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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)町並みの成立と発展

 波止浜の名は、江戸時代、町場を波止町(はしまち)、塩田を浜(はま)と呼んだことから、合わせて波止浜と呼ぶようになったという。もとは波方(はがた)村(のちの波方(なみかた)町)の一部であったが、江戸時代には、塩田の発展とともに波止町に年寄(町の自治を担当する役人)、浜に庄屋が置かれ、独立した村の体裁をとっていた。波方村から正式に分村したのは、明治13年(1880年)である。明治22年(1889年)、町村制実施により周辺の杣田(そまだ)村や高部(たかべ)村、来島(くるしま)村とともに波止浜村となり、明治41年(1908年)には町制を敷いた。昭和30年(1955年)に今治市と合併し、現在に至っている。
 波止浜の始まりは、天和3年(1683年)、長谷部九兵衛(はせべくへえ)によって県内最初の入浜式塩田が完成したことによる。塩田はその後も拡張され、製塩とそれに関連する仕事に従事する人々が、塩田の北側に町場をつくった。波止町には塩田地主や塩問屋、廻船業を営む者が居住し、浜には塩生産の現場責任者である大工(だいく)(浜大工)と、その支配下にある浜子(はまこ)が住んでいた。江戸時代後期になると、石炭が塩釜の燃料として使われるようになって、北九州から石炭を運ぶ船が入港した。
 江戸時代の波止浜は製塩の町であったが、同時に瀬戸内海航路の潮待ち・風待ちの港町としても発展していた。また四国遍路の途中、大三島(おおみしま)へ渡る遍路が波止浜港を利用した。現在も龍(りゅう)神社の北側、本町通りの南端に文政13年(1830年)建立の道標が残されている。明治後期から昭和戦前にかけて、帆船から機帆船や汽船の時代になったことや、今治港が整備されたことにより、港の機能をしだいに失った(①)。
 造船業は、明治35年(1902年)に設立された波止浜船渠(せんきょ)が始まりで、同社は大正13年(1924年)からは鋼船の建造も始めている。第二次世界大戦中から戦後にかけて造船所が次々と設立されたが、これらは木造船から鋼船の建造に切りかえて発展していった。昭和40年(1965年)の調査(②)によると、波止浜湾岸には鋼造船所9工場と木造船所1工場が立地している。
 昭和34年(1959年)に塩田が廃止されたあと、塩田跡地の利用が進められた。塩田北部・西部・南部は埋め立てられ、宅地が造成され新興住宅地が形成された。道路網も整備されて、龍神社の南一帯の塩田跡地に公共施設や金融機関、商店や事業所が立ち並んでいるが、これらの中には、波止浜の町並みから移転してきたものが多い。塩田の中部はゴルフ練習場や自動車教習所になった。これに対して波止浜の古い町並みは、道路が屈曲して狭いこともあって急速に商業機能が衰退し、現在では家屋が取り壊され、更地(さらち)や駐車場があちこちにみられる。