データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)神の森・大師の森

 ア くらしと氏神(三島神社)

 **さん(美川村大川 明治39年生まれ 86歳)
 **さん(久万町上野尻 大正8年生まれ 73歳)
 **さん(久万町菅生 昭和3年生まれ 65歳)
 『久万郷神社のあゆみ(⑱)』によると、久万郷(久万町・柳谷村・美川村・面河村)に41の神社があり、各神社の代表総代で結成された「久万郷神社総代会」が昭和30年(1955年)10月に発足し、昭和55年が結成25周年に当たる。
 総代会結成25周年を記念して刊行された『久万郷神社のあゆみ』は、192ページに及び、25年の単なる記録にとどまらず、孜々(しし)として研さんに努めた総代をはじめとする氏子たちの姿や、くらしの基盤である家庭祭祀のノウハウ、さらには「心の糧」と銘打って氏神と鎮守の森に寄せる人々の思いが収められている。戦後の混乱期に国家神道から神社神道に転換し、ややもすれば氏神信仰が消滅しようとした中で、久万郷では氏神に寄せる熱い心の灯が燃え続けている。戦後の神社神道史としても評価が高い。
 **さんは昭和44年から菅生の三島神社の代表総代として総代会評議員を務め、昭和45年から2期6年間を副会長、昭和51年から3期9年にわたって会長を務めている。
 『久万郷神社のあゆみ』は昭和59年に刊行され、発行者は**とある。**さんの発刊のことばに「……すべてを……**先生に一任……先生はこの会の結成に参画……主事として今日まで育てて下さった……。」と見られる。三島神社に「昭和10年10月19日から44年間勤めさしてもらいました。」という前宮司**さんの、克明な記録が時間の縦軸に、41社の氏子の姿が横の空間に広がりをもって見事に編集されている。
 「家庭での神まつりと先祖の供養がくらしの中心です。それさえ誤まらなければ家庭は円満、心は平和にくらしていけます。」という**さんである。

 (ア)免許をとって軍隊へ

 「松商時代はスポーツはせなんだ。早う出て、早う兵隊に行って早うおやじの手伝いせないかんと思うて。」という**さんのころは「石鉄寮」が上一万にあって、小田慶孝さんらと寮生活をした。「1年生の時に野球が全国優勝しましてなぁ。藤堂・高須・三森の時です。4年生の時にも千葉・亀井・ピッチャー中山で優勝しましてな、鞍懸(くらかけ)部長で。」と懐かしがる。**さんの父親は当時中予運送(トラック運送)で常勤役員(専務)をし、愛媛県木材株式会社久万出張所の役員も兼ねていた。「運送会社へも行くし、木材会社へも行くでね、いずれも戦時中で統合されとった会社なんです。」という。
 学校を出て父親の仕事を手伝った。久万の若者たちの間では自動車の運転免許取得がよく話題にのぼった。「軍隊へ行ってものう、免許持っとったらええらしいぞ。」ということである。「愛媛県には無かったんです。」という試験は、「年に多かって2遍、1遍落ちたら大変でしょ。それで三重県の津市へ行きましてね。どこやら行ったらええぞというニュースが入ってくるんですわいな。」と。神戸もいいが、回数の多い三重県を選んだのである。
 「蛇(じゃ)の道はへび、それに集中しとりますけんな。」と笑う顔は昔の青年に戻るようだ。
 「現役は憲兵隊におりました。昭和14年(入隊の年)に免許もろとりましてな、自動車免許を持って軍隊へ行ったんですわい。得するけれとにかくとっとけと。わたしとこにトラックが5、6台おりましたけんな、毎日に運転教えてくれますのよ。台北の連隊で免許を持っていたのは4、5人おりましたかなぁ?」という希少価値なのだ。「憲兵隊に運転で来てくれやいうことになって分隊長(憲兵少佐)付きの運転手でおった。」

