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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)伝統を継承する

 ア 家訓「剣道を通して無償で人材育成」

 「<**>この道場は、初代館長の藤田初右衛門さんが、近郷近在の剣道を志す人々をみな集めて、身分に関係なく無償で剣道を教えたことから始まっています。以来、『剣道を通して無償で人材育成』という藤田家の家訓が200年も続いてきたのですからすごいことだと思います。剣道場を開いた初代館長の趣旨が、現在の6代目館長まで脈々と受け継がれてきたのです。このように歩んだ個人道場は、全国的にもめずらしいのではないでしょうか。

 <**>個人道場は方々にあると思いますが、ほとんど1代か2代です。有名な師範のもとに多くの門下生が集まっても、その人が亡くなったら道場はそれでおしまい、というようなことが多いのです。今治に昔、克明(こくめい)館という藩校があり、その道場に有名な先生がおられ、明治・大正生まれの今治の高段者はみんなその人に習ったのですが、その人が亡くなられたらその道場もなくなりました。岡城館のように、個人道場で子孫に代々館長が受け継がれ、200年も続いているところはないでしょう。

 <**>現在、県内に個人道場はありますが、比較的新しいところがほとんどです。

 <**>個人道場は剣道の塾のようなもので、月謝をとって教えています。個人が無償ではできないのです。」

 平成21年度、愛媛県剣道連盟に加盟している県下の剣道場は、全部で95か所ある。

 イ 岡城館は朝稽古

 岡城館は朝稽古(げいこ)が伝統という(写真2-3-11参照)。稽古について、みなさんは次のように話す。

 「<**>私が中学生のころは、年中無休で毎朝稽古がありました。朝稽古は6時から7時までです。門下生は学校に行く前、指導員の方は勤めに出る前に道場で毎日1時間、稽古に汗を流していたのです。そのころは、朝起きるのが大変でした。しかし私が中学3年生になった昭和46年ころから火・木・土・日の週4回の朝稽古になりました。

 <**>毎朝の稽古は私が入門した時(戦前)からずっと続いていました。

 <**>私の息子は小学校2年生の時に入門しましたが、真冬でも毎朝5時に起きてここに通いました。真っ暗な中、歩いて道場に来て、凍てつく道場で素足稽古をするのですが、後に息子はこれにより相当鍛えられたと感謝していました。

 <**>うちのように毎朝稽古をしていた道場は、全国的にはめずらしいらしいのです。ほかでは週4回くらいで夕方の稽古が多いようです。岡城館でも諸般の事情を考慮して毎日の朝稽古はなくなり、現在は火・木は夕方の稽古、土・日は朝稽古となりました。朝稽古の長い伝統があるので、土日の朝稽古は残したのです。子どもたちは眠たそうに目をこすりながらも出てきています。朝の稽古は7時から8時半までです。

 <**>稽古時間は1時間では足りません。基本からいろいろやっていると、最低1時間半は必要です。子どもに稽古をつけた後に大人も自分たちの稽古をするのですが、朝は出勤時間の関係で時間がとれません。夕方なら多少遅くなっても時間があるので、平日は夕方の稽古になったのです。

 <**>私らの時は、6時から7時の1時間しか稽古時間がありませんでした。しかも現在の道場より狭かったので(建物の大きさは同じだが、畳の部分が広く、稽古に使う板の間の部分が現在より狭かった。)、5時半ころに来て畳の部分で着替え、6時になったら先生方が前に立ってくれるので基本稽古も何もなく、順次かかり稽古をつけてもらいました。毎日それの繰り返しです。当時は子どもの数が多かったので、順番に並んで待っていたら、せいぜい3人くらいの先生にしか稽古をつけてもらえませんでした。ひどいときには1回も先生にかかっていけない子もいたのです。

 <**>多いときには小学生・中学生合わせて50~60人はおりました。ぎゅうぎゅうだったので、寒い冬の早朝でも暖かかったです。これだけの数になると、道場に全員は入れません。せっかく来ても、中で1回も稽古をしないで帰る子もいたのです。

 <**>剣道には、面・胴・小手がありますが、門下生が多かった時期の岡城館は、胴技は幅(場所)をとるので、面と小手の稽古しかできなかったのです。

 <**>『岡城館の子は剣先が上がっている。』とよく注意されました。普通は剣先の延長線が相手の喉元(のどもと)に行く構えをするのですが、岡城館は稽古場所が狭く、間合いが詰まっているため、指導員の大人の喉元むけて構えるとどうしても剣先が普通より上を向き、それが癖になったのです。

