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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)製塩業の盛んだったころ

 波止浜の名を全国にとどろかせていた製塩業は、昭和34年(1959年)に廃止された。製塩業について、**さん(昭和2年生まれ)は次のように話す。
 「戦後、昭和21年(1946年)ごろは、蓬莱町で樽屋をしていた父の仕事を手伝っていました。当時の塩田で使う桶などの道具類を作ったり、修繕していました。材木は久万(くま)などから買ってきて、細工していました。作ったのは塩水をいれる桶(おけ)や勺(しゃく)がほとんどで、日用品はごくわずかでした。塩田で使っていると傷むのが早いので、輪替えなど修繕の仕事がありました。樽屋は波止浜に3軒ありました。あとの2軒は新町(しんまち)と高部(たかべ)にありました。塩田40軒で使う道具の新調や修繕を3軒で分けて仕事をしていました。
 塩田の浜子(はまこ)は、高部や旭方(ひかた)近辺に住んでいて、農業をしながら塩田で働いていた人が多かったようです。塩田が廃止されたため、塩田で仕事をしていた人は、造船の仕事や今治市内の工場や会社勤めになったと思います。また、京阪神方面など都会に出た人もかなりおりました。
 渡し場の北側に専売公社の出張所がありました。また、製塩工場は、現在の来島どっくの場所にありました。昭和30年代までは、塩田それぞれからパイプで鹹水(かんすい)(塩分濃度の濃い塩水)を集めて、製塩工場までパイプで送っていました。そのパイプは石綿管(せきめんかん)で、直径100mmくらいあり、町の海岸沿いに敷設(ふせつ)されて、工場まで通じていました。製塩工場には真空式のボイラーが4基ありました。戦前までは、塩田40軒それぞれで石炭を燃料にして塩を作っていたのですが、戦後は、製塩工場で一括して塩を生産するようになったのです。」
 また、製塩工場で働いていた**さん(昭和9年生まれ)は、塩田や塩業の仕事について、次のように話す。
 「塩田は、波止浜の町の南側の干潟(ひがた)に土手を造って広がっていました。今の波止浜小学校のあたりが一番浜と呼ばれました。塩田では、大工(だいく)(浜大工)という親方に浜子(はまこ)という労働者がついて作業をしました。浜子専業の人は、1軒の浜では1人かほんの数人で、ほとんどは兼業農家の人が作業していました。女の人や小学生が作業することもありました。作業は午後2時ごろから始まります。浜ごとに競争で、土を寄せて固め、桶(おけ)に海水をくんで水槽(すいそう)へ入れる作業、水槽から土をかき出す作業、塩田にばらまく作業などがありました。土は重いので重労働でした。だいたい1時間半くらいで作業は終わりました。塩田で使う土は、新居浜(にいはま)の黒島(くろしま)から運んできた黒土でした。黒土は熱を持ちやすく、塩をつくるのに都合がよいのです。
 私の父は蓬莱(ほうらい)町に住んでいて、塩田で使う鍬(くわ)を作る仕事をしておりました。樽(たる)を作る**さん方と近く、新品を買いに来たり修理に来た人は、一度に用事を済ますことができました。作業で使う鍬は桜などの堅い木でできています。西条(さいじょう)や小松(こまつ)、観音寺(かんのんじ)(香川県)や高知、さらに専売公社の紹介で宮崎県にまで材料を買い付けに行くこともありました。常時2人の職人がいましたが、夏になると職人を倍に増やして仕事をしていました。できた鍬をそれぞれの浜に納めます。私が小学生のころ、父の代わりに『できた鍬を受け取った。』という印(しるし)の判を大工さんからもらうために、40軒の浜を回ったことを憶(おぼ)えています。
 私は中学卒業後、製塩工場で昭和34年(1959年)まで10年間働きました。機械やポンプ、タンクなどの修繕(しゅうぜん)を主に担当しました。ポンプの軸が磨耗(まもう)したら新品に取り替えるなどの仕事です。夜中に機械が故障したというので、出て行って修理したこともあります。
 製塩工場は塩業組合の経営で、私のような修理工のほか、塩の分析係、工場現場でバルブ操作、事務所の人など、交替要員なども含めて全部で50人くらいは勤めていたと思います。近辺に住んでいた人がほとんどですが、小部(おうべ)(今治市波方町の西部の集落)や九王(くおう)(今治市大西(おおにし)町の北部の集落)からも数人来ていました。戦後の引き揚げで帰ってきて、事務所の役員をしていた人もいました。現場では1日3交替(8時間勤務)で仕事をしていました。ボイラー機関部、電気部、煎熬(せんごう)(塩を製品化する)部、修理部などに分かれていました。修理部では、他が休んでいる時に、壊れそうな箇所を先回りして修理しておくのです。
 昭和15年(1940年)から真空式製塩法が行われるようになり、製塩工場に4階建ての建物を作りました。今の波止浜興産本社のある場所に鹹水(かんすい)(塩分濃度の濃い塩水)を集め、そこからパイプで送り、製塩工場まで送っていました。
 工場の構内には25m四角の水槽が16基あり、そこに貯蔵していました。パイプラインがはりめぐらされ、水槽からポンプで吸い上げます。水槽から吸い上げるパイプが壊れると、修理のため水槽の中に入ることもありました。濃い塩水ですから、比重で体が浮かんでしまいます。水槽は深さが5mくらいありましたが、泳げない人が誤って転落しても、沈むことはありませんでした。
 水槽から吸い上げた鹹水(かんすい)は、温水槽(そう)で加熱します。熱源はボイラーで、3基ありました。燃料は石炭で、当初は石炭ガラでしたが、途中から微粉にしてボイラーに吹き込んでいました。後で重油を燃料にするようになりました。ある程度暖めて、真空管に入れると沸騰(ふっとう)点が低くなります。工場の建屋に瓢箪(ひょうたん)のような形の真空管が4本据(す)えつけられていて、原動機が1番上にあり、温水槽からきた鹹水を真空管の中で循環させます。真空管を通っていく間に、塩は結晶になって沈殿します。途中のバルブを閉めて塩を下側へ落とし、遠心分離機で脱水してベルトコンベヤーに載せて運ぶと、塩の山ができます。それを5人くらいの人手でカマス(袋)に入れるのです。
 機械は24時間運転、しかも1か月とか2か月ほど連続運転していました。当時は毎日60kg入りのカマスで800から1,000俵ほどの塩ができました。塩の入ったカマスは波止浜港内の海岸にある倉庫に山積みしていました。
 塩をつくる時、『苦汁(にがり)』がたくさんできます。その『苦汁』に塩素などを混ぜて、農薬や肥料を製造していました。臭素(しゅうそ)、コールドパーマの原液や写真の感光剤なども作ることができました。製塩工場と県道をはさんで、『波止浜化学』という会社があり、そのような関連事業をしていました。埋立てで使う石炭ガラを集めて、レンガを作っていたこともあります。」