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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(4)リンゴの花咲く開拓ムラ

 ア 自分で自由にできる百姓を

 **さん(久万町下畑野川西峰 昭和3年生まれ 65歳)
 第2次世界大戦によって、空白状態になった我が国の食糧生産は、戦後もずっと尾を引き、国民食糧の不足は目を覆うばかりであった。その緊迫した食糧事情と、終戦による旧軍人の復員・外地からの引揚者等への対応を含め、食糧確保と職を失った人々の就農を促す手段として政府は、昭和21年11月「緊急開拓事業実施要領」を閣議で決定し、大規模な開墾・開拓計画に乗り出した(⑨)。
 かつての開拓ムラで、観光リンゴ園を営んでいる**さんたち9戸の農家が、久万町下畑野川(旧川瀬村)の西峰開拓地に入植したのも、この計画の延長線上のものである。
 **さんは、もともと下畑野川地域の生まれである。海軍志願兵としての軍人経歴をもつが、復員後は郵便局に勤めて郵便配達の仕事を受け持っていた。そのころ、同じ村内の小高い西峰山に開拓の入植者を募集している計画を知った。
 **さんは、「郵便局の配達で人に使われるよりも、自分で自由にできる百姓がしたいと考えているときでした。私は7人兄弟の長男でしたが、親や家を弟に頼んで、山に入って自由な百姓をしたいと相談すると、親も弟も『ほいたら、やってみい。』ということで気持ちよく了承してくれました。そして、入植したのが昭和24年です。そのとき私は21歳でしたが、親せきの人たちが、『山へ入るのに一人だけ入れたんでは、百姓にならんけん、嫁をもらわにやいけん』ということで、ここに入植する前に結婚しました。新婚といっても、入植に合わせて急いで建てた家は、まだ表囲いができただけの状態で、開拓地の生活に入りました。」
 入植当時は農業機械どころか、くわ・かまさえも自由に買えない時代で、古い道具を親から借り受けて仕事に取り掛かった。そのころの西峰は、直径30~50cm もある大きい木の生えていた山林で、それを切り倒し、根を掘り起こしての開墾であるが、なにしろ人力だけの開墾では限界があり、始めのうちは切り株の間だけを打ち起こして畑にしたという。そして、そのうち切り株も根が腐って掘り起こしやすくなり、次第に畑の面積が広がっていった。
 当時の生活について**さんは、「入植した開拓地は、電気も無ければ道路も無く、人間が歩けるだけの兎道(うさぎみち)(小さい道)しかない人里離れた所でしたから、夜になれば人の声は聞こえず、寂しい生活でした。昭和30年に電気が入るまでは、ブリキで作ったカンテラの生活です。また石油ランプもありましたが、始めのころは、石油も配給制で、1か月の灯油割当が5合(約1ℓ)でしたから、大きなランプを使うと燃料が足りなくなります。それで、日常の生活での夜はカンテラの灯(あか)りを頼りにした暗い夜でした。畑野川の峠の茶屋にあった明治時代の明るいランプを譲り受け(写真1-2-30参照)、電気が入るまで使い続けたのは、石油の出回りが増えてきてからです。この西峰地域も、昭和30年には待望の電気が導入されました。家事や育児に手間のかかる家内にとって、ランプ生活では夜の仕事が暗くてできんかったものですから、明るい電気の下での生活が何にも増して嬉しかったようです。」そのころ愛媛県では、開拓ムラの電気導入を積極的に進めるため、「農山漁村電気導入促進法」を適用してその実現を図り、42年末までに県下67の開拓ムラに明るい灯が点(とも)った。