 <**>私は昭和44年(1969年)にこちらに帰ってきて子どもの指導をするようになりましたが、そのころから大会で勝つために、技の練習に加えて体力をつける稽古もするようになりました。だから1時間の稽古時間では足りなかったのです。戦前から戦後しばらくの稽古は、指導者の技を見て盗み、体で覚えていくような感じでした。今は指導者が個人個人細かく指導してくれます。

 <**>戦前の剣道は、組み打ちまで認めていました。例えば竹刀を落とした場合には、直ちに相手に飛びついて組み打ちをするのです。そういうことが普通に行われていました。かなり実戦に近く、剣道が荒かったのです。つばぜり合いから相手に足をかけて倒し、打つこともありでした。今は全部反則です。反則が規定されたのは戦後です。スポーツ化が進み、規則が細かくなりました。
 それと岡城館に女の子が入門したのは、戦後のことで、昭和40年代です。

 <**>もともと剣道に女の子は少ないのですが、今はどこの道場でも女の子が入っています。

 <**>小学生には女子チームはありません。小学生の間は男女間に体格や体力差があまりないので、試合は男女一緒です。中学生になって初めて男女に分かれるのです。

 <**>現在、岡城館には小学生2人、中学生2人の計4人の女の子がいます(写真2-3-12参照)。大人の女性は稽古には来ませんが、合宿などの時には手伝ってくれます。今年(平成21年度)のインターハイ(全国高等学校総合体育大会)に、うちの出身者から男子1人、女子2人が出場しました。」

 道場の指導体制については、次のように話す。

 「<**>20代、30代は仕事に子育てに忙しい年代です。私の場合も学校を出て東京に行き、社会人実業団で4、5年剣道をやり、30歳前にこっちに帰ってきました。その後、18年ほど剣道から離れていました。仕事や子育てに追われ、なかなか道場に来ることができなかったのです。現在の指導部も40歳代、50歳代がほとんどです。道場に来る大人は全員指導者ということで、子どもに稽古をつけています。1時間半は子どもの指導、大人同士の稽古はその後の10分か15分程度なのです。現在指導部の大人は10人弱で、道場生の子どもは25、26人です。現在は多喜浜地区だけでなく、川東(かわひがし)地区一帯、宇高(うだか)あたりからも来ています。

 <**>昔は川東地区にも、神郷(こうざと)剣友会とか垣生(はぶ)剣道会など各地域に剣道会があったのですが、現在はうちだけになりました。ここ10年くらいの間です。

 <**>昔は毎朝自転車か徒歩で稽古に通っていたのですが、今は交通事情も悪いし不審者もいるので、子どもの安全面から親が送り迎えをするようになりました。指導部は仕事や家の都合もあるので、OBが互いに協力、交代しながら10人くらいの体制で指導を続けています。

 <**>大体5人くらいいれば日常の指導はできます。ですから10人もいれば、何人かが仕事や家の都合で来られなくなっても、あとの者で指導ができるのです。」

 岡城館の指導方針および指導する喜びについて、現指導部長の**さんは次のように話す。
 「普段指導している者として、『剣道を通じて、立派な大人になりましょう。』ということを子どもや保護者によく言います。まずは礼儀作法、あいさつができる、大きな声で返事ができる、そういうことを常々言っています。最近感じることは、子どもはすぐできるようになるのですが、親ができていないことが多いのです。しかし子どもができるようになると、親もだんだんできるようになります。親子とも岡城館で学び、成長しているのです。
 1月2日が稽古始めですが、その時に道場を巣立っていった子どもたちがやってきて、後輩の指導をしてくれるのを見ると、岡城館の歴史が継承されていると感じ、うれしくなります。指導者として、長い岡城館の歴史を継承しないといけないというプレッシャーはあります。自分が指導しているときに長い伝統を途絶えさせてはいけませんから。4年前の大水害のときは相当な危機感を持ちましたが、そのときも門下生や地域が一体となって復興できました。今指導している子どもたちが、30歳、40歳になったときに、また岡城館に帰ってきて後輩の子どもたちの指導をしてくれたらありがたいなと思って指導しています。」

