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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(4)復活いよすだれ

 **さん(久万町西明神 大正4年生まれ 78歳)
 **さん(久万町西明神 明治37年生まれ 89歳)

 ア びわ色のイヨダケ

 「四国の軽井沢」と称される久万高原のさわやかな夏、その夏をさらに涼やかに演出するのがいよすだれ。『源氏物語』や『枕草子』などの雅(みやび)やかな平安朝の物語や歌にも登場する伝統のある民芸品(⑦)といわれるいよすだれは、県天然記念物に指定されているイヨダケ(スダレヨシ)で編まれる。ササの1種である。
 **さんはいう。「いよすだれを創作館で作り始めたのは、たしか昭和53年(1978年)ころだと思います。伝統ある素朴な民芸品も時代とともに忘れられようとしていたのですが、わたしたち高齢者が復興し、今日まで伝承してきました。すだれは、前の年の3月に刈ったイヨダケを、長さ・太さをそろえ、選別して編み上げます。手作業のため1日にできるのはせいぜい7枚ほどですが……、ガタンガタンという編み機の音が創作館に響き始まりますと、病気などしておられません。わたしの元気なうちに、次の世代に編み方を教えてやらねばと思いますので。」と。
 イヨダケの刈り取りは毎年3月末に行われ、この山焼きが終ると久万地方にも本格的な春がくるという。露ロコウさんは『創作館十年の歩み(⑦)』の中で、刈り取りを次のように述ている。
 「今年も3月26日、イヨダケの刈り取り作業が露峰のイヨス山で行われました。創作館や役場、普及所など総勢50人が出て、高さ1.5m・直径2~3mmのイヨダケを鎌で丁寧に刈り取りました。
 今年は、雪と寒さでダケの熟れ方が悪く、びわ色にならず不作とのことで、半分ちかくのダケが根元から折れていました。」と。

 イ イヨス山と保護

 **さんは久万町農家高齢者創作館長を3期務めた。その間、創作館創立10周年を迎えて昭和61年8月25日に記念式典・祝賀行事を行い、『創作館十年の歩み』を発刊している。「なるべく天気の悪い日に来なさいや。」という電話のことばは、天気の良い日は仕事で忙しいことを意味していた。
 多忙な人ほど余暇(といったら叱られそうであるが)の活動も熱心なようで、ダンス教室・カラオケ教室など創作館活動ではどれもレギュラーで活動している。若い。イヨス山への道すがら、声をかける人たちの年齢層の幅の広さが**さんの人気を示すようだ。78歳の高齢者創作館元館長には40代の働き盛りもみんな友人である。
 **さんの軽トラックに乗り換えてイヨス山へ向かう山路は、何度かの雨で洗われた林道でわだちの跡が掘れている。スギの美林に感動して「見事な木ですね。1本1本の木に神が宿っているようですね。」とことばを投げかけてみるが、**さんはあまりよい返事をしない。20年に余る営林署勤めもした**さんからみれば、もっと立派なスギや手入れの行き届いた山を知っているのだ。「これが2段林ですけどな、そこまでせんでもええとわしは思うんですが、木は傷むし、山にとってもええことはないし。」という路傍の2段林は少し荒れて若木が痛々しい。「わしの山にはもうちょっと大きいのがあらいな。今はまだ切らんけんどな。」という持ち山は、戦後奥さんと2人で頑張って買い取った山林の話である。すだれ編みの**さんは義姉で、亡くなったご主人が**さんの長兄である。この辺りでは財産を分散消滅させないために長男にだけ相続させるところが多い。
 イヨダケの自生地は久万町露峰イヨス山(標高877mの中腹約750mの北斜面) 1215番地にあり、6.6aの広さである(⑧)。        
 『久万町誌資料集(⑧)』に詳しくイヨダケが記されている。「製簾の竹はイヨスダレ、又スダレヨシであり、径2mm・高さ2mもある。稈(かん)はほとんど枝分れがなく、節は褐毛が密生する。節間は20cm以上に及んで、大分県産の3節間にも当たる程よく伸びている。旧藩のころは大洲藩の所有地であったが、明治維新の際官有地に編入され、更に明治15年1月15日公売となり、西明神小倉強(つとめ)氏の手に移った。」と。
 また、『大洲旧記(⑨)』によればこの竹は昔は露峰の村中に生じて凡そ古銀70貫程も取れた由、そのため村民は次第にぜいたくの風習が生じたので、慶長のころ大洲藩主加藤泰興は産地逓減の計を建て、結局産地を現在のイヨス山1か所に定め、他はすべて開墾の上、ハゼやコウゾを植えさせた。そのイヨス山より産出するものもわずかに藩用の程度で、大阪方面への移出は全く途絶してしまったのであった。
 露峰の旧道入口に「伊予すだれ」の記念碑がある。「……明神村小倉強氏の所有となっておったが昭和24年に文化財として顯彰保存の運動が起こり小倉氏の犠牲的な篤志によって父二峰村に寄付せられ同年天然記念物の指定を受けた。……この地所を一歩離れると自生する小竹の形状を異にする点が不思議とされている。」と刻まれており、イヨス山中腹の自生地が、イヨダケにとって土質や雨量などの生育に適した条件を満たすことを物語っている。

