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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 ものづくりと流通①

 伊予市中山町は山間部の農山村である一方で、県都松山市と南予方面とを結ぶ交通機関の要衝(ようしょう)でもある。古くから林産物を原料とした手工業品の製造が農家の副業として定着するとともに、周辺の農山村で生産された手工業品の原料や製品の集積地となり、流通の拠点として町内や近郊都市の人々のくらしを支えていた。しかし、次第に外国からの輸入品や石油を原料とした工業製品に押されるようになると、交通網の発達とともにその役割が失われていった。
 ここでは、周囲の林産物を利用してはぐくまれたものづくりについて、紙漉(かみす)き、ワッパづくり、シュロ皮を取り上げ、それらを作っていた人々の仕事や技術、当時の林産物の流通した様子をたどろうとした。
 
(1)紙漉きの仕事

 大洲藩(おおずはん)では元禄(1688~1704年)以降、コウゾの栽培や大洲半紙と呼ばれる和紙の製造を推奨した。宝暦10年(1760年)には紙役所を大洲(おおず)・内子(うちこ)・中山(なかやま)に、楮役所(かじやくしょ)(製紙原料である楮を買い上げて保管し紙漉きをする人に配給する役所)を五十崎(いかざき)・北平(きたひら)・寺村(てらむら)にそれぞれ置き、和紙は専売品(せんばいひん)として統制された。それによりコウゾの栽培と紙漉きは、山間部の農家の副業として行われるようになっていった。中山地区においてもコウゾを原料とする紙漉きは長い間農閑期の副業として営まれてきたが、洋紙を中心とした製紙業の発展等により昭和30年(1955年)ころから衰退していった。
 伊予市中山町平沢(ひらざわ)で昭和35年(1960年)ころまで紙漉きに従事していたHさん(大正15年生まれ)に紙漉きの仕事について話を聞いた。

 ア 平沢の紙漉き

 「私の住んでいる平沢は、明治時代初めころには全戸で紙漉きをしていました。ゆるやかな川があって、水が豊富だったからでしょう。私の家も明治時代から祖父が紙漉きをやっていました。私は、父がする紙漉きの仕事を見習って、小学生のころから手伝いはじめました。子どものときから紙漉き作業を見ていて、ここではこうやるということを父が教えてくれていたので、19歳のときには一人前に紙を漉いていました。紙をうまく漉くコツは、水を汲(く)む時(漉きフネから簀桁(すげた)ですくうこと)に考えてすくえばいいのです。荒いすくい方をしたら、フネの中の水が波のように打ち上げるから、紙も波をうっていて使い物にならなくなります。波をかぶらないように水をすくうことが重要なのです。平沢では紙漉きは主に女性がしていて、男性は立ち仕事(コウゾの皮を晒(さら)す、紙を板に張(は)って乾かす等)でしたが、私の母は体が弱かったので、父や私が紙漉きの仕事をしていました。
 紙漉きの仕事は、副業でした。9月終わりから10月中旬までと、稲刈りを挟(はさ)んで11月中ころから4月までの農閑期にしていました。8月は暑すぎてトロロ(トロロアオイの根からとる粘液のこと)が効かないので紙漉きには向きません。11月中ころから1月までは、コウゾを切って蒸す作業など材料を集めて紙が漉けるように段取りをして、4月まで紙漉きをしました。
 仕事は朝の5時から紙を漉き始め、夜の7時くらいに終えますが、翌日の紙漉きのためにコウゾを叩(たた)く作業に2時間くらいかかっていたので、終わるのは夜の9時くらいになっていました。紙を張って乾かす人、紙を漉く人、コウゾの皮を晒す人というように分担していて、4人いたら大体毎日紙を漉くことができます。」