 ウ スポーツ多様化時代の剣道

 武道としての剣道について、次のように話す。

 「<**>ほかの武道に比べると、剣道は武道としての部分はまだ多く残っていると思います。学校体育から見るとスポーツでしょうが、指導者はスポーツとは思っていないと思います。剣道の理念に、『剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である。』(1975年全日本剣道連盟制定)とあります。人間形成というのはどのスポーツでも言いますが、剣道はその性格がより強いと思います。

 <**>ほかのスポーツは勝つのが目的ですが、剣道は勝つのが目的ではありません。あくまでも人間修養が目的なのです。

 <**>剣道はオリンピック種目にはなっていません。聞いた話ですが、剣道はオリンピック種目になれるくらい多くの国々に普及していますが、オリンピック種目になると、どうしても国の威信をかけて、勝つのが目的になってしまいます。しかし剣道は勝つのが最終目的でないのでオリンピック競技にはならないのです。オリンピックの柔道を見ていると、勝ったらガッツポーズをしていますが、剣道ではそれをすると失格になるのです。少年剣道でも、試合前と後のあいさつ、敗者に対しても相手を称(たた)え敬意をはらうことが大切な教えなのです。そういう点では、武道の精神を剣道はしっかり受け継いでいると思います。武道かスポーツかというと、武道のほうに近いのです。

 <**>2、3年前に人から聞いた話ですが、韓国でも剣道が非常に盛んで、近年は日本の剣道家も圧倒されるくらいレベルが上がっています。しかし韓国の剣道チームが日本に来て感心するのは、試合や稽古の礼儀作法だといいます。防具をつけるときの所作や礼の仕方など、とても真似(まね)できないと韓国の指導者は感心して帰っていくと聞きました。日本では、ただのスポーツ競技ではなく、本来の剣道の伝統や教えが身についているということでしょう。

 <**>全剣連の審判規則は次々と変わりました。規則の中に武道と競技の考え方が混在するのはいけないということで、何回か改正をしたのです。武道の精神をなくしたらいけないとか、競技であるからきちんとルールを規定するべきだとか、いろいろ意見はありました。

 <**>今度学校でも、剣道、柔道、相撲のどれかを履修することになったそうです(平成24年度から中学校体育で武道が必修になる。)。

 <**>これはなかなか難しいです。私は新居浜工業高等専門学校で4年間剣道を教えたことがあります。各年度半年間、週1回、時間数にして15、16時間で剣道とはどういうものか教えてくれというのです。無理なことですが、仕方がないので最後の何時間かは道具もつけてやるようにしました。廊下で先生に会ったら会釈をするとかいった礼儀については一生懸命指導しました。剣道は礼に始まり礼に終わるので、そのへんから教えないといけないのです。現在の教育に武道教育は必要だと思いますが、学校教育で剣道を教え、理解させるには、かなりな時間が必要なのです。」

 スポーツ多様化の時代における剣道について、次のように話す。

 「<**>岡城館では、チーム編成がままならないほど門下生が減った時代がありました。

 <**>私が60歳の定年でこっちに帰ってきたとき、道場生は3、4人くらいでした(平成8年ころ)。それでもなんとか続けてやっていました。

 <**>全国的にも少子化とスポーツの多様化で、剣道をする子どもは減少傾向が続いています。

 <**>われわれのころは、小学校3年生か4年生になると竹刀をある程度振れるようになるので、そのころに剣道を始めた人が多いのですが、今は少子化の影響で野球などほかの競技との取り合いです。うちも小学校に上がった子は預かりますが、1年生や2年生は礼儀作法やあいさつを中心に教え、竹刀は遊び程度に振らせるだけです。3年生か4年生になり、体が大きくなると剣道の基本をしっかりと教えるという方針でやっています。市内の他の道場は、小学生の指導だけのところが多いのですが、うちは中学生も指導しています。中学生は川東中学校の剣道部に所属していますが、火、木、土、日曜日は岡城館の稽古日なのでうちであずかり、それ以外の日は中学校で稽古するように顧問の先生と相談して決めています。」

写真2-3-11 朝稽古

写真2-3-11 朝稽古

新居浜市郷。平成21年11月撮影

写真2-3-12 小さな子も女の子も

写真2-3-12 小さな子も女の子も

新居浜市郷。平成21年11月撮影