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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)狭い棚田の土地改良

 **さん(久万町直瀬 大正4年生まれ 78歳)
 上浮穴郡内でも、比較的ゆるやかな盆地の広がる久万町は、水田面積が多く、郡内の水田面積1,450ha(米転前)の半分以上を占める山間部の米どころである。それだけに米作りにかけてきた農家の生産意欲は盛んで、愛媛県内の米作りの平均収量と比べてみても、何らそん色のない実績をあげてきた。ただ山麓(ろく)地帯の水田は棚田が多く、一枚当たりの面積が小さいので農業機械が使いにくい。それだけ手間も多くかかるという欠点があった。そこで、水田のほ場整備を行って、大型機械による農作業の効率化を図ろうという計画が立てられた。
 久万町で、最初にこの事業と取り組んだ本明神地区の例では、一枚当たり2.7aであった水田を16aに広げ、一戸で6か所に分散していた土地を2か所にまとめるという計画が進められた。そして昭和41年から始まった構造改善事業は42年には完成し、10a当たり22人役もかかっていた米作りの労力は、半分以下にまで減少することができたのである(⑦)。
 水田面積が広く、農業依存度の高い久万町直瀬地域では、45年度から水田基盤整備事業の取り組みが始まった。当時、町の農業委員に選ばれていた**さんは、「本当は、明神地域と同じように、40年の最初からやりとうてたまらんかったけど、地域内に反対が強くてあきらめました。忘れもしませんが、そのときには若い者が反対しましたね。50代・60代の人は皆賛成してくれたんですが、若い人たちが反対するので、しまいには、けんか腰でした。」
 「次の計画は、45年からの事業でしたが、基盤整備には5割の補助があり、安い経費でもって土地条件が良くなるので、受け入れたらどうかと希望を述べたのですが、『それには出資せにゃいかん、借財もせにゃいけんのに、何で今、それを取り入れるのか。』と、また反対の意見です。今度は私も、これを見捨てたら直瀬はますます過疎地になるので、これから先の明るい見通しが全く立たなくなる。どうしてもやりたいと頑張りました。賛成半分、反対半分という厳しい対立の中から実施に押し切りましたが、そしたらその後は、次から次と基盤整備をやり出しました。」区画整理を伴った土地改良事業の初めのころは、これまで経験したことのない大型の事業であっただけに、農家の反応も、様々に分かれたようである。
 「直瀬には、小さい棚田がいっぱいあって、1反(10a)が5~6枚に分かれているのもありましたが、それが広くなったので楽になりました。それまでは、せっかく耕うん機を買っても棚田での使いみちには本当に苦労しましたが、耕地整理によって道路は縦横に走るし、大型機械もたやすく耕地まで出入りができるので、米作りが一層楽しくなりました。当時の米の価格は、1俵(60kg)4,000円じゃったんですが、そしたら1反の耕地整備の償還金は、毎年米1俵分ずつで間に合いましたので、補助の残りの借り入れ金は、楽に返すことができました。(写真1-2-26参照)」     
 「私の子供のころの棚田では、みな牛を使って作業をしておりました。親父(おやじ)さんがすき(農耕具)を使う、子供はその牛の鼻面の手綱を引っ張る、鼻やりの仕事を手伝いましたが、この鼻やりの作業は、手綱の引き具合で牛の歩き加減が違い、すきが使いにくいとよく叱られました。牛が真っすぐに歩かなかったり、のろのろしているときには、自分の仕事のつらさを牛にぶっつけて、牛をどづいたり、つらく当たったりしたこともありましたが、耕うん機が入るようになってからは、もう牛と一緒に働くことがなくなりました。」
 **さんは、さきに基盤整備を進めた明神地域の例などを見ていて、土地の基盤整備や区画整理には、土地を深く掘り起こして土を移動させなければならない。その際に出てきた石ころの混ざり具合によっては、耕うん機などの作業機械が早く傷んでしまうので、その石ころを取り除くことが必要だということを考えていた。
 「仕事の請負師には、上っ面だけならすのではなく、耕うん機のツメが入る15cmの深さまでの石は、全部取り除くように注文しました。その作業には、地元側も手伝うということになり、一台の機械に10人ずつの農家が交替で付いて、全部の石ころを拾い出しました。地元の人の作業手間賃はこうろく(無償)でしたから、この石ころ拾いには、どの家でも4~5日間の奉仕作業に汗を流しました。」
 このような、基盤整備や土作りの効果は、すぐ、その後から栽培の盛んとなったトマト作りに大きく役立ってきた。**さんの後継ぎの**さんが、新しい経営主として農林業で生きる自信を深めているのも、一つは、基盤整備後の広い水田がものを言っているからである。
 **さんは、県立農業大学校を卒業した後、一年間は奈良県の吉野林業に林家留学して基礎知識を学び、家に帰ってきた。農業のほかに23haの林地を持つ父親の勧めによるものである。そして、冬の間は林業、夏季にはトマト栽培に力を入れるようになった。
 彼は、「いま私の家では、ハウス栽培のトマトが27aありますが、ハウスでのトマト作りを始めたのは、僕が家に帰った、今から15年ほど前からです。それ以前にも、母が露地トマトを3~4a作っておりましたが、母はいまでも働き者で家にじっとしていることがなく、私のトマト作りを手伝ってくれています。家内は、まだ子供が小さいので農作業を手伝うのは半分くらいですが、いま、私と2人でパソコン教室に通っています。そのパソコンで、収入や支出の細かい数字をキッチリ計算しますと、農林業はちょっとしんどいですね。それでも、ここから逃げ出すことはできんので、今の仕事に生きがいを見出したいと思います。」
 「トマト作りは、今この地域一帯に定着しておりますが、その栽培でとくに心がけているのは土作りです。土の良し悪しが、トマト作りの基本となりますので、山のカヤを刈って堆肥(積み肥)をつくり、それを土に返して根の発育を促す環境づくりを進めています。」と語り、基盤整備によって出来上がった好適な経営環境は、他の地域に比べると若い農業者も多く居て、大型機械を利用した米専業の請負耕作(田植・収穫など)体制なども出来上がっているという。
 直瀬地域の土地基盤整備事業は、昭和45年度計画の36haを始め、その後も順次、新規事業を導入して水田整備を進めてきた。そして57年度の計画終了時点では、地域内水田面積120haのうち、基盤整備の可能な90%の水田は、ことごとく広い面積に一変した。
 また、久万町全域の水田も、愛媛県随一の基盤整備率で、平成5年現在では、水田面積の84%までが、狭い棚田の農作業から解放されている。

写真1-2-26 久万町上直瀬地域の基盤整備後の水田ほ場

写真1-2-26 久万町上直瀬地域の基盤整備後の水田ほ場

平成5年7月撮影