 イ 紙の材料

 「紙の原料であるカジ(コウゾ)はみんな畑のアド(縁周りのこと)で作っていました。畑の真ん中には麦や大豆(だいず)などを植えて畑の周囲にコウゾを植えていました。コウゾはほとんど1年ものを使っていましたが、3年ものを使うこともありました。コウゾは切るとまたそこから生えてきます。1年で太ったコウゾは剥(は)ぎやすく、2年ものは枝が出て剥ぎにくくて、剥いだ皮も黒いところが残ったりするのでゴミとりが大変でした。このあたりはコウゾの栽培が多く、ミツマタはあまり見かけません。ミツマタは終戦後少しは使ったけれど、大体はコウゾでした。終戦後、パルプも少し使ったことがあります。コウゾはほとんど自家製でしたが、足りない時は近所から購入していました。コウゾは戦争中から昭和22、23年(1947、1948年)ころまで、国からの統制がかかっていたので自由に買うことができませんでした。ミツマタは特に買えませんでした。昭和29年(1954年)ころにはコウゾやミツマタは自由に買うことができるようになりましたが、今でもミツマタは紙幣の原料にするので手に入りにくいです。
 トロロアオイもほとんど自家製でしたが、トロロアオイを作ってくれる農家もいました。トロロアオイは、根を大きく育てるために芯を途中で切って育てます。1年に使う見込みが大体30kgから40kgとわかっていたので、トロロアオイの根をホルマリンに漬(つ)けて壷(つぼ)に入れて囲い、必要な分だけ出して使っていました。」

 ウ 紙漉きの工程

 (ア)コウゾの収穫と皮剥ぎ

 「コウゾを切るのは11月の末から1月くらいまででした。コウゾは乾かしてしまうと剥げなくなるので、切るとすぐに蒸して皮を剥がなければいけません。コウゾを2mくらいに切りそろえたもの(写真1-3-18参照)を釜に入れて蒸し、皮を剥ぎます。コウゾは皮を剥ぐと芯が残ります。コウゾの殻(から)です。殻は今のようにガスがないので、全部焚(た)き物として使っていました。近所の人が皮を剥ぎに来てくれて、手間代として殻をあげていたので、実質コウゾを剥ぐのはタダでした。コウゾは全部お金になっていたようなものです。」
 
 (イ)黒皮剥ぎ

 「蒸したコウゾの皮は、黒い部分を、けずり台と包丁を使って剥ぎとります(写真1-3-19参照)。白い皮は半紙などになる紙用で、削った黒い皮は、ちり紙用に使います。これらは干して乾燥させておきます。」

 (ウ)コウゾを煮る

 「終戦後は、石灰のかわりに苛性(かせい)ソーダを使いました。石灰を入れた釜でコウゾの皮を2時間くらい炊(た)きます。」

 (エ)コウゾの皮を晒(さら)す

 「炊き上がったコウゾの皮は、川で晒します。」

 (オ)ちりを取る

 「皮にキズがあるところは黒くなっているので、それを手で取り除き、白いところだけにします。」

 (カ)カジ打ち

 「4、5寸(約12~15cm)の厚みのカシの木の板の上にコウゾの白い皮をおいて、4、5cm角で長さ70cmほどの四角いカシの木の棒でたたきます。棒は丸いと繊維が切れないので四角いものを使います。2時間くらい、ワタのようになるまでたたきます。大きい工場ではビーターと呼ばれる叩解機(こうかいき)を使っていましたが、私の家ではずっとカシの棒でたたいていました。」

 (キ)紙漉き

 「繊維がバラバラになったコウゾを『フネ』(漉きフネ)という流し台のようなところに入れてトロロアオイを加えて『マンガ』でよくかき混ぜます。マンガは大きい櫛(くし)のような道具です。そして、簀桁(すげた)を使って紙を漉きます。
 簀は傷(いた)むと直して使っていました。簀の糸は切れやすくて、糸が切れたままだと漉いた紙にキズが入ってしまうので、大体1年に1回くらい編み替えてもらっていました。手漉きの障子(しょうじ)紙にはよく見ると、簀の糸の跡が見えると思います。」
 
 (ク)圧搾(あっさく)

