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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 郡中港の産業・海運の活況①

(1)郡中港周辺のくらしと湊町のにぎわい

 ア 醤油店が軒を並べる

 江戸時代からの廻船(かいせん)問屋として「北國屋(ほっこくや)」の屋号を持つAさん(昭和15年生まれ)方は、明治時代から平成の初めまで北村醤油(しょうゆ)店を経営していた。灘町(なだまち)・栄町(さかえまち)には、北村醤油店以外に山惣、山房、長尾、明関があり、湊町(みなとまち)には松下、福積、浜通(はまどお)りに田中と各醤油店が軒を並べていた。Aさんに昭和30年代の港周辺の様子を聞いた。
 「昭和30年(1955年)ころの港のまわりは、材木のまちでした。製材所も福井、菊山、大西、田中、木村さんなどの製材所があり、港には貯木場(ちょぼくじょう)もありました。材木はトラックで運ばれてきて、小学校のころは木炭車が走っていたのを覚えています。私の店でも昭和28年(1953年)にトヨペットの4輪トラックを持っていました。当時としては購入が早かったと思いますが、馬力が弱く犬寄(いぬよせ)峠は登れませんでした。山惣さんのところも三輪車がありました。」
 当時の港で働く人たちは、製材所以外では船舶への荷揚げや積みおろしをおこなう「沖なかせ(沖なかし)」という仕事に従事する人が多かったという。
 「花かつおの原料のイリコなんかも港にあがっていました。ミカンは木箱でした。沖なかせが、歩み(船に渡している板)の跳ねを利用して上手に船に運び込んでいました。」
 郡中(ぐんちゅう)港周辺には、国鉄通りから連なって製材所や事業所に関連した店舗が集中していた。
 「港のまわりには、製材所や回漕(かいそう)店とともに、沖なかせさんが食事をする食堂、青果店、化粧品店、酒店、衣料品店や履物(はきもの)店などがあり、荒物(あらもの)屋には、船の碇(いかり)とか縄、カーバイト(ランプ)なども売っていました。ポーターブル式の給油所もありました。銭湯も湊湯と五色湯があり、製材のおがくずを燃料に利用していました。」
 子どもたちの遊び場は港だった。
 「港のなかでよく泳ぎました。内港を泳いで渡って五色浜(ごしきはま)に行くのです。港の石垣ではウナギがよく獲れました。石を積んだり木を束(たば)ねたものでウナギを獲ったものです。彩浜館(さいひんかん)の近くには、かき船(牡蠣(かき)を販売する広島から来た船)があって料理を出していました。」

 イ 港の食堂

 戦前から回漕店の隣で料理店を開いていた「谷まん食堂」は、祖父の名前に由来すると、Cさん(大正4年生まれ)は話してくれた。
 「戦前には相生丸(あいおいまる)や寶安丸(ほうあんまる)という定期便があったので、お客さんがよく来ていました。沖なかせの仕事や伊予園芸もあり、製材所もあって、お昼を食べる人が多くて忙しかったです。うどんやご飯、おかずを出していました。昔は光明寺(こうみょうじ)のところにも『おたふく』とか『くろいち』という食堂がありました。機帆(きはん)船が港にあふれ、チップ(木材の小片)や製材を運ぶ新栄丸、みなよし丸という船がありました。夏になると削り節の原料のウルメ、イリコがカマス俵に入れられ、宇和島(うわじま)や九州の五島(ごとう)列島から運ばれてきて陸揚げされていました。伊予園芸は、ミカンやスイカ、ナシ、クリを積み出して、ミカンは木箱で積み込んでいました。伊予窯業(ようぎょう)は、耐火煉瓦(れんが)をつくっていました。唐津(からつ)物(やきもの)は昭和30年(1955年)ころにもありましたが、そんなに多くなかったようです。
 船に積み込んだり、積み出したりするのは、沖なかせさんです。なかせさんは、伊予組、昭和組、金井組、丸一組、丸三組に分かれていました。それぞれ10人ほどいて、全部で50人ぐらいいました。しまい(最終的)には一緒になったみたいです。昭和40年(1965年)ころから自動車の運送に変わり始め、船からの木材が来なくなってから、沖なかせさんも減ってしまいました。」
 港のまつりで一番賑(にぎ)やかだった夏の住吉まつりについて、Cさんと娘のDさん(昭和24年生まれ)は、次のように話す。
 「住吉さんのときに出るお店の数は今より多かったです。五色浜のグランドには盆踊りのやぐらが組まれ、露店(ろてん)があり今よりも賑やかでした。5月5日の春祭りには、お稚児(ちご)さんが五色浜(ごしきはま)から郡中(ぐんちゅう)のまちを歩き、お神楽(かぐら)や餅(もち)まきをしていました。そのときは子どもだけでなく親も着物を着たりして盛装(せいそう)しました。11月には男の子が亥(い)の子(こ)をついて町内をまわり、女の子も一緒にうしろについてまわって、伊予園芸でミカンをもらいました。
 だんじりが出ていたこともあります。前で太鼓をたたき、後ろで三味線(しゃみせん)を弾(ひ)いていました。芸者さんが出ていたこともありました。子どもは、港で遊んでいました。岸壁(がんぺき)もすべり(海に向かって下り傾斜になっている)になっていたし、段々がありました。伝馬船(てんません)を漕(こ)いだり、船の間で遊んでいました。時には海に落ちた子どももいましたが、そんなときは、沖なかせさんが助けてくれました。木材のスギ皮も港に積まれていたので、それで隠(かく)れ家(が)をつくって遊びました。」