 (イ)人間はかまん、車は傷(いた)めてくれるな

 分隊長は毎晩のようにいろいろな会合があった。「分隊長が私服で出る時は運転手も私服で出るんです。『今晩よい! 私服で行くけれ、そのつもりでおってくれや。』といわれたらしめたもの。」、運転手も別室でちゃんと酒が用意されているのであった。
 「車傷(いた)めてくれなよと。車傷めたら修繕賃が無いけんハッハッ。人間はかまん、車だけは絶対傷めてくれなよと。分かっとりますハッハッ。そんな時代ですな戦時中ですけん。」と笑わせる。
 台湾では台北にずっといた。**さんが2年兵の時大東亜戦争になった。日本銀行(台湾銀行本店)と飛行場の警備が任務であった。その間に憲兵少佐殿を運転したわけである。
 現役満期で1年半ほど久万へ帰り長男も生まれた。今度は召集で朝鮮半島へ赴く。終戦まで漁業の街馬山(まざん)にいたが、又々お酒と縁ができるのであった。
 「今度は暁部隊で岸壁専門、仕事は暗号の解読でね、『門司から○○丸で米をなんぼ、砂糖なんぼ送った。』という暗号が来ますわいな。そしたら倉庫の大将(責任者)に、こうこうで、いつ品物が来ますけれ人夫集めて準備しておいてくださいよと。こういう仕事でした。」という任務よりも酒のことが楽しそうである。「馬山という所は、元は漁業だけの街であった。そこへ造り酒屋でもっとる日本人街ができたんです。ここでは朝鮮半島から満州へひっかけての酒造りをしていたもんじゃから、ぐるり八方なんぼでもあったんですよ。
 『今日は!』いうたら、『さぁどうぞ!!』いうて、わたしみたいにお酒の好きなのはヘッヘッヘッ。造り酒屋の従業員と兵隊だけの街ですからね。」とご機嫌である。歯切れのよい声でおまけに話し上手だから、軍隊の苦労話まで楽しくなってしまう。
 一方では、終戦の混乱期にあってもじたばたせず、大変堅実な一面も見せる。復員の話である。「機帆船が入ってくるんです、港へな。機帆船も来るわ鋼鉄船も来るは、船なんぼでも来るんですわ、内地から。ほじゃもんじゃけん『機帆船でも何でもよい!船盗んで日本へ帰るか。』いう話も出たんですけんどな、『よいそれはいかん。それはいかんぞ。大事(おおごと)がいくけれ、当たり前のいに方をせないかんぞ。』ということにして一度釜山(ふざん)へ行きましてな、順序をふんで帰ってきたんです。終戦1か月で、早い段階でもんてきたんですよ。機帆船盗んで、妙なことやって捕(つか)まったら大事(おおごと)、わたしらの同年兵もソ連へ行ったの大分(だいぶ)おりましたわい。」と。
 **さんを知る地域の人々は「あの人は決断と実行の人です。」といい、「難しい時ほど実力が出せる人です。」ともいう。
 『久万郷神社のあゆみ』発行に関して、その**さんが「全員火の玉となれ。」と号令をかけるくだりがある。
 「総会と第17回研修会」の記録は、まことに美しい文章でつづられており、その末尾で記念誌発行の概略に触れ、ここで議長 (**会長)「これは大事業で、多額の費用を要するので全員火の玉とならねば実現せぬ、よろしく頼むと結んだ。」とある。
 記事の中で、もう一つ目を引くものがあった。三島神社氏子館(写真1-1-26参照)である。ここで会議もし、研修会も開き、25周年記念事業が構想されていった。**さんは、「氏子館は昔からあったんです。いわゆる社務所でね、宮司さんの住宅と一緒になっとるところもありました。三島神社のは何十年もたって古くなっとりましたし、雨はぼる(漏る)。それに狭くて氏子は使えなかったんですよ。」という。それを改築して広げ、氏子にも開放したのである。「昭和49年7月18日の落成式でした。ちょうどその時、わたし感謝状を受けとりまさい。」。**さんは総代会副会長の2期目に入っていた。55歳の時である。三島神社の宮司を44年間勤めた**さんの退職5年前に当たり、神仲持(かみなかもち)の神職と氏子が一体となって敬神崇祖の道を歩んだ姿がしのばれる。「こよなく久万を愛し、また神社を愛した。」**宮司さんは、命がけで成し遂げた「拝殿の建て替え、県文化財指定」に加え、氏子館の完成と『久万郷神社のあゆみ』刊行で有終の美を飾った。

