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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)今日続く柳谷(やなだに)村の伝統的共同生活

 ア 柳谷村の村落生活の成り立ち

 柳谷村は高知県の檮原(ゆすはら)村・東津野(ひがしつの)村・仁淀(によど)村・吾川(あがわ)村など県境に接し、農林業特に林業を基幹産業とする代表的な山村である。明治22年(1899年)、町村制の実施により江戸時代からの柳井川(やないがわ)村と西谷(にしだに)村が合併して柳谷村が誕生した(*6)。戦後の昭和30年(1955年)には、中津(なかつ)村の大字久主(くず)と大字黒藤川(つづらがわ)の一部を合併して今日の柳谷村が成立した。
 柳谷村は、旧村の大字柳井川地区・大字西谷地区・大字中津地区の3地区を基本として構成され、大字柳井川は立野以下12組の集落(組)、大字西谷は郷角(ごうかく)以下12組の集落、大字中津は7組の集落によって村落共同体が成り立っている(図表3-1-7参照)。
 更に、それぞれの集落(組)は数軒から十数軒の小組(伍組ともいう)に分かれるが、この小組(伍組)が村落共同体における「向こう三軒両隣り」的な最小の生活組織の単位となって村落生活を支えている。
 従って、柳谷村の村落生活の仕組みは、大字柳井川の40の小組、大字西谷の35の小組、大字中津の23の小組に小学校・中学校・発電所の4か所の職域の小組を加えて計98の小組群の支えによって伝統的に成り立っている(図表3-1-7参照)。
 各集落の組長は常会長と呼ばれ、嘱託員を兼ねて村役場からの諸連絡や税金の徴収など村の行政の末端機構の役目も果たしている。各集落の協議機関は「常会」と呼ばれ、いわゆる「組寄り」の集会にあたる。

 イ 立野(たつの)地区の共同生活の営み~500年守り続ける常夜燈(じょうやとう)

 **さん(柳谷村立野 明治43年生まれ 83歳)
 柳谷村の中心地の落出(おちで)から約3kmほど山道を登り標高約600mの所に立野がある。立野地区には柳谷村の地番1番地があり柳谷村においてもっとも早く開けた古い集落であった(写真3-1-15参照)。しかし、かつては24戸で集落を構成していたが、現在は過疎化の進行によって12戸に減少している。
 今日、83歳を迎えた**さんは、現在も立野地区において11期目の組長(嘱託員)を務めており、柳井川の無量寺(むりょうじ)の寺総代も44年間務めてきた。また、柳井川の老友会長を17年間務めるとともに、柳谷村老友会連合会長や上浮穴郡老人クラブ連合会長の任にもあたり、柳谷村はじめ上浮穴郡の人々ときずなを結んで歩んできた人である。
 立野の常夜燈は、立野地区の人々の手によって500年間にわたり毎晩明かりを灯し続けてきた。常夜燈は、上浮穴郡はじめ愛媛県内のいたるところに残されているが、毎晩必ず火が灯されるのは大変珍しい行事である。この伝統行事について**さんは、次のように語ってくれた。
 「当番は12軒が順番にやりますが、この白い旗が当番のしるしです。毎日夕方になると当番の主婦が常夜燈に火を灯してお祈りをします。翌朝、次の当番に旗を渡して引き継ぎます。この白い旗を渡すことが、組の共同生活における連帯の輪のしるしとなるのです。立野では常夜燈のことを『オヒカリ』とよんでいますが、組の人々は、大雪の日でも嵐の日でも一日も休まず『オヒカリ』に灯し続けています。」
 「また、常夜燈は『愛宕(あたご)さん』(*7)の愛称で親しまれていますが、愛宕さんは『火の神様』で『村中安全、部落中安全、通行人安全』を祈願したのが始まりといわれています。私が生まれてから一度も立野で火事がないのは、この『愛宕さん』のお陰でしょう。」
 「更に、この白い旗には『愛宕さん』・『金比羅さん』・『秋葉さん』と書かれておりますように、愛宕さんとともに金比羅さん、秋葉さんも合わせて信仰し安全祈願をしております。」
 **さんは、このように常夜燈の火が立野の人々にとって大切な「心の火」であり、「きずなの火」であることを強調された。