 開拓地での新しい畑には、オカボ(陸稲)・サツマイモ・トウモロコシなど自給食糧の確保を前提とした作付体系がとられてきた。昭和26年に開かれた県内開拓ムラの多収穫共進会で**さんは、陸稲の部で三等に入賞している。「開拓地での陸稲は普通反当たり収量が120~150kgと少ないのですが、このときには、250kgほどありました。この入賞が、一つの起爆剤になって百姓に面白味がわいてきました。そして牛も飼い、2~3年太らせてから売買した差益金を貯えてまた牛を飼うという方式を、50年ごろまで続けました。この牛の堆肥が、作物を育てる土の力をつけることに大変役立ったことは言うまでもありません。」
 「毎年、1反歩(10a)くらいずつは、畑を新しく開墾してきたので、面積も次第に増えてきました。そして、食糧自給の道が開かれるようになったので、今度は、現金収入ということを考えるようになりました。昭和28年には、この久万山に葉タバコが導入されるようになり、その栽培希望を申し入れておりましたところ、初年度は11aの栽培許可となり、それからずーっと葉タバコ作りを続けました。作り始めのころは道路もなく、およそ1kmの山道を収穫した生葉を負い子で背負って共同乾燥場まで運びました。そのうち、『山の開拓地にタバコの乾燥場を建てたらどうか』と周囲からも励まされ、昭和30年にそれが実現しました。そして、その後は順次葉タバコの面積を増やしていって、最盛期の昭和45~50年にかけては、1.3haのタバコ作りを行ってきました。この時期、『タバコ作り大面積農家』ということで、全国8名の表彰農家の中に入れてもらったことも思い出に残ります。(写真1-2-31参照)」
 「それから、しばらくして葉タバコが生産過剰となり、今度はタバコの減反政策がとられるようになりました。タバコ作りは手間も多くかかり、乾燥などの厳しい仕事が待っているので、その取り組みには苦労が伴うことを承知で始めた栽培でしたが、時の流れには、逆らいようもありません。次第に面積を減らして、54年を最後にタバコ作りを打ち切りました。
 ちょうどそのころ、この久万山ではダイコンのいい物ができておりまして、タバコの収入を上回っていました。それに毎日、相場が分かるので、面白味があるということを聞かされていましたので、私も、ぼつぼつダイコン作りを始めていたのですが、今度はタバコに代わってダイコンづくりに本腰を入れるようになりました。ダイコンの出荷先は高知市場です。高知の人は、魚をたくさん食べる関係で、その付き合わせにダイコンの消費が多く、松山よりも高知の相場のほうが高値で取り引きされていたことが、その理由です。それでも毎日夕方5時くらいに家を出てダイコンを高知の市場に運び、真夜中の12時くらいに家に帰ってくる個人出荷の方法は、今考えると大変な仕事だったと思います。私らもそのころは、若かったから苦にもならんかったんですが、年をとるほどに体が追いついていかんようになり、『これはもう農協に頼らんといけん』ということで、58年には農協のダイコン部会を結成し、共同販売組織に発展しました。私は、いまもダイコン作りを続けていますが、今年の春、家内が健康を損ないましたので、今年の種まきは、控えめにしてきました。」
 「リンゴ作りを始めたのは56年からです。隣りの**さんとは、ちょうど同い年でもあり、入植当時から手を取り合ってきた仲間ですが、お互いにダイコンを作りながら、『何ぞ楽で金になるものはないかのぉー。』と話をしながら農協の鈴木指導員に相談したところ、しばらくしてから『リンゴをやってみないか』という答えです。鈴木さんは、自分でも導入作物を検討し、町の産業課長さんとも相談した結果の提案でした。『リンゴを作る言うても、そう簡単にはできんとは思うが……。』とためらっておりましたが、一応、『先進地の長野に勉強がてら視察に行ってはどうか。』と勧められ、開拓ムラのみんなとも相談をして、10人くらいで、長野の善光寺の近くの荒井農園を訪ねました。長野の荒井先生は、『まあ、やる気になっとるんじゃったら、久万には行ったことが無いけど、一遍現地の状態を見に行こう。』と約束してくれましたので、心待ちにしていたところ、その冬に、私たちの所に足を運んできてくれました。」