 (ウ)油屋のはしり(*29)、ダットサンのはしり

 「戦後帰って来た時は材木屋やろうかなぁと思っていた。」という。「おやじは材木会社と運送会社やりよりますけん、どうしょうかと考えたんですけど、そのおやじから、『運送会社もええが燃料のガソリンが無い。よい、ガソリンというのは貴重な物ぞ!』といわれましてな、油屋もええことないかということでさい。」と油屋に腹を決めた。石油配給公団上浮穴支部の申請をとり、上浮穴郡全体の石油配給を一手に扱うことになる。
 「一緒に油屋を始めたのは大分つぶれましてな、残っとんのはあまりない。」という。当時、石油も統制で「石油配給公団」の名前がないと扱えなかった。「上浮穴支部の名前で石油もろて、それを切符制で、今からみると馬鹿みたいですが小田の果てまで自転車に乗って、そのころ自動車無いですけんな。」と砂利道を田渡(たど)(小田町田渡)まで運んだ。自転車の両端へ鉄製の籠を付け、1斗缶(いっとかん)(*30)が積めるようにして、1斗入れたり半分入れたりして運ぶのだという。ガソリンスタンドのはしりである。小田往復は半日を要した。
 「しばらくして、愛媛県にそれこそ小さい小型の車を3台もらいましてな、東・中・南予へ1台ずつ分けたんです。正式には運送会社へ渡さないかん車をですな、わたしにとってくれたんですな役職におったもんですけれ。1,000円くらいのダットサン・トラック。エンジンもどこも、傷んどるところはわたしが全部修繕したんですよ、修繕屋が無いんじゃけれ。修繕屋では飯が食えんのじゃけれ。今はもうようしませんが、あのころの車は配線が極めて少なく簡単で、どこが傷んでも見当がついた。」という。配油車のはしりである。
 「油屋になってからは苦労した。」という**さんも、「トラックがだんだん増える、量も沢山扱うようになるわで。」仕事の量も増えていった。石油配給公団時代の名残で小田・参川・田渡から上浮穴郡全体に一手販売をした。「油やりよったんと、農協の関係がうまくいったので、農協の米の配達もやってくれんかとこうなったんです。」という米も上浮穴郡を一手販売、油と米でしまいは運送業なみであったと語る。家業は現在長男に譲り、久万老人クラブの会長、県連副会長として元気にお世話をしている。
 前宮司の**さんは、昭和54年に三島神社宮司を退き、美川村大川へ帰って八柱(やつはしら)神社の宮守りをしている。元村長の養父が社掌(*31)をしていたのを、切り替えで宮司になった由。川沿いの道を毎日神社まで歩くためか血色がよい。
 「**さんのお父さんも総代されていて、大変お世話になったんです。終戦後の町長になってもらいたいと要望があったんですが、60代の前半で亡くなられました。」と。三島神社の境内にそびえ立つ御神木はそれらの一切を見守ってきたのである。