 ウ 愛宕まつりとお薬師さん~コミュニティーのよりどころ

 (ア)薬師堂における組の親交

 立野の人々は、2月、6月、10月の年に3回(各月の24日)、農作業に区ぎりがついたころ、ささやかなお祭りをして『愛宕さん』にお礼をしている。そのお祭りは、もともと常夜燈の近くの薬師堂で行っていたが、新しく立野の集会所が建築されたので薬師堂も移し、集会所において地区の全員が集まって行っている。
 薬師堂には宝暦9年(1759年)の銘が記された木札が残されており、中心の薬師如来像の回りには12体の眷族(けんぞく)が配置されている。この眷族は身体が人間で頭が12の干支(えと)で造られている珍しいものである(写真3-1-17参照)。
 愛宕さんの行事とともに昔から続いている伝統行事の一つに「身祈禱(みきとう)」があり、毎年7月14日には「お薬師さん」に一年中の無病息災を祈願している。
 **さんは「愛宕さんの火を守っておれば村は平和で安全でありますから、みんな心からお経を唱えてお祈りをします。お経は、以前には12巻の長い般若心経でしたが、今は短い薬師経の『おんころころせんだいまとうぎそあかてん』を唱えています。その後、みんなで一杯と会食を楽しみ、懇親の交流の機会にしています。」とこのお祭りが安全祈願であるとともに組の人々の連帯を深める場となっていることを語っている。

 (イ)延命地蔵(えんめいじぞう)を祭る~常夜燈とともに

 立野の下の旧街道のほとりに「延命地蔵」が祭られ、立野の人々は常夜燈とともに大切にしている。この行事は「8月1日に常夜燈の当番の旗が回ってきた人は、延命地蔵とお薬師さんに『おかゆ』とお茶を毎日8月いっぱいお備えをして無病息災をお祈りします。毎日ですから当番にあたった人は大変ですが、みんな一生懸命にやります。以前は8月31日に組の全員が集まって平釜いっぱいに『おかゆ』を炊いて会食をしましたが、今は組全員ではやっていませんが…」と立野の人々が伝統的な信仰行事を熱心に続けていることを語っている。

 エ 立野のシロノダイ(古城跡)を祭る

 戦国時代(16世紀)の上浮穴地方は、道後湯築城河野氏の支配下に置かれ、東明神(久万町)の大除(おおよけ)城主大野氏は久万から小田地方、大洲地方にかけて40余の支城を配置して土佐国の一条氏や長曽我部氏の侵入に対する備えの役割を担っていた。
 標高約815mの「シロノダイ」(松岡古城)と呼ばれる古城跡は(*8)、大野氏の大除城の出城(でじろ)の一つといわれ、地元では相原(あいばら)城と呼んでいる(写真3-1-18参照)。
 **さんは、相原城の伝承について「この城跡の言い伝えは、もともと平家の落人の相原左門(あいばらさもん)がここに落ち延びて城を作り、後に大除城の出城になったといわれています。立野の集落の上にある相原城跡にはアララギで作った小さい祠がありますが、私たちは、毎年、7月1日には城跡にいたる小道の雑草を刈って城跡に登り、立野を開いた社(やしろ)としてお祭りをしています。」と立野地区における古い歴史伝承を基にした共同行事の継承を語ってくれたが、ここにも立野の人々が地域の伝承行事を大切に受け継ぎ守っている姿を見ることができる。

