地が広がり市街地が形作られた様子を読み取ろう。

 宇和島(うわじま)は、伊達十万石(だてじゅうまんごく)の城下町である。市立伊達博物館や宇和島城など江戸時代の宇和島藩を知ることのできる文化施設があり、山裾(やますそ)には由緒のある寺院や神社が多く立ち並んでいる。市街地の周囲には1,000m級の山々が迫り、平地が少ないため干拓(かんたく)や埋立(うめた)ては市街地の発展に欠かせなかった。三つの地図に海岸線を色鉛筆で書き込むなどして、海岸線の移り変わりを読み取ろう。
 元禄16年(1703年)の宇和島の絵図である。海岸線を見てみよう。城山の西側や北側は海であった。城は五角形で、周囲に濠(ほり)がめぐらされていた。江戸時代、藩主が住んでいて「御浜御殿(おはまごてん)」と呼ばれた海岸の埋立地は、現在の県立宇和島東高等学校や天赦園(てんしゃえん)等の地にあたる。藩士たちは主に城の南側に住み、東部は町人が住んでいた。北側の山際には「御舟手(おふなて)」があって、参勤交代などの際に藩主が乗る船やお供の船をつないでいた。
 城山の北や西の海では、北の須賀(すか)川や南の来村(くのむら)川が運んできた土砂が堆積(たいせき)し、江戸時代には干拓が行われ、城山の北や西には干拓地が少しずつ広がっていった。
 江戸時代末の絵図に北部の富堤(とみつつみ)新田や南部の兼助(かねすけ)新田などの名が残されている。その後、干拓地が埋め立てられ市街地が広がった。市街地付近の水準点の標高を読むと、2m余りしかなく、低地であることがわかる。
 また、北部の須賀川は、城のすぐ北側で宇和島湾へ流れ込んでいたが、流路が昭和7年(1932年)に付け替えられ、北の山際の近くを流れるようになった。地図を見ながら市街地を歩くと、旧流路の跡がわかる。
 宇和島の海岸線はずいぶん海側に移動している。現在の地形図を見ると、市街地は海側へ広がっていて、「新田(しんでん)町」や「築地(つきじ)町」など、干拓や埋め立てにちなんだ地名がみられる。また、樺崎(かばさき)砲台跡があった住吉山(すみよしやま)の西側も埋め立てられ、新しい埠頭(ふとう)が造られている。
 現在、高架道路(高速道路になる予定)が市街地を南北に縦貫している。高架道路は、市街地をジグザグに折れ曲がっている国道を通るのに比べて速く市街地を通り抜けることができ、市南部や愛南(あいなん)町への移動時間が短縮され、道路事情が大きく変化した。この高架道路の建設に先立って宇和島港の再開発が行われ、「朝日運河」と呼ばれた細長い船溜(だ)まりや樺崎沖が埋め立てられた。
 このように、宇和島は干拓や埋立てによって市街地が広がった町であることがよくわかる。