 (エ)心の糧

 **さんは三島神社のすぐ下に住んでいる。『久万郷神社のあゆみ』に投稿されている「鎮守の森と父」について語ってもらった。
 「父と合わせると60年間大総代をしております。」と静かに切り出す思い出話もまた名調子であった。
 「裏戸をあければ亭々(ていてい)(*32)たる杉の巨木を仰ぎ見る神社の膝下(しっか)で生まれ育った父は、産土(うぶすな)の森を遊びの庭として狛犬(こまいぬ)にまたがり、村童たちと鳥居に小石を投げ上げての石占いや木登り等に興じながら、指折り数えて祭の到来を待ちに待った事でしょう。当時、紋付羽織・袴に威儀を正して神事に参列する氏子総代(国家神道時代で久万町村・菅生村・野尻村の旧家・素封家(そほうか)の人々であった)の姿は氏子青年の羨望(せんぼう)であったといわれますが、その威厳に圧せられた父の子供心にも畏敬(いけい)の心が芽生え、憧れの心を抱いて将来像を描いた事も察せられます。……当時の世の常の如く、茶碗の持ち方・箸(はし)の上げ下ろしに至るまで非常に厳しく、毎日のような叱咤(しった)・説諭・教訓の中で『稲や麦を積んだ大八車(だいはちぐるま)は重いものだ、ぼんやり見とったらいかん、見かけたら押してあげい、子供の一押(ひとおし)でも助かるもんじゃ。』、『竹箒(たけぼうき)と鋤簾(じょうれん)を忘れるな、木材を積み終わったら掃除をして帰れ、公道でも近所の人には庭のようなもんじゃ、人の心をつないでおけ。』等の処世訓と人生哲学は、青年期に生家を出で徒手空拳(としゅくうけん)(*33)辛酸(しんさん)をなめつくした体験から生まれたものでしょう。
 また参詣筋であるからと、常日ごろ掃除と美化に気を配るよう耳にたこができるほど聞かされ、特に秋祭りが近づくと、野尻の三島橋から匍滝(はいたき)さんの間を『神輿のお渡り道であるから浄めなければ。』と箒の掃き目が入ることまで口喧(やかま)しかった(写真1-1-28参照)。
 秋の取り入れ後とあってわらしぶ(*34)が砂利道の砂礫(されき)に混じり、これを1本1本取り除くことは根気のいる事で、心の中で幾らかの抵抗はあったものの、不思議なもので終った後の心の清々(すがすが)しさは例えようもなく、やがて夜の帷(とばり)の訪れと共に門提灯に明りを点(とも)すのが我家の習慣となっていました。」
 **さんを訪ねた11月1日は、久万の秋祭りでのぼり旗がはためき、宮出しを翌日に控えて、午後から寄り合いがあるという忙しい日であった。**さんはお父上の教訓を守って、神輿渡御の道端で草を刈っていた。御神木の大スギ(**さんは樹齢600~700年という)の目通り周囲を測るため、カメラと巻尺を持って三島神社へ行く。表参道の古い鳥居に、明治25年大宝寺(*35)井部栄範(いべしげのり)と刻まれている。打ち水で浄められた境内の朝は一段と静まりかえっていた。

   朝涼し 口笛響く 神の森    迫真

 イ 菅生のくらしと大宝寺

 **さん(久万町菅生 昭和9年生まれ 59歳)
 「菅生山大宝寺(すごうさんだいほうじ)が正しいよび方です。中札所(なかふだしょ)も新聞記者が勝手にね、もっともちょうど真ん中ですから正真正銘(*36)の中札所ですわいね。」というのは平成5年9月6日付で愛媛新聞に紹介された大宝寺についてである。
 「わたしの名前も**を改名せないかんのでしょうね、僧名が**。法務局へは宗教法人の代表として**で届け出とるんですが。」と講演などで名前の説明を要することをさす。
 師匠であり父親である先代住職の一字をもらった**さんは、昭和58年から大宝寺を引き継いだ。「父親の師匠は今村完道、これは偉かったんです、学者でしてね。学問一筋に生きて、お寺は名前だけ。その代わりわたしのおやじがお寺はもう全部取り仕切ってやりよったんです。」と。完道-**-**と続くわけである。大宝元年(701年)、文武天皇の勅願による創建(*37)で、のち弘法大師が四国霊場に定めたといわれる。「四国八十八か所の寺の中で元号(年号)をとって付けてあるのはうちだけ、(正確に)歴史が話せる。」のである。「残念ですけど、2遍火災に遭いまして、仁平(にんぺい)2年(1152年)と明治7年でした。建物もすっかり消失してしまった。」のである。
 「遍路宿の面影を残す家並みを抜け、勅使橋を渡ると参道に入る。参道や境内、本堂裏一帯には樹齢教百年のスギやヒノキなどの大木が茂り……巨木群が荘厳さを与えている。」と愛媛新聞は報じている。

