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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)伝統行事を継承する人びと

 **さん(新宮村大窪 昭和22年生まれ 46歳)
 **さん(新宮村新宮 昭和12年生まれ 55歳)
 **さん(新宮村内野 昭和18年生まれ 50歳)

 ア 鐘踊りの由来

 新宮の鐘踊りは、昭和43年(1968年)に、愛媛県の無形文化財に指定され、昭和52年(1977年)に無形民俗文化財と指定替えされた。かつては、県下各地では特色のある念仏おどりや盆おどりがあったが、戦後の混乱期からさらに昭和30年代の経済の高度成長期に、急速な都市化や過疎化現象で、その姿を消していった。そんな状況の中で、新宮村では無形文化財の指定を受け、西庄地区のうち倉六、内野、大窪の3部落(大西神社の氏子数70戸)の人びとの、この行事を保存し継承しようとする熱意と努力によって、今日まで続いてきているものである。
 無形文化財指定を契機に、地区の人びとによって「鐘踊り保存会」が組織された。保存会の役員やリーダーの人びとの苦労と努力、さらに地域の人びとの支えがあって、今日の鐘踊りがあることを忘れてはならない。
 鐘踊りの由来については、いつころから始まったかは明らかでないが、かなり古いことは確かである。阿波国白地の城主大西備中守元武が、天正5年(1577年)に土佐の長曽我部元親に追われ、伊予国金川(川之江市金田町)の轟城で討死を遂げた。元武は天正年間における地方の豪族であるが、その時代にはまれな善政を施し、民心のよりどころの人であったといわれる。その一族郎党は、元武の没後、彼の善政を称え、徳を慕い、その霊を慰めるために各地に大西神社を建立し、その命日を祭日とした。その神社は阿波国20社、讃岐国6社、伊予国8社、土佐国1社の35社を数える(㉔)。
 新宮村では、備中守の命日、旧暦8月1日八朔の日を大西神社の祭礼日とし、その霊を慰めるため鐘踊りを奉納するようになったといわれる。現在は踊り子の小学生のことを考えて、昭和57年(1982年)から8月の最終日曜日とした。明治の一時期鐘踊りが途絶えかけた時があった。ところが「その年は赤痢が大流行し、36人もの患者が出た。氏子の1人は夢うつつの中に衣装をつけて踊る姿がちらついた。これはさだめし、大西様が踊りを続けるようにとおっしゃるのだろう。(③)」ということになり再現されて今日に及んでいる。
 鐘踊りのおどりのスタイル、太鼓や鉦の打ち方、おどりの際唱えられる歌詞などについては、愛媛県教育委員会の『別子山・新宮民俗資料調査報告書(③)』、和田茂樹氏の『愛媛の民俗芸能(㉕)』、白石由和氏の『新宮村の鐘踊り(㉖)』、信藤英敏氏の『新宮村風土記―鉦踊りについて(④⑤)』にくわしく記述されているので割愛する。ここでは鐘踊りに村の人びとがどのようにかかわってきたのか、という視点で鐘踊りをみていくことにする。

