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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(1)道路網の整備と柳谷村落出の変貌

 ア 道路と落出の開発

 **さん(柳谷村大字柳井川 明治43年生まれ 83歳)の口述を中心にまとめる。
 落出(おちで)は、柳谷村の役場のある中心集落で国道33号線が通じ、松山までは55km、高知まで68kmである。約100戸の家並みが仁淀川の岸沿いにあり、一本の細長い裏通りのない街村である。西側は山を削って建てた家並みであり、東側は仁淀川の河岸に背を向け、表の道路面は2階でも裏は4階、表の道路面は1階でも、裏は3階で、下は物置にした下屋のある家並みである。
 この川岸沿いの道路が土佐街道の幹線となったのは明治25年(1892年)で、それまでは久万町-有枝-七鳥-土佐池川が幹道であり、藩政時代の迂回路は猿楽石-雑誌山を通る山頂の道であった。そのため落出には田畑が少しあっただけで店は一軒もなく、大方は竹ヤブで狸の巣だったという。
 最初に住みついたのは、明治20年(1887年)久主(くず)(現柳谷村)の梅木音吉であった。彼は予土横断県道が開通した時、仁淀川が急流のため往来ができず、対岸の中津村(現柳谷村)との間に渡し舟場(*2)ができそこの初代渡守となった。そして彼の妻は豆腐屋を営み昭和の初期まで「豆腐屋のおばちゃん」で愛称されていたとか。松田旅館の創始者松田久吉は風早(現北条市)の出身で当初は行商に来ていて定住し、明治21年(1888年)旅館と飲食店を始めた。大正10年(1921年)に「仁淀川吊り橋」が仁淀川に直角に架設されるまで、洪水の時には渡れないので宿が繁盛したそうである。落出は名のごとく、交通的に位置がよいので明治32年(1899年)には久主から郵便局が移ってき、また、医師大妻文三郎が開業。その後明治43年(1910年)に吉村孫吉医師を迎えた。
 将来の発展を読んだ人々が集まり、旅館、豆腐屋、飲食店、茶店などが並び明治37年(1904年)には戸数が16戸になり、狸の巣は一朝にして村の中心地となった。
 明治時代の集落は、橋から松田旅館の間に最初は形成され、橋より北は大正時代の建物で郵便局から北は昭和になってできた町である。
 面白いことに『耳目80年(⑪)』によると、医師の二人は村内人だが、他は皆村外人で、北条、松山、久万等から新開地として素早く眼をつけた人々である。ひともうけして帰る組がほとんどで定往者はいくらもない。やはり村内人は農耕業を捨てて金もうける気にはならなかった保守性のため、時代変化の捕らえ方が遅かったのであろうと述べている。
 落出の渡舟連絡は、仁淀川吊り橋(大正10年)が架かるまで30年間続いた。この吊り橋は目の覚めるような大きな高い立派な橋で、これでやっと松山や高知から民間自動車が連携して走り始めた。一日一便で始まり、漸次増便したが、沿道の小学校では定期便が往来する度に、児童が勉強をやめて沿道へ走り出て、歓声をあげていたとか。
 『愛媛の明治・大正史(⑫)』によると、愛媛自動車によって昭和2年(1927年)4月3日土佐街道線(松山-久万-落出-西谷(にしだに))が開設された。ここには以前から中央自動車が路線を開いていた。高知からは、高知市の野村自動車が乗り入れていた。高知から松山へ行く人、逆に松山から高知へ行く人は落出でバスを乗り換えていた。高知側が1社、愛媛側が2社競合ということで、高知からの客が到着すると愛媛自動車・中央自動車のバスが並んで待っていることが多かった。両社の幹部間では激しい競争意識を燃やしていたが、運転手たちはノンビリしたもの。客を適当に分配していたとか。
 土佐街道は松山-三坂-久万までは何とか離合が出来たが、落合からは車一台がやっと通れる程度の狭い道。そのため離合は大変で、ほとんどの運転手は泣かされたようである。その上に冬場は雪どけで道がぬかるみ大変だった。また、車輪の跡が深いミゾとなり、いったん入り込むとなかなか出られなかった。ムリにハンドルを切りエンジンをふかすと、勢いがつき過ぎて道の外へ飛び出してしまう。道の外がガケになっていれば大変だ。だれもが山手へ山手へ先を競った。
 当時は料金(落出-松山間7円50銭)が高かったので大部分の人は松山へも歩いていたとか。松山へ行くとなると、一日行程にするために朝3時ごろには出発したようである。古老の話であるが、森松へ早く着いたので、坊ちゃん列車に乗らないで3銭の汽車賃を倹約したとか。
 14年たって昭和10年(1935年)に仁淀川吊り橋(写真2-1-16参照)は、コンクリートの永久橋として落出大橋(幅4mの旧橋)に生まれ変わることとなり3万円で仁淀川に直角に竣工された。これは交通量の増大やトラックの増加等で、揺れる吊り橋では対応出来なくなったためとか。まえの吊り橋は現在美川村平井橋として村道に使われて今でも役立っている。
 ここで自動車運輸は、本格的に普及していった。同年7月2日国鉄バスが松山-佐川間全通し、車種も大型化し、急行便もデビューし「予土線」の線名もつけられた。
 昭和40年から国道33号線の幅員拡張工事が行われ、旧落出大橋の下流に、幅6mの新落出大橋が仁淀川に直角ではなく斜めにカーブをつけて、昭和42年に架設された(写真2-1-17参照)。いま旧大橋はJRバスの駐車場となっている。
 国道が落出の発展の第一の節目となってから約25年くらい経って第二の節目を迎えた。それは水力発電所ができたことである。伊予水力電気株式会社が黒川に大規模な発電所を建設することが決まったのである。この工事の請負者は大阪に本社がある才賀電気商会であった。
 大正6年(1917年)に落出を中心に近くの集落60戸に電灯がともった(全村皆灯となったのは昭和20年末)。当時郡役所、営林署、警察署等のある郡の中心久万町がランプなのに、一部とはいえ柳谷に電灯がともった。当時の様子を『耳目80年(⑪)』は、工事中には労働賃金や、土地代として、また竣工後には村が行った公共補償による村道整備、役場建築等事業が多いことで金が落ち生活は向上した。上酒、サイダー、ビールが落出の店頭に並び、購買力を目当てに商人が売り込む衣料は上物であり、家具や什器も会席膳等がはいり、郡内一のモダン地帯となったと記している。
 企業の志向は、第二、第三黒川水力発電所の建設へと進み、現在黒川水系に大小5つ、仁淀川本流に2つと計7つの発電所が建設され、村の生活、文化向上の大きな節目となったことは明らかである。