 (ア)土地台帳にみる別房の名称

 「大宝寺は山と土地を沢山持っとりました。(菅生の)久万川からこちらの田畑はほとんど寺のもんじゃったんです。20haくらい。それがまあ農地改革によって無くなりました。そうですねぇ、小作の人も全部ではなかったけど檀家でしたね。」という。しかし、大宝寺そのものには檀家はなく、塔頭(たっちゅう)とよぶ別房(わきでら、下寺)が檀家を持っていたのである。
 郷土史の研究者である**さんは、「この西之坊・中之坊・定泉(じょうせん)坊・理覚(りかく)坊・釜田(かまた)坊というのがその別房の名前ですね。」といって土地台帳の写しを見せてくれた。他に上惣門(そうもん)、下惣門もある。大宝寺参道入口の惣門が地名になっており、「寺・古寺・寺の東」なども目につく。久万町そのものが大宝寺の門前町として発展し、街道の宿場として栄えた経違もあるが、菅生の農民が古くから、大宝寺とかかわって暮らしてきたことのあかしである。
 昭和9年生まれの**さんも、子供心に覚えていて「みんなが上米(献上米・年貢米)を持って来る。それの受け答えを全部おやじがしとりました。」という。現在の駐車場が理覚坊跡で、160戸ほどの檀家を理覚坊が持っていた。        
 「あれですね、信貴山(しぎさん)とか善通寺・東大寺あたりも境内に近い所に○○院とか△△坊というお寺を持っていて、それらが本寺を支える役割を持っていたんです。ここが明治7年に焼ける時に12坊ありました。ほとんど半分が境内地にあって(*38)、半分が民家の中にあった(*39)んですね。里の方へ行くと、川からこっちに48坊あったといわれたりします。それを取り仕切るのが惣門であったとも。しかし、現実にないもんですから何ともいえません。それ故、現在、街からの入口に惣門橋が架かり、惣門が建立(こんりゅう)されております。」と。
 江戸時代、大宝寺中興第一世雲秀の時にはじめて住職権がつき方丈がついた。それまでは大覚寺の直末(じきまつ)という格式で、正式には菅生山大覚院大宝寺である。

 (イ)大宝寺の森林(もり)

 「明治7年の火災の時、お山には火が入らなんだんです。ヒノキなんかも何百年かたっとりましたがね。参道もそうです火が入らなんだ、すぐ近くが民家ですからね。」と語る大宝寺のお山は樹齢400年以上といわれる参道の大スギ(写真1-1-31参照)のほか、裏山にはヒノキの古木をはじめ樹種も多い。
 「八木先生もちょいちょい来られて、お手植のマツもこの山に植えられた。」という。人工林率78%の久万にあっては歴史を語る貴重な森林(もり)である。
 「今はスギ林になっとる麓一帯は、昔は肥山(こえやま)とよばれて草場(くさば)じゃった。地域の者が山を持っとったんです。その肥山へ井部栄範さんが次々にスギを植えましてね。」という井部さんは大宝寺の執事(しつじ)(*40)をしていた。明治5年に和歌山出身の住職木嶋堅洲(きじまけんしゅう)を頼って大宝寺へ来た。2年後に火災が発生し、それを機に寺を出て独立した。その間のいきさつはなぞめいていると**さんはいう。
 「菅生山の山林を見てヒントを得たんでしょうね、和歌山というたら木どころでしょう。これは何と木もよく育つ。雨量も寒暖もよく似とるでしょう和歌山と。それで思い付いたんです。」
 最初に井部さんがスギを植えたのは、山の東の方角、大(だい)坊という寺があった辺りで10haほど、今も何十本か記念に残しており樹齢130年くらいになろうという。
 「一面では先見の明(*41)があったんですね。」と井部さんをたたえてこんな話を聞かせてくれた。「お前も植えとけといってスギ苗をみんなにやって植えさしたんですが、これが久万林業のはしりです。それと、こないだ亡くなられた3代目の井部栄治さん、あの方の時代までを栄範さんは既に計算しておったらしいですね。これから50年経ったらこの木がなんぼの材積(ざいせき)(*42)になって、なんぼに売れて、それまでになんぼの経費が懸かって、なんぼの純益が上がるかを計算していた。ほとんど変わらなんだらしい。読み書きそろばんがぱんぱんですけんなぁ。」と力説するのであった。
 お山の一角、若木のところには民有林もあるが、お山の森林で寺の建築はすべて賄えるという。「何建ててもそれは揃う。八十八か所の寺でも撫(な)で掃(は)き(*43)ができるのは大宝寺しかない。」ともいう。大宝寺奥之院といわれる45番札所岩屋寺においてさえ「スギばかりでヒノキがない。大師堂は立派でケヤキ造りですが、ヒノキを必要とする時は全部ここから木を出すんです。徳島の山寺もヒノキはない。ヒノキはやせ地に適しとりますから、豊かな土地は大抵スギを植えます。」と。

