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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)伐採・切り出しを生業(なりわい)として

 ア 石鎚スカイライン

 **さん(面河村本組 昭和7年生まれ 61歳)
 **さんは美川村で生まれ、小学校へ入る前に現在地の面河村本組へ来た。父親が、隣接する高知県池川町から美川村へ移住し、農林業を生業としていた。
 「おやじはなんでもでける男ですけん、いろいろなことをやりましたな。百姓したり、一時農協へも技術員で出よったりしたんですがね。わしの場合は、どう考えても、これじゃ林業しかない思うて、ワイヤーで切り出すしかない思うて、習うて始めたんです。」という**さん一家は、両親も奥さんも池川町から来ている。道路は美川村から池川町へ通じており、昔から通婚圏であった。
 石鎚スカイラインの開通工事に、昭和40年ころから参加している。木を切って出す請負い仕事である。「スカイラインの長尾根(ながおね)から金山橋(かなやまばし)の間(*10)を除いて、橋からこっちと長尾根から向こうをやった。上の方だけは泊り込みで、行ったりもんたりするのは食糧を運ぶ係の者で。『帰りたい者は帰ってこい。酒や米を持ってこいよ。』というて。10人から12、3人おったですね、2組に分けてやっとりましたから。」という伐採工事は、場が悪い上に突貫工事であった。「怖いすべ知らずの、結婚もして子供もいたが、元気な盛り・血気盛りじゃったけんな。今から思うと大した仕事で、もう一度やれいわれてもあんなこといやじゃわい。」という。「雪が2m積んでもやらないかん、ひどい時は-10℃になるけんな。」ともいい、「これでは、わしも人を殺すかも知れんぞと思うて信心もしだした。石鎚山の周囲で伐採ばっかりしよったけん、それも労災保険になっても仕方がないというような仕事をしよったけんね。そして、特にかすり傷もせず仕事を終えることができたけんね。」という語りの中に、危険だからこそ無事を神に感謝する敬けんな心をみる。
 昭和45年(1970年)に、県営石鎚スカイラインとして開通した山岳観光道路は標高700mの関門から標高1,500mの土小屋まで全長約18kmに及ぶ。この間をマイカーで登れば30分で土小屋へ着く。関門の石鎚登山口から徒歩で3時間を要した昔に比べれば随分時間短縮になり、お山開きの登拝者はいうまでもなく、石鎚・面河を探勝する観光客は飛躍的に増加した。
 開発か自然保護かと世論を真っ二つに分けた大工事であった。自然保護団体の熱心な活動とマスコミの報道でにぎわった昭和40年代前半のことである。

 イ 元切りは趣味じゃけん

 石鎚スカイラインの伐採工事を請負った**さんは、当時観光道路を工事中であった製材会社からの要請で、その後14、15年「そこだけの仕事で、計算して約1億円。」の仕事をした。「当時は材木会社のトラックが積荷に来たので道路まで出せばよかった。」から、伐採と索道を出すことだけであった。その他は、「わしゃ国有林専門で、300(標高1,300m)くらいのとこまでは去年までやった。」というように、国有林にかかわることが多かった。
 「お前、大概にせいよ。」とみんなに言われたけれど「趣味じゃけん、しょうないわいというてな。ええ。」という**さんは今年の1月に腰椎の手術をした。
 入院する直前まで、奥さんに「やりかけの仕事があるけんいうとけ。」と命じて、杖を2本突きながら山へ入るほどである。
 「切って出しよったら、歩けんようになって、もうだめじゃわいと思うてな。」という。断念したのかと問うと、そうでない。「出しといて、もう(病院へ)行きますけんと電話して……。」入院したのであった。
 「元切りは好きですけん、みなやる。」という。この時も営林署から頼まれた。「かなりのケヤキがありましてね、これはわしがやらないかん。」と思いついた。ケヤキを350年とみた。「大きい木がワイヤにかかるけん4mに切らないかんでしょ。けがさしたらいかんけんな。」というケヤキは4m²の面積で8mとれたようだ。「あとは枝じゃけど積んだらトラックに一車あった。倒すんも大変じゃけど、玉切りが大変です。ええ、割らしたらいかんでしょ、割らしたり、欠かしたらいかん。」と。このケヤキ、1本で1,200万円に売れたという。専門家を雇おうかとも思ったが「よし!わしがやっちゃろ。」と入院を延ばして決行したのである。

 ウ 通勤林業も考えたが

 **さんは本組の城山(じょうざん)小学校であった。高等科を卒業したが、学校へ行きながらいろいろと経験した。
 「炭焼きもやったですよ。両親に弟2人・妹と6人でな。女も炭を詰める仕事があるんでな、家族全員でやるんです。」という。雑木を使った。ナラ・クヌギ・カシの面河の炭は名が売れていた。「ええな!と思うのはヒイラギじゃったけど、少量しかできなんだ。窯を二つ築(つ)いて、四つ出せば200俵あった。あのころは木炭自動車が走りよったな。昭和25年ころまでじゃったかな。」と。
 「炭焼きに雑木を切ったあとは焼畑にして、主食のトウキビ(トウモロコシ)や野菜を植えたんです。白菜なんかはええのができよった。」という。「2年作るとスギを植林して、その間ヘミツマタを植えた。スギが成長するまでね。」と自給自足のくらしを説明し、「スギやヒノキを焼いた跡地はだめじゃった。肥料にはならんし、虫がようわくしな。できたトウキビを稲木(いなぎ)にかけて……、いろいろやって百姓がよう分かった。」という。
 「わしゃ林業じゃ。」と腹を決め、25歳で結婚。はじめは共同で請負う林業であった。子供さんが小学校へ入るときには「通勤林業したらええがと一時思うた。」という。
 面河村の過疎化が進むなかで小学校の統合が行われたのである。**さんが通った成(なる)の面河小学校と、**さんの母校である本組(ほんぐみ)の城山(じょうさん)小学校が統合して面河第一小学校となり、その後渋草小学校も面河第一小学校に合併されている。
 「相ノ峰(あいのみね)の人は弱っとりましたわい。わしの知っとる人で、農協へ出よりましたがな、朝は出るときに連れてくるが、終りがちょうど5時に引けんでしょ。朝子供連れて行き、午後に連れに行きしよったら仕事にならんでしょ。結局学校の近くに家建てて、子供は学校と家を行ったり来たりする、親は仕事場へ通勤するという形で。」という。家を建てるのは個人ではなく、村営住宅のことであった。しかし、いずこの統合問題にもあるような、設置場所の綱引きで話がまとまらず、村営住宅の位置もなかなか決まらなかったようだ。
 「統合は難しい、根が残るけんな。結局は自然消滅じゃった。1人や2人になったら、親は下(しも)へ出ようかいうてまず家がなくなる。文房具関係もいなくなる。この辺りではダメージが大きいですよ、いろんなものが消えるんじゃけんな。」と話す。村議を3期務めた**さんもこれで苦労したが、通勤林業は思いとどまったのであった。


*10 : 石鎚スカイライン18kmのうち、長尾根は土小屋から4.4km、金山橋は関門から9.8kmの地点である。計14.2kmにわ
  たって伐採工事をしたことになる。