 そして土地条件、気象条件など、リンゴ栽培に必要だと思われる、いろいろな資料を集めて検討した結果、「やれるんじゃないか。」「やってみんか。」という助言があったのである。
 まず第一年目は、高知県の苗木商から30本ずつの苗を分けてもらい、その試作を行っていたが、翌年には、「どうせリンゴ作るんじゃったら30本も100本も同じことなのでいっそ観光農業を目指して、やってみんか。」と当時の久万町産業課長からの新しい提案があった。**さんは「私らは物好きも手伝って『そんじゃ、やってみるか。』ということになり、その翌年には540本の苗木を一挙に導入しました。もちろん、長野の荒井先生や、高知の苗木屋さんからの手取り足取りの指導を受けながらの取り組みでしたが、59年には待望のリンゴがやっと実を付け、その年初めて1,500個の果実を収穫することができました。それから徐々に面積や収穫量も増えてきて、10年目に当たる今年は、10万個の果実に袋かけをしました。」
 懸案であった、開拓ムラの西峰に通ずる道路は、畑野川地域の地元の人たちが「開拓地の人たちが苦労しとるので、皆で応援しよう。」と、勤労奉仕並みの安い賃金で工事を手伝ってくれたため、昭和37年には完成している。そこから先のリンゴ園に通ずる500mの道路は、同じ観光りンゴ園に取り組んでいる隣りの**さんとの共同で、町の助成を受けながら5年ほど前に、バスが通れる広さの道路を開通した。
 「観光農業といっても、私らは山生まれの山育ちで、お客さんの応待ということが苦になったのですが、近ごろは大分馴れてきまして、お話し相手もできるようになるし、質問があったら、知っとる範囲でお答えもしております。お陰様で、年々お客さんの数も増えてきて、9月から11月にかけてのリンゴの収穫シーズンには毎年5,000人くらいのお客さんをお迎えしています。」と軌道に乗ってきた観光農業に目を細める(写真1-2-33参照)。
 ふりかえれば、つらく寂しい開拓ムラでのくらしもあったと思われる。**さんの奥さんは、「人里離れたこの環境に馴れるまでは、非常に寂しかったです。入植当時には主人の親ごさんや兄弟の人たちが、開墾の手伝いによく来てくれました。そして夕方作業を終えて里の家に帰られるのを見ていると、一緒に付いて下に帰りたい、寂しいよーという気持ちでいっぱいでした。それに最初は道路もなく、水も遠い所にまで桶(おけ)をかついで運びにいっておりましたので……。それからみると、いまは楽になりました。」また「開拓時代の労働は思ったより重労働という感じはしなかったですね。考えようによっては、家の周囲に畑があるので、遠くに出かけなくともよい利点もありました。まあ年も若かったせいか、タバコやダイコンをたくさん作っていたころには、張り合いがあって楽しかったです。」寂しさにじっと耐えながら、自分の体を張って楽しさに切り替える、そんな女性の粘り強さをここでは見た。
 緊急開拓事業で始まった、愛媛県の戦後の開拓入植者の戸数累計は、およそ20年を経た昭和45年には、2,450戸になっているが、営農条件としての適地性の問題や経済の高度成長などを背景に、離農が目立ち、現在では開拓ムラそのものの存在が、すでに失われているものが少なくない。その中にあって**さんたちの西峰地域では、入植当初の農家9戸のうち6戸までが、今もって健在で畑を守り、残りの3戸も人の入れ替わりはあったものの、そのまま西峰地域に残ってゆとりある生活を続けている現状は、まさに汗と涙によって築かれた、努力以外の何ものでもない。