 (ウ)モミジ土俵

 八木繁一氏が昭和42年(1967年)-26年前-の秋、大宝寺ヘモミジ探訪した記事が『科学の泉(⑲)』にある。その薬師堂と10本ほどのヤマモミジ・イロハモミジを確認したくて、坊守(ぼうしゅ)さん(*44)には夏からお願いしていた。八木氏への供養の意味もあった。
 その年の11月19日は、モミジには遅すぎてすっかり葉を落とし、冬木立(ふゆこだち)になっていた。しかし、幸いにもそこで珍しい子供の遊びを見たのである。「お墓の前の広場にモミジの葉をかき集めて、高さ30cmくらいの丸い土俵が造られて、その土俵で4、5歳の男女の子供が数人、東西に分かれての相撲の最中でした。モミジの小枝を持った行司まで揃っています。実に可愛らしい遊びでありました。倒れました子供はモミジの葉の中に埋まって手と足が出ているだけです。勝力士はその手をとって起こすのですが、起こすというよりむしろモミジの葉の中から引っ張り出すといった情景です。その度に拍手と歓声があがるのですから、見ているわたしらの方がどれだけ楽しい一時であったか知れません。山の子供たちはこうした大自然の中で思い思いの遊びに、のびのびと、春夏秋冬のよさを存分に味わって、毎日を楽しむ幸いを今も尚持っているのであります。」と。ここには、寛保年間に起こった久万山一揆を無血で鎮めた名僧斉秀(せいしゅう)の墓もあると書かれている(*45)。明治時代までの代々の方丈さんと小僧さんが葬られた墓地だと**さんはいう。
 11月1日に訪ねたモミジは4分(よんぶ)の紅葉(写真1-1-32参照)で、秋祭り宵宮(よいみや)の午後のためか子供の姿はなかった。判読しにくい墓石は傾いたものが多く、お堂も閉ざされたまま、そこで一時(ひととき)をのどかに過ごした八木氏と完信和尚をしのぶばかりであった。