 オ よみがえる立野万歳(たつのまんざい)~地域の伝統芸能を守る

 また、立野地区の人々は、明治時代から伝わる伝統芸能の「立野万歳」を楽しんできた。伊予万歳の流れを汲む立野万歳は、明治30年ごろ、父二峰村(現久万町)二名の作太という臼の目切り職人が仕事で立野へ回ってきたとき青年たちが習って始めたといわれる。
 更に、昭和3年から**さんらが中心となって継承してきたが、地区の人口流出によって一時中断された。戦後、**さんらは、「このままでは過疎化の風潮に負けてしまう。常夜燈を灯しつづける伝統とともに『立野万歳』を再び盛り上げようと、青年たちに呼び掛けみんなで心を合わせて復活しました。ただ、現在は、地区の若い人が減って高齢化しましたので、6人で演ずる万歳がやりにくくなったのが悩みですが、小学校の児童にも教えていろいろな機会に踊ってもらっています。」と立野地区の活性化のために伝統行事をよみがえらせ継承する意義と今日の悩みを語っている。
 なお、現在、立野万歳は柳谷村の無形文化財に指定されており、地域の大切な伝統芸能として継承と振興が図られている。

 力 組の寄り合い(常会)~地区の共同生活を支えて

 以上のように立野地区は、共同生活における連帯の輪のよりどころとして昔からの伝統行事を大切に守り続けているが、その舞台が組の寄り合いにあたる「常会」である。組の常会は、毎月26日に組の集会所で開くが、先に述べたように愛宕さんのお祭りの月は、お祭りの日の24日に開いている。常会では、いろいろな協議とともに県民税・村民税・国民健康保険・年金・学校給食費などの公費を持参して嘱託員(組長)が役場に納入する。組には会計係がいて令書の伝達や税金などの公費と組費の徴収にあたっている。
 **さんは戦後これまで11回も嘱託員を務め、文字どおり立野地区のかなめの役割を果たしている。**さんは、「嘱託員は村会議員より職責が重い場合があります。村の人も村会議員より嘱託員を頼って相談に来ることも多いです。寺総代や宮総代も経費、金銭を伴うことは、組長(嘱託員)を通さないとできません。柳谷村にある三つの神社の秋祭りの準備についても組長に相談して進めます。」と地域に尽くす組長(嘱託員)のやり甲斐と役割の重さついて、**さんのこれまでの体験をもとに語ってくれた。
 **さんの語りには、立野地区において500年守り続けてきた常夜燈を心のよりどころとして、過疎と高齢化の進行の現実にめげず共に生き抜く立野の人々の温かい連帯感が伝わってくるようであった。

 キ 柳谷村における過疎と高齢化の現状と課題

 **さん(柳谷村川前 昭和62年生まれ 66歳)
 **さんは、柳井川尋常高等小学校を経て昭和21年(1946年)、上浮穴農林学校を卒業後、食糧事務所に勤務した。その後、柳谷村役場に転じ、昭和38年、36歳のときから柳谷村教育長を22年間務めた。昭和59年から柳谷村助役を4年間務めた後、平成3年、64歳で退職し、現在は柳谷村教育委員会で嘱託として務めている。このように**さんは、終戦直後から一貫して柳谷村の行政や教育の発展とともに歩んできた。

 (ア)「どうなる柳谷村の高齢化」~**さんの問題提起

 **さんは、平成5年7月、24ページの小冊子を個人で発行して柳谷村の有志に配布した。その冊子の題名は『どうなる柳谷村の高齢化-地区別・集落別に現状と5年後の姿を探る(村民のみんなが考えるべき問題)(④)』であり、今日の柳谷村における高齢化の現状を各集落別に様々な視点から分析するとともに、今後のあるべき柳谷村の課題と姿について問題を提起したものである。
 **さんは、すでに昭和52年(1977年)、柳谷中央公民館長在職時代に「村の年齢構造の現状をどう思うか」という思いから「村民のみんなで考える問題」として、「活気のみなぎる10年後の若者の住む村づくり」をテーマとした課題を提起している。
 それから16年後の今日、柳谷村を見つめてきた**さんは、まず「はじめに」において「しかしながら、事態は曾て経験したことのない、容易ならざる新事態であり、未知の高齢化社会に突入していて、さらに急激に高齢化現象の進行する傾向が明らかに察知される現状認識に立たされている。そうした現実を前に、又しても性こりもなく、やむにやまれぬ思いから、『村民みんなで考えてほしい問題』として、敢えて問題提起をするに至ったのである。『時の流れのままに従う』そんな呑気な構えでよいものであろうか』と訴えている。
 以下、**さんのレポートにより現状分析と問題提起のあらましを紹介する。