 イ 鐘踊りを継承する人々

 鐘踊りに直接かかわる人々は、役員として宮司1名、責任総代1名、部落総代7名、神社会計総代1名、鐘踊り会計1名、顧問2名、当屋1名の計14名である。踊り子は22名である。大西神社の祭礼には、その年の当屋が選ばれる。当屋は3部落の回り持ちである(内野と倉六が1組で当屋、翌年が大窪で当屋1回)。昔は当屋に選ばれることは栄誉なこととされていた。近年のように住宅が個室化してくると、踊り子を含めて30人の人々を接待する家が少なくなり、なかなか当屋選びも大変である。
 新宮村郵便局に勤める**さんは、昨年(平成4年)に大窪の**さんから鐘踊り保存会長を引き継いだ。会長となった**さんは、鐘踊りでは鉦を持つ小関を受け持っている。**さんが子供のころは、部落内に子供も多く、**さん自身は踊り子にはなれなかったという。「今は逆に、子供が少なくなり、小学生の踊り子を捜すのが大変になってきた。今は西庄小学校児童が4人しかいない。今年の踊り子は、他の地区の小学校の児童も加わってもらっている。それも、もと大西神社の氏子で、倉六、内野、大窪に住んでいた人の子や孫に頼んでやってもらっている。」子供の役を大人が代役するわけにはいかないのでということである。
 それぞれ踊り子は衣装をつけ、道具を持って踊るわけであるから、かなりの時間、練習をする必要がある。練習は祭礼の前の10日間、毎晩8時~10時までの約2時間ほど、神社に隣接する西庄小学校の集会所や運動場で行う(写真2-2-24参照)。新宮小学校の子供たちも、母親や父親の車で連れられて夜の練習に来ていた。練習の合間に、役員さんや子供の母親が、傷んだ衣装の繕いや、花笠の飾りつけをして当日に備えていた。
 今年の当屋は倉六部落の**さん宅である。当日は午前11時に、神官、総代、踊り子が当屋の**さん宅に集合する。当屋で最終の衣装の飾りつけや点検をして、当屋では一同に昼食が出される。
 大西神社の神官は、新宮の熊野神社の**宮司が兼務している。**宮司は、村の文化財保護委員でもあり、鐘踊り保存会の役員でもある。当屋の家では、**宮司によって、本日の鐘踊りを奉納する旨と、**家の家内繁栄と、踊り子一行の道中の安全の祝詞とおはらいをする。
 当屋を出発する前に、まかないのお礼をこめて当屋で鐘踊りの一部をおどり、隊列を組んで、鐘と太鼓を鳴らしながら、大西神社に向かって行列して行く。今年は神社より上部の倉六であるので、上の道をう回して神社の下の道まで歩き、そこから約30mの「踊り坂」の急坂を登っていく。先頭は鼻高の面をかぶった猿田彦(露払い)で、その後に紋付き羽織・はかまに正装した当屋の**さんが御幣(幣束)を持ち、踊り子が続いて上がる。舗装されていない「踊り坂」を登るのは大変で、踊り子たちの顔からは汗がしたたり落ちている。
 神社の境内に木の支柱が立てられ、しめ縄が張られている。その中が鐘踊りの踊り場である。踊り子たちは境内につくと一休みして本番をまつ。休息している間に、神社の拝殿では祭礼の神事が行われる。参加者は当屋の**さんをはじめ部落総代の人々である。
 今年は倉六からの行列であったのか、鐘踊りの開始が例年より遅れ午後2時前となった。この祭りには西庄地区の人々をはじめ、この地区から県内外へ移住していった人々も帰ってくる。大西神社の社前で拍手を打っている人、境内のそこここで久し振りのあいさつを交わす風景が見られた。その他に新宮の鐘踊りが広く世間に知られるようになって、放送局のカメラやアマチュアカメラマンも大勢集まっている。中には高知や徳島からも来ていた。晴天にも恵まれて、見学の観衆も200人以上で、踊り場の周りを人垣で埋めた。
 踊りは、踊り場へ入るまでが「打ち入り」という踊りで、棒振りが棒を放り上げて、しめ縄ごしに受けとめる。一同順次踊り場に入り、「打ち入り」の踊りが終わるとおはらいの隊形に整列し、再び**宮司によって、ただ今から鐘踊りを奉納する旨と、この場所に参集された人びとの上に神の加護があることの祝詞とおはらいがあって、いよいよ本番の踊りが始まる(写真2-2-27参照)。
 踊りは、「寄せ」、「七つ」、「三つ」、「九つ」と踊ると約50分かかる。これを一庭という。全部踊り終わると午後5時ぐらいになる。昔は「踊りが終わると観衆がどっと殺到して、踊っている者の装身具の一部(花笠の花)を奪い取る。この花は自家の門に挿しておくと、1年中の悪疫除(よ)けになると信じている。(③)」とのことであった。**さんによれば、「昔は手作りであったが、今は造花で笠に結びつけているので持ち帰ることはしなくなった。」とのことである。
 
 ウ これからの課題

 「部落に子供がいなくなること、後継者をどう確保するかということである。今年も西庄小学校の児童だけでは踊れなくなるので、西庄地区出身の新宮に住む人の子や孫に参加してもらった。大西神社の祭礼は西庄地区の氏子のお祭りではあるが、無形民俗文化財として指定されている以上、新宮村全体で育てていく必要があると思います。古くなった衣装を新調したりする場合は行政からの援助を頂いているが、これからも新宮の伝統芸能として、この文化財を子孫に継承することが、私どもの務めだと思います。」と保存会長の**さんは語ってくれた。

写真2-2-24 本番にそなえ夜間に鐘踊りの練習をする小学生

写真2-2-24 本番にそなえ夜間に鐘踊りの練習をする小学生

練習は神社に続く、西庄小学校の集会所や運動場で祭礼の前の10日間、夜の8時から10時まで練習をする。平成5年8月撮影

写真2-2-27 新宮村上山の西圧の大西神社境内の鐘踊り

写真2-2-27 新宮村上山の西圧の大西神社境内の鐘踊り

鐘踊りを見学するために集まった観衆とアマチュアカメラマン。平成5年8月撮影