 「漉いた紙は重ねていきます。1日漉くとだいたい高さが40cmくらいになります。ジャッキができるまでは、1日漉いた紙を重ねたものに、石の重しをのせて少しずつ絞(しぼ)っていました。軽い石から順番にじわりじわりと石を置いていって絞ります。一度に絞るとやわらかいので紙がねじれてしまいます。」

 (ケ)乾燥

 「水が出ないようになったら、今度は1枚1枚剥ぎとって、板に張(は)って天日(てんぴ)で乾かします。晴れた日なら30分ほどで乾きます。1枚の板を1日5回から6回くらい使用するので、50枚くらいの板を用意していました。乾いた後は定規をあてて裁断します。障子紙や半紙は、耳という紙の端の部分を切り落とします。耳を落とさないのは、傘紙(かさがみ)だけです。」

 エ 紙漉きに大事なもの

 (ア)平沢で最初に水道をひく

 「紙漉きだけは、とにかく水がなかったらできません。私の家ではコウゾの皮を晒(さら)すために、田んぼを池のように掘って竹を敷きます。そして、山の川から水を引いて、その上でコウゾの皮を晒していました。4月になったら竹をのけて田んぼにしていました。
 昔は、水汲みに泉まで行って肩に担(にな)って帰り、フネ(漉きフネ)に水を入れていました。私の家では、昭和23年(1948年)にポンプを使った簡易水道にしました。その当時、平沢には水道を引いているところは、まだ一軒もありませんでした。私の祖母は『孫がこんなことしてくれるとは思わなかった、楽になった。』と言って、とても喜んでくれたことを覚えています。」

 (イ)目がいちばん大事

 「うちでは、傘紙、障子紙、半紙、ちり紙の4種類を作っていました。1日で漉く紙の量は、障子紙で400枚(2分割するので800枚)、ちり紙なら500枚(6分割するので3,000枚)、傘紙800枚程度です。トロロを甘く(薄く)すれば、早く漉くことができます。トロロをよく効かせていたら漉くのが遅くなります。トロロの薄い濃いによって作業の効率が変わります。トロロを効かせると水の漏れが遅くなるので、よく効かせてよい紙を漉こうとすると、余分に時間がかかることになります。トロロを効かせると目の詰まったよい紙ができます。傘紙だと1貫(3.75kg)が500枚でした。
 だいたい1貫200枚で漉いてくれとか、1貫300枚くらいで漉いてくれというように、目方で注文を受けていました。そのように漉くためには目が働かなければ(目がよくないと)、紙の薄い厚いが分かりません。簀の上に載った白さによって紙の厚みなどの見当をつけるのです。もちろん、薄いものや厚いものが混じって目方がかわってしまってはいけませんから、目がいちばん大事です。」

 オ ちり紙がすぐ売れる時代

 「紙漉きの最盛期は、戦前から戦後でしょうか。傘紙は中山や内子の傘屋さんに、障子紙やちり紙もほとんど町内に卸(おろ)していました。昭和25年(1950年)ころで、ちり紙1〆(しめ)(1〆=2,000枚)が800円から900円、小売は1,000円で売っていました。障子紙1本(1本=2,000枚)が8,000円、小売業者で10,000円くらいでした。もののないころだったので、行商に行ってもちり紙はすぐに売れていました。自分で漉いて自分が行商にも行きました。行商は大瀬(おおせ)(内子町)の方まで歩いて行って、親戚の家に泊めてもらっていました。
 私の家では、1年間にちり紙50〆、障子紙20本、傘紙80〆(1〆500枚)くらい漉いていました。半紙は終戦前までは漉いていましたが、終戦後はあまり漉いていません。半紙を漉くにはミツマタを少し混ぜます。そうしておくと墨(すみ)がにじみませんが、半紙類は検査があったので、検査が通らないものは売れないし、買手もありませんでした。障子紙も検査があって、1等から3等までありました。質が悪いと検査に通してもらえませんでした。
 昭和30年(1955年)ころからだんだんと仕事が少なくなってきて、昭和35年(1960年)ころに紙漉きの仕事はやめてしまいました。」

