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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)町並みの成立と発展

 上灘出身の宮内九右衛門(きゅうえもん)・清兵衛(せいべえ)兄弟は、寛永13年(1636)に郡中(ぐんちゅう)(伊予市)の灘町(なだまち)を開いた。上灘出身なので灘町と名付けたと伝えられている(③)。その郡中灘町と同じ地名の灘町が上灘の町並みの地名であり、上灘灘町と呼んでいる。江戸時代の上灘村は大洲(おおず)藩の米蔵が置かれ、12か村の年貢米が集められ、船積みされて大坂(おおさか)(今の大阪)の蔵屋敷に送られていた。また山間地域で生産された和紙や櫨(はぜ)・蝋(ろう)などの集散地となり、問屋が店を構え、谷口集落(山地の生産物と平地の生産物の交易によって発達した町)の機能を持っていた。明治9年(1876年)作図とみられる上灘灘町の地籍図(松山地方法務局蔵)によれば、海岸線に平行し上灘川河口付近で直角に曲がり山手へ向う道路の両側に、短冊状の宅地地割りが切れ目なく展開しており、L字形の街村的景観が江戸時代にすでにできあがっていたことを示している。
 明治時代になると、山間地域の生産物は犬寄(いぬよせ)峠を越えて郡中へ運ばれるようになった。上灘からの積み出しは米や和紙から薪(たきぎ)に移り、住田屋・大和屋などの薪炭(しんたん)問屋が阪神方面へ出荷していたという。また晒(さら)し蝋(ろう)業が盛んになり、晒し蝋業者が次々と開業し、大正時代に最盛期を迎えた。明治末期編さんの『上灘村郷土誌』によると、上灘村には卸売業者が32戸、宿屋業が5戸、酒造商が3戸、金貸商が12戸などとあり、中心性の強い都市的集落であったことが分かる。
 大正10年(1921年)には、上灘村に町制が施行され上灘町となる。また昭和7年(1932年)、国鉄予讃線が開通し上灘駅が開業したため、伊予灘沿岸航路は衰退し、上灘灘町は沿岸航路の中継地としての役割を失った。しかし、その後も周辺農山村への日用品販売を中心とする商業機能を保ち、近隣地域から買物に来る人々で町はにぎわった。
 戦後、道路整備の進展とともに生活様式は変化し、平成になってから流通のあり方が大きく変化した。上灘をはじめ双海町内の人々も、自動車に乗って松山平野にあるスーパーやショッピングセンターへ行き、買物をするのが普通になった。そのような変革の中で、江戸時代前期以来形成されてきた上灘灘町の街村的景観も次第に失われていった。