 イ 街の動き

 岩市旅館の**さん(柳谷村大字柳井川 明治43年生まれ 83歳)
 「最も客足が多く繁盛したのは終戦後の食糧難の時代でした。当時5軒の旅館は超満員でごった返し、愛媛県側は食料品の買い出しに、高知県側は魚類、果実、ドブロクの販売に来て、当時は泊まらなければ帰れないため泊まり客で大混雑だった。また柳谷には発電所が7か所あり、工事の補修等で技術者の出入りが多く、松山からは四国電力、電話局、山林関係者等で繁盛しました。しかし、良いことばかりではなく、客室にある掛軸、置物をはじめ衣類等紛失することが多く、また宿泊の工事関係者のなかに、病人が出て入院に必要な衣類を構えて貸与したが、その時の宿泊費、品物はそのままになったこともあります。昭和35年ごろより道路の整備と共に交通機関の発達(図表2-1-13参照)、自家用車の普及等で宿泊者もなくなり、旅館も昭和28年ごろには5軒もあったが、同45年ごろより姿を消していき、現在営業しているのは民宿2軒のみです。」と語る。落出は、土佐の国と伊予の国を結ぶ街道筋の宿場町として道行く旅人の憩いの場所であったが、その当時の面影を偲ぶものは、ほとんど形として残っていない。しかし、そうした人の心を和ませる雰囲気が街並に、また、人との触れ合いの中に、柳谷村独特の風情は今も残っている。自然とともに生きていく素晴らしさを感じる幸せを、いつまでも大切に持ち続けていたいものである。

 落出で商業を営む**さん(柳谷村大字柳井川 大正9年生まれ 74歳)
 「昔は、高知3、松山7の割合で商いが行われていたようで、主に生魚、金物類の取引が多く、柳谷の三椏(みつまた)を集荷して高知商人が買っていたとか。明治43年(1910年)に高知県窪川町仁井田より吉村医師を迎えたのを考えても、高知との交流はかなりあったと思います。
 明治44年に黒川水力発電所が完成し、水力発電開発工事のため地元にはまとまった土地売渡費、労務者には高賃金の支払いで落出は好況に湧いた。更に、次々と発電所ができ、工事中は飯場が各所に設けられ、機械化されない当時はすべて人力であったので、労務者の数は多く、また竣工後は発電所ごとに10戸程度の社宅がおかれ、その購買力が落出を潤すことになった。私の家でも社宅を回って注文取りをし、品物を運んでいました。今はすべて自動化され社宅がほとんど無くなり、人口も減少し商売は寂しい限りです。
 昔は私の家も衣料品以外の日用品を取り扱っていまして、西谷、中津、柳井川の方は、落出に買物に来て、みんな品物を背負って帰っていました。酒等は久万の地酒を荷馬車で運び、落出から西谷へはお正月前ともなれば、馬方が数頭の馬を引き、酒、食料品、日用品を運ぶため通っていました。
 仕入れは、今のように卸屋さんが注文取りに来てくれませんので、松山まで行っていました。松山に中津屋さんという旅館をしながら、私たちの地域の商品を集荷するところがありまして、そこからトラックで柳谷まで運んでいました。
 昭和40年ごろから33号線の改修工事が始まり、工事中は潤いましたが、終われば立ち退き、出稼ぎ等で年々過疎化現象、高齢化現象その上に道路が良くなったことで、毎週曜日を決めて近くの各部落へ移動スーパーが5~6台が入って来るようになり、落出での買物客はますます減少の傾向にあります。またバス便が多く、その上に自家用車を所有している人が多く、高価なものは松山まで出ていかれ、そのついでに日用品なども買って帰られ、落出の購買力は減少しています。」と語る。
 落出においても商工業を取り巻く環境は非常に厳しい。柳谷村商工会を中心に様々な活動を行っているが、ここでは商工業のみの発展ではなく、他の産業との連携を強化し、促進することによって振興させていく商業活動が模索されている。
 今後とも地場資源の見直し、開発を念頭におき、この村の環境に合った商工業を目指し可能性を求めて、常に発展に向け、商品の研究開発を中心に振興策を進めていくことが大切である。


*2:渡し舟
   ワイヤ線を両岸に張って、この線に鉄環と舟とを2mくらいの鎖でつないでおく。渡守がワイヤを手操ると舟が前進する
  仕組みで当時としては国家事業だからできたのであろう。

写真2-1-16 大正10年に架けられた仁淀川吊り橋

写真2-1-16 大正10年に架けられた仁淀川吊り橋

現在美川村平井橋として役立っている。平成5年8月撮影

写真2-1-17 斜めにカーブをつけた新落出大橋

写真2-1-17 斜めにカーブをつけた新落出大橋

平成5年8月撮影

図表2-1-13 JRバス運行路線図

図表2-1-13 JRバス運行路線図