(2)竹のワッパづくり

 竹のワッパとは、竹を薄く削り、炭火で炙(あぶ)って曲げ、桜の皮で縫(ぬ)い止めし、桐(きり)や杉板の底板をつけて作られた器である。竹と木で作られたワッパは、中に詰めたご飯が蒸れることなく保存できることから、主に山仕事などの弁当箱として利用されていた。中山地区では、昭和20年代まで作られていたが、アルミニウム等の金属製やプラスチック製の弁当箱の普及等により製造されなくなった。
 伊予市中山町豊岡(とよおか)で昭和10年代に父親のワッパ作りを見ていたIさん(昭和10年生まれ)にワッパ作りの様子について話を聞いた。

 ア ワッパを作る父

 「私の父がワッパ作りをいつから始めたのかはわかりませんが、昭和17、18年(1942、1943年)ころまで作っていました。父は私が12歳ころに病気で亡くなりましたから、父がワッパ作りをしていたのを最後に見たのは7、8歳のころだと思います。私は小さかったので、ワッパ作りを手伝ったこともありませんが、10歳ほど年上だった兄はワッパ作りを父と一緒にしていました。しかし、その兄も父に続いて病気で亡くなりました。その当時、中山でワッパを作っていたのは、私の家と新地(しんち)の上岡さんの2軒でした。
 ワッパ作りは一年中やっていたのではありません。米作りの終わった秋の終わりから春にかけて農閑期の仕事でした。ワッパ作りの細かいところまではっきりと覚えているわけではありませんが、作る工程は少し覚えています。」

 イ ワッパの材料

 「父が作っていたワッパは、側板(がわいた)には竹と桜の皮、底と蓋(ふた)には桐を使いました。竹の種類は真竹(またけ)です。私の家は竹林を持っていないので、山の人から買っていたのだと思います。山の人に10月か11月ころに竹を切って家へ運んでもらったり、竹を取りに行ったりしていました。『竹を切る時期が大事だ。』という話はよく聞きました。桐の板は生のものを製材で引いてもらい、裏の田んぼにお互いを立てかけるようにして並べて乾かしていました。桜の皮はヤマザクラです。春、ヤマザクラが咲いた時に、どこの山に桜があるということを調べておいて、桜の皮を剥ぎに行っていました。父は桜が咲くころになると『桜の花をよく見ておけ。桜の花をよく見ておかないと、むやみやたらと山に行っても手間がかかるぞ。』と言っていました。」

 ウ ワッパ作り

 (ア)竹割りと削り

 「まず、竹を作るワッパの大きさに合わせて適宜(てきぎ)切っていきます。大きいワッパには竹の太い部分、小さいワッパは竹の先のほうというように、竹の太さにあわせて適宜切って使います。竹を切ったら、おそらく竹の真ん中で割っていたと思います。
 次に、割った竹の青い皮の部分を削って薄くしていきます。胴に布などで出来た腹当てをつけて竹を押さえながら、両方に持ち手がついた刃物(センと呼ばれる少し湾曲(わんきょく)した片刃の道具)を使っていました。削るのは外側の部分だけです。内側に節(ふし)の部分がある場合は節だけ削ります。」
 
 (イ)竹を曲げる

 「削り終わった竹は、炭火を入れた長方形の火鉢のようなところに、竹を渡しかけて温めます。そして、竹の端を道具で挟(はさ)むと、もう一方の竹の端をぐるっと回すようにして輪にして留めます。輪の形を整える道具は使っていませんでした。炭火で竹を温める作業は、下手に炙(あぶ)ったり目を離したりすると焦(こ)げてしまうので、加減が微妙で難しいと思いました。火を使うこの作業は庭先で行っていて、ちょうど寒い時期だったので、通りかかった近所の人が火のそばで体を暖めながら、作業を見たり話したりしていました。
 竹を曲げるために水に浸(ひた)したりはしません。竹を割って削って薄くして、それを炭火で温めて輪にするまでの作業は一日で行ってしまいます。何日かこの工程の作業を繰り返してたくさんの竹の輪を作っていたのを覚えています。おそらく、竹を曲げるまでの作業は、切ってすぐの竹でないといけなかったからだと思います。」