 (エ)念仏の口開けと神幸祭

 「三島神社は大正時代までここが管理権を持っとったんです。ここが別当寺(*46)でね。しばらく鍵も預かっていたんです。菅生地区には小部落が欅(けやき)から始まって槙(まき)の谷の手前まで9部落あったんですが、お正月には念仏の口開けといいましてね、お日待ち(*47)のご祈祷(きとう)をずっとこの寺はしょったんです。そしたらある年、三島神社の田村神主(かんぬし)さんが来られて、『大宝寺さんお日待ちしよんのじゃったらわたしも入れてくださいや。』といわれて、それからは2人が連れ立ってね、坊さんと神主さんが各部落のお日待ちしよりましたわい。学校出ると、おやじが『もうお前行け。』というので、次の神主さん**さんと2人が一緒に行ったんです。欅から北村からこの組から、一方は『はらい給え』でこっちは『佛説摩詞(*48)』でやったもんです。**さんが初めて神主さんとしておいでて就任なさってからです。それまでは、ここが別当権を持っとりましたけん。」という。
 **さんは『久万郷神社のあゆみ(⑱)』の中で、「例えば三島神社の秋祭りにおいては……明治の神社統合後も集落で保存する旧宮を祭場として、おわたり神事を行い、御霊鎮(みたましずめ)と里人の繁栄を祈るという旧村以来の習慣と、神輿(みこし)が菅生山大宝寺に巡幸し、住職と神官とが一体となって神幸祭(しんこうさい)を執行するという神仏習合の世界を現出させており……。」と述べている。
 そのことに触れると、「来ます。そうです。トラックに乗って来るんです。」といって笑う。「本尊さんの前へ据えて、わたしが必ず拝むんです。」と。今年は出張の関係で息子さんであった。
 御幣(ごへい)を持つ神主さんのおはらい・祝詞(のりと)に続いてお坊さんの祈禱が行われる。担ぎ手は揃いの白の法被(はっぴ)である。総代さんも同じ白装束(しろしょうぞく)で昔の紋付羽織・袴ではない。神の使いといわれる天狗(赤)、いかにも石鎚山麓らしく修験者の姿をほうふつさせる。入野の神輿には白い天狗がお供(とも)をしていたから久万山五神太鼓(くまやまごじんだいこ)の天狗が分かれて御神体のお供をするのであろう。神幸祭は午後2時から執行された。苔(こけ)むした老杉が立ち並ぶ幽すいの深山に一際華やいだ光景が醸(かも)し出されたのであった。
 大宝寺の境内にイチョウの大木が2本ある。「根性の木」と八木氏が書いていた。下の1本は鮮やかに紅葉して黄色一色、根元に近い手の届くところにはおみくじらしきものが沢山結び付けられている。お遍路さんだけでなく、地元の参詣者たちの身情・事情の願いが込められているように思う。
 龍神の石像からとくとくと流れ出る浄水で口をすすぎ、ふと目を上げると大きな奉納額がある。郡内の浄瑠璃(じょうるり)大会の番付が書かれている。大正から昭和7年までははっきりしているが、判読できぬものもある。芸事では、昔は浄瑠璃が盛んであったという。上浮穴郡大会とあるから、小田も含めた広い範囲から寄り集まったものであろうが、盛大無事を神仏と祖先の霊に報告する晴れ姿を想像するのである。水で打ち浄められた境内はとこまでも清々(すがすが)しい。
 辻田盛雄氏(住吉神社宮司)が「鎮守の森は一木一草土石に至るまで、神霊の依代(よりしろ)として神聖し……由緒のある樹木・岩石・洞窟・湧水など総てに細心の注意と敬虔(けいけん)な気持ちで汚れぬように保存し……(⑱)」と述べている。まさにそのとおりの聖域であった。


*29:第1号、初物。
*30:18ℓ入り缶。
*31:府県社及び郷社で社司の下に属した神職。
*32:高くそびえたつさま。
*33:手に何も持たないこと。
*34:稲を乾かしたわらから落ちる枯れ葉。
*35:大宝寺が三島神社の別当権を持っていた(別当寺)。
*36 : 全くうそいつわりのないこと。
*37 : 天皇の命令によって国家鎮護を祈願させるために建てさせた。
*38 : 大坊、東之坊、石垣坊、西林坊、十輪坊、東角坊、新坊の7坊。
*39 : 前記の5坊。西之坊、中之坊、定泉坊、理覚坊、釜田坊。
*40 : 事務を取り仕切る者、事務長。
*41 : 事が起こる前にそれを見抜く見識。
*42 : 木材や石材の体積。
*43 : すべての用材をまかなえること。
*44 : 住職の奥さん。
*45 : 土曜日の早朝に、RNBで5分間「季節の手帳」という番組で放送されたもの。
*46 : 奈良時代に始まった我国固有の神仏習合(神の信仰と仏教信仰を折衷して融合調和した)に基づいて設けられた神宮
  寺。
*47 : 組うちが集まり、1年の家内安全・無病息災・五穀豊じょうを祈る年始儀礼。
*48 : 般若心経。

写真1-1-26 三島神社氏子館

写真1-1-26 三島神社氏子館

昭和49年に改築拡張、氏子に開放された。手前左は御神木のスギ、樹齢は800年ともいわれ、土地の人は千年杉とよぶ。目通り周囲は6.6mである。平成5年11月撮影

写真1-1-28 三島神社秋祭り

写真1-1-28 三島神社秋祭り

平成5年11月撮影

写真1-1-31 大宝寺参道のスギ並木

写真1-1-31 大宝寺参道のスギ並木

平成5年11月撮影

写真1-1-32 大宝寺薬師堂のモミジ

写真1-1-32 大宝寺薬師堂のモミジ

平成5年11月撮影