 (イ)柳谷村の過疎・高齢化の急速な進行の実態

 柳谷村において、どれほど急速に過疎が進行し、高齢化してきたかという実態は、まず、図表3-1-8と9に示されているように昭和50年から平成2年までの15年間に846人、43%の減少を示しており、急速な過疎進行がわかる。
 更に、年少人口率(総人口中の0~14歳人口の割合)は9.5%、生産年齢人口(総人口中の15~64歳人口の割合)は55.1%、老年人口率(総人口中の65歳以上の割合)は35.4%である。一般的には、人口老齢化の始まりは、老年人口率が7%以上になることとされているが、柳谷村では、7%の5倍以上の35.4%であり、いかにきびしい現実であるかがわかる。
 **さんは、これらの問題点について、更に柳谷村の大字3地区(旧村)の実態を各集落(小部落)別に詳しく分析を加えている。その一例として大字西谷地区の分析を示すと、同地区では、年少人口の割合は8.2%と村の平均よりも低く、更に、12集落の中6集落が年少人口ゼロであり、事態の深刻さがわかる。また、老年人口の割合は43.6%で村の平均より高くなっている。
 また、生産年齢人口の15歳~64歳においても45歳~64歳の割合は、48.2%と平均より低くなっており、ここでも村の生産年齢人口、すなわち村の労働力の中高年化が進んでいることを示している。
 同時に、年少人口と老年人口を合わせた従属人口(0~14歳と65歳以上の人口)の増加は、働く年齢層である生産年齢人口の荷が重くなることを意味している。
 **さんは、更に各集落別に年少人口指数(生産年齢者100人あたりの年少人口)、老齢人口指数(生産年齢100人あたりの老齢人口)、従属年齢指数(生産年齢100人あたりの従属人口)についても分析を加え、総合的に次のような「まとめ」で問題提起を締めくくっている。
 「傾向として年少人口は減少こそすれ、増加の見とおしは持てない状況であり、それに反して、老齢人口は急激に増加する傾向を示していることが判明した。
 さらに生産年齢人口を分析してみると、労働力の中高年化傾向が明らかである。その上、従属年齢指数は、労働力1人に対して、従属人口が1人以上という集落の数は、31集落のうち5割強に達しており、さらに、5年後には、その数値が急激に増加する傾向が明らかである。そのことは、労働力の中高年齢化に加えて、従属人口が増加することによって、働く者の荷をますます重くする傾向が進むことが明らかである。
 これらの現象は、有史以来、われわれが初めて経験するまことにきびしい、未知の新事態なのである。このような新事態に、どのように対応すればよいか。そう容易に対応策が導きだせるような、生やさしいことではあるまい。しかし、だからといって、こうした実態をうやむやのまま、なりゆき任せの過ごし方でよいものであろうか。
 今こそ、住民の一人一人が真剣になって、やがて来るべき21世紀には、村の高齢化が、日本列島のベストテン入りをするであろう趨勢の中で、新事態への対応策を導きだすべきではあるまいか。これからのわれわれは、『モデルの無い高齢化社会現象』に対して、『学習による挑戦』をすべき時なのではあるまいか。」