 (ウ)桜の皮で竹の輪を留める

 「でき上がった竹の輪は、桜の皮で縫い留めます。まず、桜の皮にはデコボコがあるのできれいに皮をそいで、通す穴の幅を合わせます。竹の輪に桜の皮を通す穴をあけるのは、ノミのような道具を使います。平たくて薄い彫刻刀のような刃物で、竹に刃を入れると、簡単に穴が広くあくので、桜の皮の先端を尖(とが)らせて、手で順番に穴に通して留めます。」
 
 (エ)底板をつける

 「私の家で作っていたワッパの底板はすべて桐です。底板の桐は製材したものを、一度カンナをかけてきれいにして、底の形は、竹の輪に合うように作っていました。底板を上から入れ込んで、下から竹釘(たけくぎ)を打って留めます。竹釘は削って作ります。竹釘で止める個所の数はワッパの大きさによって違いますが、中くらいのもので4か所くらい、大きいワッパはそれより多く打ってあります。竹釘は金槌(かなづち)で打っていました。ある程度打ち込むと、竹釘の頭の部分がボロボロになるので、そこを小刀(こがたな)で切り落とすと、ワッパの完成です。」

 エ ワッパは入れ子にして、まとめて行商へ

 「うちでは、大中小と3種類のワッパを作っていました。頼まれてお櫃(ひつ)を作ることもありましたが、ほとんどワッパです。ワッパを、個人的に売るものは別ですが、商品として売るものは、南予の人が取りに来ていました。一括して一年分を契約していたようです。ワッパは、順序よく大きいものの中に小さいものをどんどん中に寄せて入れます。そのように入れ子にしてまとめると、大きな目の粗(あら)いドンゴロスという袋に入れて取って帰っていました。私は当時まだ小さかったので、ワッパの値段は残念ながらまったくわかりません。」

 オ ワッパ飯の思い出

 ワッパ飯の思い出をJさん(昭和2年生まれ)、Kさん(昭和2年生まれ)が話す。
 「ワッパの底板は桐の方が、ご飯がおいしいと言っていました。桐の方が水分を適度に吸うからよかったのでしょう。
 昔は4食くらい食べていました。朝昼晩と3時くらいの4食。3時はお茶弁当と言っていました。山の仕事へ行く時、特に炭を焼く人たちはワッパの弁当箱を持って行っていました。平常は麦飯です。竹のワッパは蓋(ふた)も深いから、蓋と底、両側にご飯を詰め、間にたくわんや梅、味噌漬けなどを入れても蓋をすることができます。これを両(りょう)ワッパと言っていました。2食分になっていました。お腹が減っているときには、一度に両方食べて『両ワッパを食べたぞ。』と言っていました。
 私(Jさん)の父親が炭焼きに行く時は、トウキビ飯(挽(ひ)き割ったトウキビを米に混ぜて炊いたもの)を両ワッパにして持って行きました。父親は『わしはトウキビ飯が好きでのう。』とよく話していたのを覚えています。トウキビ飯は、冷めて硬くなっているので、箸(はし)で2cmくらいの幅に分けて、それを生木の枝に刺して炭焼きに使う火で炙(あぶ)って食べました。『焼くとパチパチと音をたてて、香ばしくてうまかったぞ。』と話していました。」

写真1-3-18 収穫したコウゾ

写真1-3-18 収穫したコウゾ

伊予市中山町。平成23年7月撮影

写真1-3-19 黒皮剥ぎの様子

写真1-3-19 黒皮剥ぎの様子

伊予市中山町。平成23年7月撮影