(2)戦後復興期からの製材業の活況

 伊予市の製材業は、大正時代に大阪・下関(しものせき)・門司(もじ)方面に丸木材・角材を送るようになり、生産が次第に増えてきた。木材の集散地として発展した郡中港の周辺には、昭和初期に6、7軒の木材問屋があり、上浮穴(かみうけな)郡一円の木材を集荷していたとされる。集荷材のうち小径木(しょうけいぼく)は朝鮮・大連(だいれん)・台湾方面にも輸出しており、一般材は賃挽(ちんびき)加工して広島の呉(くれ)や阪神方面に販売していた。郡中の製材業が活況を呈(てい)するのは、戦後の復興期の木材需要の急速な拡大によるものである。昭和30年代には、郡中には大小あわせて40軒あまりの製材所が集積(しゅうせき)していたといわれている。

 ア 製材所のおがくずは風呂屋の燃料

 福井製材所は、下灘の材木商・海運業から昭和17年(1942年)に製材をはじめ、昭和26年(1951年)に郡中港に製材所を開設した。Eさん(昭和4年生まれ)に当時の様子を聞いた。
 「製材所は、新・日野・木村・菊山・大西・越智さん、谷岡のそぎやさんなどがありました。福井製材所では、福力丸(ふくりきまる)という機帆(きはん)船を持っていましたので、大島や喜多灘(きたなだ)から切り出したマツの丸太を製材して、神戸・大阪に月2回、1,200石(4.5t)から2,400石(9t)ぐらい生産して運んでいました。大王製紙や高松の常盤産業にも、チップにして販売していました。
 原木は西条(さいじょう)や久万(くま)方面の山から買っていました。山の木を運びだすのに、最初は木炭自動車が2台ありました。木材を製材所に運んでからは、ほとんど人力で、原木の皮むきに多いときには30人くらいが仕事をしていました。近所だけでなく下灘(しもなだ)からも人が来ていました。山で買ったものを寸検(すんけん)して整理するのに半日かかったので、午後からの仕事になります。製品にしたものは大八車に積み、船には歩み板を渡して担(かつ)いで積み込んでいました。沖なかせさんが大八車15、16台、朝8時から夕方の5時ころまで、1日がかりでした。
 仕事は本当に忙しかったです。休みは月に1回、毎月15日の四国電力の動力休みの日だけでした。日曜や祭日もなく、船が帰ってくるので休みはありませんでした。お正月でも4日には船積みをしていました。12月31日も昼は働いて夜中におせちを作ったこともありました。山で原木を買っていたときは、山で採寸(さいすん)するため、ご飯を焚(た)いておひつを工場の人に持たせていました。船の人やトラックの人も住み込んでいたので、当時は大家族でした。今は木材市場で原木を買えるから楽になりました。」
 郡中(ぐんちゅう)には、港周辺やまちなかに五色湯、湊湯、日の出湯、亀の湯、梅の湯、塩湯などの銭湯が多く営業していた。「製材所でできる、おがくずはお風呂屋さんの燃料になっていました。」製材所と銭湯とのつながりが、郡中らしい港のくらしぶりでもあった。

 イ 福力丸

 福井製材が所有していた福力丸の昭和30年ころの進水式の貴重な写真が残っていた。内港の防波堤で造船したもので、船にはお祝いの幟(のぼり)が数多く飾られ、餅まきに集まった近所の人たちであふれかえっていた。
 「福力丸に乗って、広島の宮島さんに近所の人や灘(なだ)(下灘)の人たちとお参りに行ったことがありました。」他には、金毘羅(こんぴら)さんなどにも行ったことがあるという。製材所の仕事と船持ちとして海運の仕事にも携(たずさ)わっていた福井製材所の当時の様子がよくわかる。
 昭和30年代の郡中(ぐんちゅう)港から運び出された貨物の大半は、木材製品であり、昭和35年(1960年)には全体の84%を占めていた。愛媛県内でも木材製品の積出量は、宇和島(うわじま)港に次ぐ第2位を占め、松山港を凌(しの)いでいた。郡中港が、製材所とともに発展していたことを示している。
 昭和35年(1960年)に、外材輸入の緊急対策が閣議決定され、昭和37年(1962年)から郡中港へも外材が輸入されるようになった。昭和39年(1964年)の林業基本法の成立以降、木材輸入は全面自由化し、国産材の価格が高騰(こうとう)する一方で、外材の輸入が本格的に進んだ。国産材から外材へと供給構造が大きく変化するにつれて、国産材関連産業の停滞が始まり、その上に、輸送手段も船舶から自動車に替わっていき、伊予港からの木材製品の積出しも激減した(図表3-2-5、3-2-6参照)。

図表3-2-5 昭和30年代の郡中港の海運輸送の推移

図表3-2-5 昭和30年代の郡中港の海運輸送の推移

『愛媛県統計年鑑』から作成。

図表3-2-6 昭和35年の郡中港海上移出入貨物品目

図表3-2-6 昭和35年の郡中港海上移出入貨物品目

『愛媛県統計年鑑』から作成。