 イ 久万高原に生きる夢

 **さん(久万町下畑野川 昭和17年生まれ 51歳)
 高知県生まれの**さんの家族が、久万町下畑野川地域の千本原開拓地に入植したのは、昭和33年の4月からである。千本原は、戦前・戦後をとおして開拓されたという耕地が、およそ30haあり、当時は、陸稲を中心に栽培が行われていたのであるが、その耕作はほとんど地元の農家が、人力だけの手開墾で進めたもので、この開拓地に住居をもって入るという入植者は、**家一軒だけであった。この人里離れた開拓地への入植に踏み切ったのは、生まれ故郷の高知県池川町の農業での立地条件があまりにも厳しく、急傾斜地と台風災害から逃れ出るためにも、新天地の移住開拓が必要であったという。当初は南米移住も考えていたとのことであるが、親せきなどからの反対が強く、結局、高冷地農業としての面白い取り組みが予測できる、久万高原に生活のよりどころを求めた。
 **さんは、「中学に入ったころ、機械も使えない急傾斜地で、一生懸命作った作物を、一夜の台風で全部持って行かれてしまった両親の姿を見ていて空しく感じ、その時点から、土で生きるなれば、もっと違った形で所を変え、土地を変えて挑戦し、それに見返りのある収穫の喜びを味わえんだろうか……と考えていました。中学を卒業した年に、家族は久万の千本原(せんぼんばら)に入植したのですが、私は百姓の卵を育てる修練農場(帰全(きぜん)農場)が高知県の窪川町にありましたので、そこで、土を愛し、土を耕し、収穫の喜びを味わうという百姓の生き方を学びました。短い一年の間でしたが、私にとっては意義の深い研修期間でした。そして家族よりも一年遅れで久万の家に帰った私は、今度は農業の基礎知識の学べる上浮穴高校に入学しました。ここへ入植した当時は、まだ道路ができていませんでしたから、私の家から久万町の学校まで往復10kmの道を歩いて3年間通いました。山道を越える途中に高野という集落があり、そこに2人の同級生が居たので合流し、いろいろなことを考え、話し合いながら通った思い出の山道でした。そして、この徒歩通学も、体力・精神力を鍛える上で良かったと思っています。」
 「電気の無い、ランプ生活から解放されたのは、私が高校3年生の秋です。それまで、夜の勉強のときには、小さいカンテラに火をともし顔を近づけて本を読むものですから、学校で友達から、『**君は石油臭い。』などと言われたこともありますが、当時の開拓地の生活は、石油と切り離することのできない間柄でした。ランプ生活というのは、家族の気持ちが、光を中心に一つに集中するという感じはありましたが、食事をするときなど、余裕とかだんらんは無いですね。ただ、光を一つに求めて箸を動かすという、やり方ですよね。ですから、電気がついたときには、すごく楽しく、こういう世界があったんだろうかという感じがしました。」と入植当時の思い出を、しみじみと語る。
 入植した耕地は、譲り受ける前の農家が耕作意欲を失い、4~5年間は荒れはてたままであったので、先ずその土地を耕すことからの出発となった。牛や緬羊(めんよう)・山羊(やぎ)を飼い、堆肥をつくっては畑に打ち込んだ。水田50a、畑80aの経営規模であったが、畑のほとんどは、陸稲を植えて米作りに励んでみたものの、水田と違って陸稲は米の収量が少なく、多い年でも反当たり(10a)5~6俵くらいに過ぎなかった(写真1-2-34参照)。そのころ地域内には、「酪農振興」という計画があり、それなれば一度、北海道で酪農に取り組む姿を自分の目で確かめたいと思い、**さんは研修に出かけたものの、何しろ北海道の広い耕地条件と、酪農依存度からみて、全く内地とは違った取り組み方をしているところから、久万町のこの地域の酪農には限界があるとその取り組みを見合わせたという。
 そこで、学校を卒業すると、父のアドバイスを受けながら、家の10年計画を組み立て、**さんが最初に考えたのが新しい作目への挑戦である。
 彼は、「私たちの入植した周辺には、シイタケ作りの原木であるナラやクヌギが相当たくさんありましたので、この宝庫をうまく使いたいということで、シイタケ作りを始めました。無利子の優遇措置のある農業後継者資金を郡内第1号として借り受けて、生シイタケ作りを始めたのですが、これが非常に成績が良くて、上浮穴郡内一円に広がっていきました。そのころ郡内のシイタケ生産は、乾燥がほとんどでしたから、生シイタケへの取り組みは新しい試みでもあったと思います。」と新進気鋭の当時を思い出して熱が入る。
 材料の豊富な炭焼きにも、そのころ栽培の盛んとなった葉タバコ作りにも、力を入れてきたという。タバコ作りとやさい作りをうまく組み合わせた輪作体系では、耕地が幅広く生かせるし、冬がくれば、仕入れた原木を活用してキノコの発生を促すというように、年間の経営設計を、いつも考えていたという。「ところが考えることは簡単ですが、実際にやってみるとこれは大変でした。栽培の幅や面積が広がれば、それだけ労力も要るし、資金も伴うので、そのやり繰りに頭を痛めました。父は『将来は、お前がやらなければならんので、今のうちから、自分で挑戦するのもいい。』ということで、ある程度の経営はまかされていました。」と信頼で結ばれた父子のきずなを強く感ずる。