 (ウ)**さんの緊急提言~「高齢化から好齢化社会」へ

 以上のような分析と問題提起についての**さん自身の提言は、次のとおりである。
 「今までは、このような実態調査の資料は村の恥部としていやがっていたが、実態をありのままに赤裸々に出し、それをバネとして立ち上がることが肝要ではないでしょうか。
 高齢化の問題は、有史以来の大問題です。国民健康保険の負担一つをとってみても大変なことです。柳谷村は、西暦2005年には老年人口比率全国ベストテンに入るといわれていますが、その時期はもっと早まりましょう。
 それでは、どうすればよいかという問題ですが、こうなれば開き直って大胆な発想の転換が必要です。すなわち、老人自身が自覚して自立を図り、自ら道を切り開いていくことです。老人が国や県など行政だけに頼らない、足手まといにならないくらいの気持ちでもって依頼心を捨て、自立心とやる気を持たねばなりません。
 まず、好ましい老人社会を目指すことです。好ましい老人になるよう努めるという老人の意識革命が大切ではないでしょうか。『高齢化社会』から『好齢化社会』『老人天国』を作るくらいの理想とビジョンを持ちたいものです。そのためには、『互助互楽』で老人がもっと生活を楽しむこと、むさくるしい老人から脱皮して明るいイメージの老人になるようにしたいものです。たとえば、老人の服装なども、もっと思い切ってしゃれた服装にしたらどうでしょう。
 基本的には、64・5歳~74歳くらいの前期高齢者時代は現役主義で臨み、75歳を過ぎたら余生を楽しむこと、無理をして働き過ぎ、病気で苦しまないようにしたいものです。やはり、休むときには休むという余裕を持った生活を送りたいものですね。
 具体的には、ボケ防止からも新聞やテレビを上手に活用し、スポーツや趣味を持って遊び上手な老人になってほしい。老人の生活に、やるときにはやる、遊ぶときには遊ぶというケジメやリズムを持つようライフスタイルを変えていきたいですね。
 要するに、なりゆきに任せず、理想を掲げて進みたい。高齢化の厳しい現実を直視すると、危機感に居ても立ってもおれない感じです。」
 このように**さんは柳谷村の人々に強く訴えるとともに今後の反響を期待している。また、「日のあたる場所に出ず、縁の下の力持ちに徹することです。」と自らの人生のモットーを語っているが、柳谷村とともに歩んできた**さんの「緊急提言」には、村の現実と将来を憂う熱情が込められていた。更に、この提言について村民の意思を基に考察を進めて第2集を出される予定とのことである。来たる21世紀には、村の人口の過半数が高齢人口とならざるを得ない状況の到来は、柳谷村のみの問題ではなく山村に共通する緊急の根本課題であるだけに**さんの第2集に期待を寄せる次第である。


*6:藩政時代には、柳井川、西谷、中津の各旧村は松山藩領であった。
*7:鎮護・防火の守護神の愛宕山信仰(京都市の愛宕権現神社を中心に全国に分社)、愛媛県内でも各地に祭られて火防(ひ
  ぶせ)の神事を営み、神符を頒布している。
*8:戦国時代、大除城主大野氏(直昌(なおしげ)の代)の出城として柳谷村に築造された城跡は、立野のシロノダイ・城ケ森
  城(別名大成(おおなる)城、西谷字猪伏(いぶせ)又は小村)・天神が森城(西谷)・松岡城(中津)などがある。

図表3-1-7 柳谷村地区別、小組数、世帯数、人員数(平成5年度)

図表3-1-7 柳谷村地区別、小組数、世帯数、人員数(平成5年度)

柳谷村役場資料より作成。地図が集落(組)にあたり、組長は常会長(委託員を兼ねる)と呼ばれる。平成5年1月撮影

写真3-1-15 柳谷村立野地区の景観(立野茶と林業の里)

写真3-1-15 柳谷村立野地区の景観(立野茶と林業の里)

標高約600m。平成5年10月撮影

写真3-1-17 立野の集会所(薬師堂)内に祭られている「お薬師さん」

写真3-1-17 立野の集会所(薬師堂)内に祭られている「お薬師さん」

薬師如来像と12体の眷族(けんぞく)(薬師堂の木札には宝暦9年[1759年]年の銘が記入)。平成5年10月撮影

写真3-1-18 立野のシロノダイ城跡を望む

写真3-1-18 立野のシロノダイ城跡を望む

手前は立野地区集会所(薬師堂)。城跡には石積、堀切(ほりきり)、竪堀(たてほり)、腰郭(こしくるわ)の遺構がある。平成5年10月撮影

図表3-1-8 柳谷村の世帯・人口の推移表

図表3-1-8 柳谷村の世帯・人口の推移表

柳谷村国勢調査資料より作成。平成5年1月現在

図表3-1-9 柳谷村年齢階層別人口構成図

図表3-1-9 柳谷村年齢階層別人口構成図

柳谷村国勢調査資料より作成。