 ウ 販路開拓

 「小倉さん時代は2、3人雇いましてなイヨダケを刈ってすんだら、『できたぞ!荷ができたから来てくれ!』というて帰るとな、この辺りの馬方さんが全部うちそろうてな、朝早うに出て、晩がた馬に着けてもんてきたもんです。そいつを広げて干しよると、『よい!きれいけん取りに行こうや。』いうて、取りよっては怒られたもんです。」と**さんは子供のころを語る。子供心に、それは大変きれいなものだったという。
 軽トラックで運ぶこのころと違って、馬方さんに引かれた何頭もの馬が、びわ色に熟れたイヨダケを背に山を下った。イヨス山へは片道15kmの道のり、イヨダケ運搬は馬による1日がかりの仕事だった。
 「今は、大・中・小とより分ける。」と**さんがいうように、乾燥したダケを選別して倉庫へ保管しておくのであるが、「ここへとてもんて(持ち帰って)干さないかんのがもう、それが苦になるんで。仕事がきつい。年寄りにはできん。足腰の立つ者がやらないかんが、そういう者は現役で働きよるので出てくれんのですわい。」と元館長さんは述懐するのである。「わたしらは、ええとこだけみんなで刈って後は焼いてしまう。」のだという。刈り取ったイヨダケを創作館の周辺で、広げて干す作業がきついようだ。
 製品には、ダケの長さによって、(ⅰ)日よけすだれ(大小)、(ⅱ)建築用内装すだれ(大小)、(ⅲ)小物装飾すだれのほか、壁掛用の色紙・短冊などがある。
 「昔は、干したものを京都の方へ出荷するだけで。」というのは小倉強さんの時代で、すだれ用のイヨダケを乾燥して出荷する商いであった。すだれの本場は平安朝の昔から京都である。1,000余年の歴史をもったいよすだれも、大洲藩がハゼ・コウゾの転作奨励以来衰微の一途をたどった。太平洋戦争のころは山も放任の状態であった(⑧)が、細々ながら経営を続けた小倉強氏のおかげで今日の復活をみるに至った。今では、久万町農家高齢者創作館の目玉商品となり、すだれ編みが生きがいをもたらすまでになっている。
 **さんの語りは続く。「河野町長さんが小田から機械を借りてきたが調子が悪かった。そこで館長時代に大阪から機械を導入した。いよすだれ講習会を開いて技術を磨いたんです。そしたら大阪のキン吉(すだれ屋)が入れてくれといってきたんです。そこで販売ルートを考えましてな、地元の三越とそごうへ依頼したんですよ。ところが、年中やれるものでないとだめということで仕方なくあきらめました。しかし、NHKで一度取り上げられてから注文がきだしましてな、売れゆきもよくなりましたわい。これまでで500枚が最高ですな。」と。生産・加工・販売すべてを自らの手で成し遂げる意気盛んな高齢者パワーは見事というほかはない。
 『創作館十年の歩み』をみると、年次別月別の活動状況が一目で分かる。すだれ作りは年明けの1月・2月の作業である。昭和55年は、7月・8月にすだれを作っているが、この年は5月にNHKロビー展、6月にテレビ愛媛放映があったので、それに合わせたのであろう。「特注分」、「注文品」というのもある。年度によってばらつきがあるようで、まだ安定した出荷には至っていない。

 エ 米はとられんぞよ

 もう一つの目玉商品は正月用お飾りである。**さんは、「お飾りも、もう止みます。」という。「わらが無いんです。米はなんぼでもあるんじゃけど、コンバインで切ってしまうんです。若い者(もん)がですね、昔みたいにいちいち刈って、稲木(いなき)かけて、干して、こいで(*12)、もみすって(*13)いうたら(米作りは)いやちゅうて……。」、コンバインを導入せざるを得ないのである。おかげでわらが入手できぬと嘆く。「わたしが(館長を)やりよる時分にゃ、わたしが全部機械もていて田すいて、(イネを)植えて、わら出しよった。休耕田をあたって(*14)な、米作ってそのわらを使ってお飾りにしよったんです。そしたら役場の係がな、米はとられんぞよいうてハッハッ……、わらだけとりよったんですわい。以前は世話なかった。わら持ってきて積んでくれよった。」という。農業機械が改良され、わらは切ってたんぼにばらまかれてしまう。「今はそうはいかんのです。創作館としてわらを作って、やらないかんのが館長の悩み。」なのだ。お飾りの売り上げは100万円、創作館の大事な財源である。
 **さんの家とは目と鼻の先に創作館がある。昭和52年に、県下第2番目の農家高齢者創作館として設立され、建設委員会のメンバーとして当初からこのことにかかわってきた**さんは、10周年の大事業を館長として立派にやり遂げたものの、事終れりとするわけにもいかぬ。むしろ、館の将来に、困難があればあるほど情熱をかき立てて、これに立ち向かうことは想像にかたくない。イヨス山のイヨダケを手にとって、今年の作柄をみる優しいまなざしに、わたしはそれを感じたのである。

   逢うことは まばらに編める伊予簾 いよいよ我をわびさするかな
                         恵慶(えぎょう)法師(詩苑集)


*12 : しごいておとす。
*13 : 脱穀する。
*14 : 割り当ててもらう。