 ダイコン作りでは、産直活動(産地と販売店を直結した出荷方法)にも大きな効果をあげてきた。タバコの裏作を利用して栽培してきたダイコンは、品質もよく、当時はこの地域一帯で作られていたダイコンをまとめて加工する「川瀬たくあん」として知られていた。あるとき、たくあんに利用できないダイコンを高知市場に運んだところ、予想以上の高値がついて、「こりゃ面白い、漬物用よりも生食用がいいのでは……。」ということから市場出荷が始まった。そのうち**さんは、市場出荷よりもスーパーなどの量販店対応を考えたのである。高知在住時代の知人を頼って、この計画を持って行ったところ、それがうまく軌道に乗って、長年抱いてきた彼の産直への夢が実現した(写真1-2-35参照)。
 「自分の作った商品に対して、自分で価格のランク付けができるということは、生産者の夢でした。これは消費者の納得のいくような商品構成をつくっていけば、それに値するメリットが必ずあるということを、その時点で考えました。産直するについては、野菜では鮮度を落とさないことが一番ですから、自分の家で鮮度の保てる施設を作り、運搬にも保冷車を使うなどの気配りが、量販店でも理解してくれまして、すばらしい人脈交流となって経営成果があがりました。その当時の私の家へのダイコン需要量は20万本でしたから、自作地だけでは間に合わず、借地をしながら、需要を満たすような努力を10間続けました。」産直を長続きさせるためには、生産者と受け入れ側との信頼関係が大切であり、物事の取り決めには、事前に徹底して話し合っておくことが必要だという。
 そういう体験を経ながら、産直活動に終止符をうったのは、ダイコン産地としての連作障害と、100km行程を6~7時間もかけて往復する重労働の積み重ねからである。そこで今度は、「これまで消費地で10年もお世話になったので、これからは消費者の方々に、高原のすばらしい良さを味わっていただけるような農業の確立を考えようと思いついたのがリンゴ栽培への転換でした。」と語る。
 観光農業やリンゴ狩りにも、いろいろの方法があるが、彼が今一番力を入れているのは、60年から始めたリンゴ園のオーナー制である。「オーナー園というのは、あちこちにも例がありますが、私の場合は、植物と触れ合い、体験していただくオーナー園ということで、これは全国でもあまり例が無いと思います。果物は、秋になれば収穫できるんだということじゃなくて、やはり花のある美しさ、そして夏場の管理、肥料を吸収してどんどん大きくなっていく生長の過程などを、折にふれて見にいらっしゃいませんかと呼び掛けているんです。ところが始めは、呼び掛けてもそれにこたえる人がいなかったんですが、この2~3年前からは、ぐっと増えてきましたね。そしてオーナー樹の契約も、今年は、400口を越しています。」
 「オーナーの木というものは、300個も500個も実の成る大きい木を、ポンとそこに投げ出して、何人かの人を一組にして『あなたたちの木ですよ。』と演出しても、それは、自分の物としては写らないし、お客さまにも理解されないですね。そこで、コンパクトな木に仕立てて、一本一本の木の持ち主になっていただくのです。それには、樹高が3mくらいまでの低い仕立てを原則とするため、既存のリンゴ園を全部切って新しく改植してきました。(写真1-2-36参照)」
 オーナー制を取り入れたのには、一つの動機がある。「地元中学に着任したある先生が、『**さん、リンゴ作りの作業を体験させてくれませんか。』という話があったので『それは面白いですね。』と、その先生に2~3本のリンゴの木を無償で提供しました。そして先生の作業管理を観察しているうちに、『こりゃいけそうだ。』というヒントでオーナー制に踏み切ったのです。ブドウやサクランボの試作も進めていますが、いま長野県の果樹農業大学校に学んでいる長男が、家の経営を継ぐと言っておりますので、せがれが帰ってくれば、半周年的な観光農業ができるのではないかと今から楽しみにしております。」
 都会の人々に青空の広がる久万高原で、おいしい空気を胸いっぱい吸ってもらうためには、将来は、オーナー制をさらに充実させて、ペンション経営を考えてみたいという。「夢は見るもの、計画は立てるもの、目標は必ず達成するもの。」彼の生活信条である。

写真1-2-30 開拓ムラの思い出を残すランプ

写真1-2-30 開拓ムラの思い出を残すランプ

平成5年10月撮影

写真1-2-31 葉タバコの栽培(久万町にて)

写真1-2-31 葉タバコの栽培(久万町にて)

平成5年7月撮影

写真1-2-33 開拓ムラの観光リンゴ

写真1-2-33 開拓ムラの観光リンゴ

平成5年7月・11月撮影

写真1-2-34 千本原開拓地の畑作地帯

写真1-2-34 千本原開拓地の畑作地帯

平成5年12月撮影

写真1-2-35 久万高原のダイコン作り

写真1-2-35 久万高原のダイコン作り

平成5年7月撮影

写真1-2-36 リンゴ・オーナー園(久万町)

写真1-2-36 リンゴ・オーナー園(久万町)

平成5年12月撮影